恐れおののき
ルカによる福音書24章36〜43節
 九日(水)は、聖研祈祷会でした。運悪くその日は、大型台風二四号が東シナ海の五島列島を北上して九州北部に接近していました。
五時前に目覚めた私は、落ち着かなくて東の空を見詰めていました。関東ならば、もう空もお目覚めのはずですが、ここ堺の空は、薄墨色の雲が折り重なっていて、瞬間的に強い風が吹き込んできます。近づいているな、と思いました。間もなく東の空一帯が赤黒い雲に変わってきて、ちょっと不気味な朝焼けが広がってきました。さらに時間と共にあたり一面が深紅の薔薇色に染まっていき、窓の外の電信柱がゴルゴダの十字架のように迫ってきたのです。不気味だが、ちょっと美しくもある、この矛盾した空の色彩の移り変わりにしばらく見取れていました。台風の目はとうに消え失せている。この空の奥には太陽があるはず。おはよう、台風殿、できたら今日は静まっていてくれ。でなかったらなるべく日本海の沖へ離れていてくだされ。なにしろ大切な聖研祈祷会があるのです。大雨になったらずぶぬれで、往生するんです。頼む、太陽、顔を出せ、仲良くしようぜ。
 午前十時、猛烈な土砂降りになりましたが、
やがてぴたっと止んでくれました。聖研祈祷会が始まりました。たちまち真夏日、猛烈な湿気、汗ばんだのです。集会室では、クーラーのドライを入れました。こんな天気になるなんて信じられない。でも歓迎したのです。
 私どもは、時折、こんな経験をします。
「信じられない。
 でも、この光景は、本当なんだ」。
 今日のテキストは、復活したイエスさまが弟子たちに顕現する(現れる)幾つかの場面です。みなさんがよくご存知のように、誰もイエスさまの決定的な復活の場面を見てはいない。ご遺体はなかった。そこにあったのは空っぽの墓だけだった。が、「主は復活された」、 という天使の言葉を直ちに信じたのは女たちだった。その報告を聞いても男たちは相手にしなかった。このことをどう受け取ったらいいでしょうか。生前のイエスさまは、復活を明言されていました。にもかかわらず十二弟子は、信じなかった。いいえ、忘れてしまった。信仰とは聴いて従う、聴従のことですが、復活については男たちは、受け入れていなかった、あるいはちゃんと聴いていなかったことがはっきりしています。イスラエルの独立を旗印にして革命を起こして立ち上がる民族解放戦線のリーダーであると信じたかったのです。ですからイエスさまが十字架から降りることもなく、処刑されていったとき、弟子たちは愕然とし、しかも深い絶望に襲われた。さらにイエスを崇める残党として官憲に追跡されるのを恐れて、みな一箇所に固まり、扉を固く閉ざし、身を潜ませて、酒浸りになってしまった弟子もいたに違いありません。この不信仰こそ私どもの弱さなのです。肝心要の決定的な精髄を受け入れていないのが致命的です。女たちも同様です。ご遺体に油を注ぐために墓場に出掛けただけです。しかも朝早く出掛けたのでした。
 各福音書の復活の場面は、それぞれ微妙に食い違っていますが、大切な部分は一致しています。今取り上げたルカ福音書は、エルサレムからエマオへと歩いていた二人の弟子が一緒に歩いている人がイエスさまであると気が付かずにエマオの自宅に泊まっていくように勧めていて、その人がイエスさまだと気が付き、急遽エルサレムへ引っ返したという楽しいようなユーモラスなお話が登場しています。
 このようなユーモアは、ルカの豊かな筆力の成果ですが、描かれた内実は、歴史に残る奇跡であり、預言が成就された現場なのです。
 テキストは、36節からですが、小見出しは、「弟子たちに現れる」です。先に述べたように、一箇所に閉じこもっていた弟子たちは、官憲の追跡から逃れるのに必死になっていて、肝心要のイエスさまの復活の預言は、まったく頭の中に残っていなかった。
 ところが、36節「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のです。平和どころではない。身を隠すように、怯えて、皆で蹲っていた弟子たちは、呆気に取られてしまった。平和だって、とんでもない、それどころじゃあない。が、あっ待て、あっ、イエスさまだ、ああ主よ、と叫んだが、急に寒気に襲われた、まさか、否、ほんとだ、イエスさまだと、思ったとき恐怖でがんじがらめにされたのだ。37節、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」 三八節、「そこで、イエスは言われた。「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」 「信じられない、イエスさまだ」と思っても、依然として、そんなことがあるはずがない。死者が甦るなんて、まさか、そんなことが、弟子たちは、信じたくても信じられない。恐怖のほうが大きくなり思わず後じさりしてしまった。
 39節、イエスさまは、ここでユーモアを込めて、サービス精神を、そして茶目っ気ぶりを発揮しました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こうして福音書を読んでいると、思わずおかしくてうふふっと笑ってしまうのですが、もし私どもがこの現場にいたら、おそらく体全体がこわばってしまって身動きできずにいることでしょう。文字通り、「恐れおののき」です。
 40節、「こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」 このときイエスさまはどんな服装をなさっていたのでしょうか。白い胴長の胴間衣でしょうか。そこから手を伸ばしたり、裾を捲くって逞しい足をお見せになったのでしょうか。ちょっとほほえましい場面ですね。それでは弟子たちは、イエスさまの手や足に触れたのでしょうか。41節、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、」 とあります。たしかな現実の前では、「信じられず」という否定形になってしまうのです。これは信じるという肯定形と同じなのです。ほんものに出会うと、思わず、「信じられない」と口に出してしまうのです。「信じる」という言葉では、その実感を表せなくなって、思わず「信じられない:」という否定形を通して自分の実感を表現する。この矛盾って分かりますね。
 41節の後半、「イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた」。 42節、「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと」、 43節、「イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」 なぜここで食べ物が登場するのか。人間切羽詰まったとき、お互いの心を通わすときには食べ物が一番であることはご存知の通り。ですが、この場面では、弟子たちが恐る恐る差し出した魚一切れを、イエスさま一人が食べるのです。その開いた口、見えた舌、そしてかみ砕く歯、そんな食べる他人の行為をじっと見詰めることなんてめったにあるものではありません。一切れの魚を平らげる行為を追いながら、弟子たちは、「ああ、我が主よ、イエスさまだ」と感動に襲われ、うれしくて泣きじゃくる者も現れました。まるでイエスさまの誕生日を祝っているような喜びに包まれて、最後には、万歳を叫んでしまったのです。
 が、イエスさまは、その後、復活を信じていなかった弟子たちをやさしくお咎めになったのです。そして、そんな愚かな弟子たちであるのに、その弟子たちに、その後の宣教に立ち上がれ、励め、と命じたのであります。
 この場面と設定が真逆な名場面がヨハネ福音書の二一章です。弟子たちが漁を終えて、陸に上がると、そこにイエスさまがいらして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われ、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」場面です。ここから弟子たちは新たな力を得て宣教に立ち上がって行ったのです。
 キリスト教の根本は、復活信仰なのです。
どんなに追い詰められても、永遠の命を与えられているがゆえに私どもは前進できるのです。絶望を抱え込んだまま、希望に生きられるのです。原始キリスト教が、厳しい状況下にもかかわらず、というよりも厳しい状況下であったからこそ広がって行ったのであります。
 ゴルゴダの十字架を覚悟した時。イエスさまは、こう断言しています。ヨハネによる福音書11章25節、189頁上段、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 祈ります。
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