背信と回復
ホセア書 2章16〜25節
 10月1日、火曜日。快晴。午前7時半から午後4時まで、シルバー人材から派遣された三人がじつにていねいに働いてくださいました。牧師館横の空き地、駐車場、CS室裏そして歌碑周辺が綺麗になりました。床屋に行ってきたような、さっぱりした、新鮮な感じです。さわやかな秋です。
 じつは、一日の朝刊に載っていた、特別記事が、わたしには衝撃でした。十面「欧州 消えゆく教会」という大きな記事が載っていたのです。ヨーロッパのキリスト教教会が下火になっているなと感じたのは、もう十年も前から毎年ポルトガル、イタリア、スペイン、中央ヨーロッパなど、カトリック世界を次々に訪れたときです。観光化が進んでしまって、教会本来の礼拝はどうしたの?と聴きたいほど衰退しているなと感じました。
 新聞によれば、「モスク(イスラム礼拝所のことです)に転用されたカペルナウム教会の写真が掲載されていますが、カトリックなのかプロテスタントなのかも記されていません。「神を信じない人の日曜集会」というロック熱唱の集まりも写真で紹介されていて、「無神論者が集会」と銘打ってあります。会場は、ロンドンの教会を改装したそうです。
 わたしの勘では、取材した日本人記者は、キリスト者ではありません。カトリックもプロテスタントの区別どころか、説明もしていません。関心もなさそうです。普通の日本人の知識は、まあこんなものなんだな。がっかり。その衰退理由も牧師や教会史の教授の言葉を引用するだけで、記者の署名がありながら、記者の目が感じられません。こと宗教となると、朝日の記者も及び腰です。記者も含めて、日本人一般のキリスト教についての見識のなさは、どこから来ているのでしょうか。
 おそらく国家体制と無関係ではない。政教分離という建前が、建前でしかない。政教分離という概念が曖昧なまま、習俗としての宗教行事が肝心な所をわがもの顔でのし歩いている。庶民のほとんどは、自分が宗教行事に絡め取られていることを自覚していない。
 といささか憂鬱な気分で新聞を読んでいました。ヨーロッパにとってキリスト教とは、宗教とは何か、何も書かれていない。つまり、宗教問題として正面切って捉えていないのです。軽い娯楽記事の域をでていません。なぜこんな軽い記事が特別記事なのかさっぱり分かりません。
 さて、今日のテキストは、ちょっと抵抗を感じる人がいることと思います。なぜなら極めて非道徳的な、律法主義者を怒らせてしまうに違いない内容だからです。
 強国に囲まれた小国は、常に妥協と屈辱と怯えの中で、ようやっと生き延びてきた。在るものは自民族への誇りのみと言ってもいいでしょう。ベトナム、朝鮮、イスラエルみなそうです。
 紀元前八世紀の北イスラエル、南のユダ王国も例外ではありませんでした。政治的状況 は、強大国アッシリアに侵略される前の風前の灯火だった。ところで日本とイスラエルはよく似ていると明治以来しばしば指摘されてきましたが、私には共通点よりは、相違点(違い)のほうが遙かに多いと思っています。最大の相違点は、預言者の存在です。日本でも占い師のような存在はありました。が、イスラエルの場合は、とくに国家の危機に遭って登場した、神によって個人的に呼び出された、預言者の歴史がひときわ目立ちます。唯一なる神に召されて立ち上がり、神の厳しい裁きと民族の回復を語る宗教的指導者の存在です。この預言者を彼らの言葉、ヘブライ語では、ナービーと発音します。どこかで聞いた言葉です。ナビとは導く者という意味です。そうです。自動車についている行き先案内装置です。民族の明日を導く案内人のことです。
 北イスラエルに登場した最初に記録に残された個人的預言者は、アモスです。旧約聖書の終わりのほうにまとめられている十二名の小預言者たちの一人です。農場主だったアモスは、王族や支配階層の政治的腐敗、抑圧、略奪、傲岸、道徳的堕落を容赦なく指弾して、神の怒りをまっすぐに伝えたため、宮廷から追放されました。個人的預言者というのは、神からとくに呼び出されて特別の召命を受けて立ち上がった預言者のことです。それまでは、預言者というのは職業的に占いをなりわいとする人々の群れであり、多くの場合呪術的な儀式の最中に一種の恍惚状態に達する人々でありました。
 それに比べると、アモス以下は、神に選ばれたことを強く意識して、神の民イスラエル民族の危機的状況を見逃さず、激しく批判し、神の審判の言葉を伝え、同時に民族の行方を指し示す神の救済を語るのであります。
 その後、続いて登場したのがホセアであります。
 ホセアは、彼の預言の内容から判断すると、どうやら農業に関係している人物らしいです。内容からして北イスラエル出身ということ以外、ほとんど履歴は分かりません。
 ホセアは、北イスラエルの特に異教の神々(バール信仰、繁栄と増殖の偶像崇拝)の虜になってしまった。その宗教的堕落状況に対して、神の審判をむきだしにして怒りを叩き付けた人物であります。
 このホセアの履歴が謎なのであります。まずは、ホセア書の冒頭1章2、3節(1403頁)をごらんください。
「主がホセアに語られたことの初め。
 主はホセアに言われた。
 『行け、淫行の女をめとり
