降りるがいい
マルコによる福音書  15章24〜32節
 世界中が異常現象だそうですが、地球の気が遠くなるような歴史からすれば、大陸移動があったり、氷河時代があったぐらいですから、どうということもないのかもしれません。
 実際、カンボジアのアンコールワットなどは、常時四〇度近いそうです。とはいえ、70代ともなるとかなり身体にこたえる猛暑が続きました。お盆の立ち上る線香や地蔵盆の提灯などの土師の風景を見ていて、私が地上で過ごす時間はもうすぐ終わるかも知れないな、という思いが、一瞬、頭を掠めたりしました。八月は膨大な死者の季節です。広島、長崎、敗戦、いろいろな風景が甦ってきます。祖父母、父、母、姉、兄、そして我が子らの姿が懐かしく、かつ苦しく想起されます。永遠の命に与っていることを信じて、辛うじて生き延びていたような息苦しい夏でした。そして今また迫りつつある肉親との地上での別れ。
 こんな私を奮い立たせたのは、はっきり聞こえてきたあのみ言葉でした。
 地上での最後の晩餐での、とりわけ長い説教がヨハネによる福音書です。16章33節(201頁下段の最終の四行)。 イエスさまは、こう言われました。
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。このみ言葉によって奮い立ち、秋風を呼び寄せようと決意したのです。
 今日与えられたテキストは、ヘブライ人への手紙12章4〜12節です。小見出しは、「主による鍛錬」、なにやらおっかない小見出しですが、無理もありません。すぐ前の11章は、アブラハムから始まって預言者たちまで、旧約を彩る先輩たちの命懸けの証言の生涯とその苦闘が描かれていて、さらに確認されている。 それらの命懸けの試練の人生の延長線上に私どもがいるのだと再確認されるようになっています。11章で言う証人という言葉はもともと殉教者という言葉と同じなのです。証言と殉教は生きることの裏表です。
 主を証ししながら生きるとは背教するか殉教するかのぎりぎりの境界線上まで生き抜くという意味なのであります。このことが11章のテーマであることを前提にして初めて、12章の小見出し「主による鍛錬」が迫り上がってくる。
 12章1節、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。 命懸けで生き抜いた証人たち、かれらはユダヤ教徒であったが、信仰の先輩である。ならば私どもは、余計な重荷や絡みついてくる背教の誘惑やあらゆる背信行為を捨てて、それぞれの信仰のコースを忍耐強く走り抜かなければならない。それは死ぬまで止めることができない。もしかしたらそこには殉教が待っているかもしれない。二節では、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」とあります。十字架と恥を結び付ける組み合わせは、ここにしか出てきません。これは東アジアに共通の儒教的倫理感覚に近いものであります。
 ところで、4節、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」を、皆さんはどのようにお読みになりますか。この場合、「罪と戦って」とありますから、迫害や弾圧のイメージは余り強くないでしょう。むしろわたしの内部の罪との戦いと受け取るほうがより分かり易いのではないでしょうか。最近知ったことですが、当時のローマでは、奴隷たち同士を戦わせる拳闘(ボクシング)のグローブには金属が裏打ちされていて、血だらけの拳闘を観客たちが楽しんだようです。まことに残酷な娯楽が他にもあります。自分の内部の罪との流血のドラマをも覚悟する戦いとは何でしょうか。時代状況はまだ組織的な迫害状況には入っていませんでしたが、ここは明らかに背教を指しているのです。日本のキリシタン弾圧史を想起すれば、殉教と背教のぎりぎりのせめぎ合いのドラマは想像できる。そういう具体的な緊迫した状況を頭に入れるとき、今日の主による鍛錬が実感を持って私どもに迫ってくるのです。まことに主を証しすることは殉教と紙一重の出来事なのです。キリシタン時代までさかのぼらなくても日本キリスト教団が成立した直後の憲兵隊による尋問「天皇陛下とキリスト教の神とどちらが偉いか」を想起すれば分かり易いでしょう。キリスト教徒が信仰を貫くということはこういう命懸けのドラマを演じ切ることなのです。土師の中にいてもこの緊張感はいつも感じています。