 淫行による子らを受け入れよ。
 この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』
 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。
 つづけて三人の子供を産んだのである。それぞれ、「イズレエル(3節)、 憐れまれぬ者(6節)、 わが民でない者(8節)という名前を神から与えられた。イズレエルは、地名。かつてこの地では大虐殺があったので、イスラエル民族の罪の象徴的な名前なのです。つづく子どもらの名前も悲惨です。なぜこのような名前がホセアの子どもの名前になったのか。妻のゴメルが淫行の女であるからです。ゴメルがどういう女であるかについては、いろいろな解釈があって学説がまちまちですが、バール神殿があったベテルとダンには金の子牛像が置かれていたのです。この時代の北イスラエルの人々は、唯一神信仰が何なのかももう忘れ果てていて、自分らが十戒の掟を守る神の選民という自己確認も怪しい次元にまで迷い込んでしまっていた。
 ある意味ではホセアの厳しい宗教認識によって、ようやっと選民イスラエルとは何者であるのかに気が付いたといってもいいくらいに邪教の中に飲み込まれてしまっていた。
 その宗教的堕落と支配層の性的放縦の堕落は、神に背いた背信のイスラエルそのものであった。その最悪の状況を、神は「神を裏切り続ける淫行の妻」として捉えている。裏切り続けるイスラエルであるにもかかわらず、その妻を愛するがゆえに離縁せずに赦す夫が神であるというのです。そして、いかなる状況に陥っても、赦す神の愛の隠喩(メタファー)が、ホセアなのです。
 神と選民イスラエル、夫ホセアと妻ゴメル。神と夫ホセアの愛と赦しの物語として2000年前の人々は、読んだかもしれません。
 が、これは歴史的事実のホセアと妻の関係であるかどうかは、分かりません。もはや証拠資料は何もありません。これは、男尊女卑の歴史的状況の中でしか通用しない夫婦の組み立て方ではないでしょうか。
 淫行と姦淫という性的悪徳を表す単語で捉える女性観は、到底現代では通らないでしょう。もしも反対に、淫行を繰り返す夫を愛故に捨てない妻ホセアの物語であると設定されていたら、聖書には採用されなかったことでしょう。男尊女卑の社会構造が成り立たなくなってしまうからです。私どもは.21世紀に生きる人間としてホセア書をどう読み込んでいくのか、宿題が課せれていると思います。
 今日のテキスト、「イスラエルの救いの日」すなわち2章16節以下は、そんな絶望的末期状況にあるイスラエルを、神は見捨てることはされず、救い出そうとする部分です。そして出エジプト以来一貫している愛の眼差しを注いで、救いの手を差し伸べてくださるのです。 
 16節、「それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう。」 17節、「そのところで、わたしはぶどう園を与え/アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。」 エジプトを出てからイスラエルを望見するまでの荒野の四十年の苦難は、旧約の出エジプト記に描かれている通りです。ホセアには、神に導かれた幸福な思い出となっています。
 ホセアは、神が神である理由は、究極的には愛にあると見ている。だから六章六節(1409頁)では、こう言っている。
「わたしが喜ぶのは
 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって
 焼き尽くす献げ物ではない」と。
 その愛するイスラエルを救い出そうとして神によるイスラエルの回復が叫ばれたのです。18節、「その日が来れば」、20節「その日には」。 25節、
「ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
 ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
 「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
 彼は、「わが神よ」とこたえる。 
 そして3章以下14章の半ばまで再びイスラエルの罪を、神は徹底的に断罪するのです。これでもか、これでもか、と。その容赦のない断罪に目を覆いたくなるのは私のみではないでしょう。
 ホセア書の最後は、14章10節(1420頁)、
「主の道は正しい。
 神に従う者はその道に歩み
 神に背く者はその道につまずく」で閉じられるのです。
 こんなすさまじい預言をした神の使者ホセアはどうなったのでしょうか。みなさんでその後のホセアを調べてみてください。
 今、神ならぬものに跪いて、地球を破滅させようとしている愚かな政治屋が地球を暗くしていく現実の中で、私どもはどう歩むべきなのか、答えははっきりしています。
 多くの放射能を流出させたままにしている現実に目を背けることなく、力を緩めることなく戦う現場には、いつも神さまが現臨なさっていると信じて戦っていきましょう。
 祈りましょう。
説教一覧へ