 地蔵盆の飾り付けた舞台の脇を通り過ぎたとき、初老の方から訊かれました。「あの太鼓はどこに行ったら聞くことができますか。孫がせがむものですから」。 私の答えは、「あそこを曲がった公民館の裏口の石段を上がれば分かりますよ」。 きっとお孫さんは目をまん丸にして喜んだことでしょう。
 ところで、地蔵盆も太鼓の練習もれきっとした宗教行事、というよりも、宗教活動なのです。本人たちが宗教活動であると自覚していないだけのことです。日本社会は、いつも言うことですが、何が宗教なのか、何が信仰なのかを全く自覚していないのが日本人一般の心の風景なのです。それでいて、あらためて訊かれると、「私は無神論です」とか「無関心です。宗教ってやばいですよね」とか気楽に答えている。私は、神道や仏教、天理教、大本教などにも深い関心を抱いていますが、それらとキリスト教の信仰とはどこが決定的に違うのかははっきりしておきたい。キリスト教は漠然とした感謝の心の風景ではありません。キリスト教は、意識的、自覚的な行動なのです。毎週日曜日には、主の聖日礼拝をする行動の日であり、そこから世俗へふたたび出て行き、主を証しするのです。神の証人になることは殉教するまで神さまに忠実を貫く行為なのです。キリスト教の神さまは、個々人をよく見て導いてくれますが、嫉妬深いのも本当です。宗教的浮気は見逃してくれません。
 9節、「わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか」。 
 「霊の父」は、現代日本人からは思いつかない次元のイメージだろうと思います。自分の子供を含めて、「霊の父」をどう説明できますか。ぜひ一度対話してみてください。キリスト教がいかにかれらの現実から遠いできごとなのかが分かることと思います。それでいい、それでいいと私は思わないし、思いたくないので伝道するのです。霊の父とは、子供にとっての家のお父さんではない。誰にとっても父である存在、つまり普遍的なお父さんなのです。普遍的父ってすごいと思いませんか。
 私自身は、肉の父を尊敬してはいましたが、小学校の先生のほうがもっと広い世界をいつも教えてくれました。中学生になると、数学の先生が演劇部の顧問であり、自分でない人物を演じることの喜び教えてくれました。高校生になると、トルストイ、源氏物語、夕鶴の木下順二の魅力、反俗の教養の力を教えてくれました。大学になると、キリスト教と社会問題の関わり方、聖書研究の仕方、共産主義の克服の方法、実存主義の魅力など、さらに宗教的契機で世界を理解することが深く生きることと密接につながっていることなどを教えてもらいました。そして学校以外の芸術家と言われる人々からもたくさん教えていただきました。男性、女性の区別なく良き教師はみな優れた人生の先輩であったのです。彼らこそわたしの普遍的な父の一部でした。が、キリスト教の父はさらに宇宙の玉座にいらっしゃって、全宇宙を支配なさっていらっしゃるのです。
 10節、「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです」。 ここで注意したいのは、肉の父は、過去形になっていますが、霊の父は現在形なのです。「わたしたちの益」とは、「神聖にあずからせる」ことなのです。神聖とは、神の似姿を深く刻まれていくことであります。つまり人間の力で神さまの似姿に近づけるのではまったくない。神さまに助けられて与らせていただくのであります。
 この真理が分からなくなってしまったのが十八世紀以降の人間界の悲劇の始まりであります。バベルの塔の物語がまたしても造られたのが、世界中に振り撒かれ核兵器であり、原発事故であります。
 私どもは、今ほんとうにたいへんな変革期に立たされています。人間が平和に生きられるにはどうしたらいいのか。旧約以来の神さまの声が聞こえます。「我が子たちよ、立ち帰れ」と。主の鍛錬は、なまやさしいものではない。が、同時に、私どもは招かれているのです。主と共に楽しむ食卓に来たれ、と。
 祈ります。
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