腹を立て
ルカによる福音書13章10〜17節
 8月19(月)〜20日(火)に、当教会の教会学校お泊まり会が開催されて、河内長野組、奈良組、土師町組の計12名、四歳から中学一年生までが勢揃いして、わいわいがやがや、楽しく賑やかに、行われました。子どもパワーの暴発エネルギー大会、私ども大人のほうが振り回されてしまったほどでした。子供たちの未来に期待せずにはいられません。「来年も参加したいと思う人は手を上げてください」と言うや否や、全員の手が上がりました。うれしい閉会礼拝の一瞬でした。
 夜の十時、一階の集会室で頭と頭を付き合わせて、あれこれと終わることなく続く子どもたちの会話は、蒲団を敷き詰めた教会公園の花壇でした。神様、土師教会を導いてください、と祈らずにはいられませんでした。
 その後金曜日まで猛暑、ついに暑さの連続は71年ぶりに記録が更新されました。おめでとうとお祝いする気にはなれません。お互い熱中症に注意をしてなんとか乗り切りましょう。
 さて、お泊まり会の主題は、「つくりぬしなるかみさま」、 テキストは創世記1章31節でした。「神はお造りになったすべてのものをご覧になってなった。見よ、それは極めてよかった」です。2章2節、「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」。 3節、「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。 
 時は新約の時代に入って、ローマ皇帝がキリスト教に改宗して、安息日は聖日(サンデー)となりました。皇帝は太陽神(サン)でしたから、そこからサンデーが聖日になったのです。嘘のようにおかしくて噴き出したくなる皇帝とキリスト教との歩み寄りなのです。   
 今日も 聖なるサンデー、安息日です。日本中のカレンダーの殆どは、日曜日が赤字で表記され、週初めに置かれるようになってからまだ十年も経っていません。まっ赤な日曜日って、どこか落ち着きがありませんが、緑色ではだめです。なぜなら真っ赤な太陽、サンデーなのですから。現在世界中が、信号機の赤は、休め、停止命令です。
 では、今日のテキストが含まれている13章の冒頭から、改めて見てみましょう。
 13章の小見出しは、「悔い改めなければ滅びる」です。イエスさまの巡回説教は、あちこちのユダヤ教の会堂(シナゴーグ)でなされました。書き出しは、「ちょうどそのとき」、 そして誰かが訴えて、イエスさまが答える方式です。これはルカが好む様式です。4節、「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は」と出て来ますが、シロアムの事件についてはどの福音書にも、他の歴史書にも出てきません。ルカだけの資料です。
 この部分によれば、人々は、ピラトが彼らを「罪深い者」として裁いたことを受け入れていたようです。その受け入れ方に対して、イエスさまは反対意見を述べています。五節「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆おなじように滅びる」と。特定のガラリヤ人がとくに罪深いのではない。みんな罪人なのだというイエスさまの主張がここには明確に打ち出されている。 
 が、ここに出て来る「18人」という数字が気になります。なぜなら今日のテキスト、11節にも「18年間も」と、「18」という数字が出て来るからです。が、これはこれでさておいて、10節「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」とあります。ルカが医者であることは私どもは知っています。ここでも「病」について書き記してます。続く十四章一節も「安息日に水腫の人を癒す」という小見出しで、「安息日のことだった」と書き始めています。つまり安息日とはどういう日なのかを巡るイエスさまの見解を展開した重要な二つの箇所なのです。
 13章11節に戻りましょう。「そこに、18年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」。 二千年前のイスラエル、現在よりも病気は深刻であり、治療も困難だったに違いない。宗教者は元来肉体と精神の区別なく、人間の病める存在全体の救い主だったのです。宗教者と医者が別の存在になったのは、それほど遠い昔ではなかったのです。
奈良の新薬師寺のあの目玉のぎょろぎょろした薬師如来は手に薬壷を持っています。
 12節、「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は直った』と言って、13節、「その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」。
 現在、こんな奇跡がたちどころに起こったら、私どもは、「神を讃美」するでしょうか。
医者に向かって、あるいは看護師ら医療関係者に向かって、「ありがとうございました」と深々と頭を下げるかも知れませんが、神を讃美する行動には出ないでしょう。医学的治療行為はあくまでも医学行為であって、宗教的行為だとは思わないからです。キリスト者ならば感謝の祈りを献げるでしょうが、医学的行為という点では同様でしょう。だからと言って、「神を讃美する」ことが率直な日常的表現であった時代は終わったと言い捨てていいでしょうか。
 14節、「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った」。 安息日には仕事をしてはならないと申命記5章12節には明確に書いてあります。「腹を立て」という口語的表現は楽しいですが、これは「憤慨して」という意味合いです。問題は、なぜ、イエスさまにではなくて、「群衆に言った」のでしょうか。宗教者として憤慨するならイエスさまに言うべきではないでしょうか。ユダヤ教の教えに囚われている群衆に媚びるためであったのです。そうだ、その通りだ、という群衆の共感の声を呼び寄せたかった。そのずる賢い言い草が目に映るようです。その見え透いたずる賢さを見抜いていたイエスさまは、自らまっすぐに論駁しました。呼び掛けからして気迫が籠もっている。15節、「偽善者たちよ」と。続いて、「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いていくではないか。」 16節、「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。 ここにはイエスさまが普段安息日についていかに深い思索を重ねていたのかがはっきりと写し出されています。安息日とは、神の国に招かれる平安な時間を意味しているのです。苦しむ者、悲しむ者を放り出したままの安息日あるいは神の国なんて、ナンセンスです。サタンの束縛を解くべき時なのです。キリスト者の医師や患者は、聖日には手術を拒否するでしょうか。そんな図式的な教条主義者は、イエスさまの御心から遠い人たちです。聖日礼拝は、その手術の現場で開かれているのです。イエスさまは、病院の現場にご臨在なさっておられるのです。
 安息日に空腹に耐えかねて麦の穂をつまんで食した弟子たちをもイエス様は弁護してくだったのです。
 17節、「こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」のであります。これは、イエスさまが、世にもたらす分裂の一つの例にすぎません。一つ手前の12章51節では、分裂について語っています。133頁の下段です。51節、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と。衝撃的な言葉ですが、甘いいい加減な、なあなあ主義の平和について語ったのではありません。そうではない。イエスさまの言葉に聞き従う「聴従」と決断が、家族や友人との決別ももたらすのだということも覚悟しなければ、神の国には入れないのです。安息日もまた、人間のかけがえのない命の尊厳を守り貫くところに意味があるのです。「偽善者よ」という舌鋒鋭い切り口には、イエスさまの厳しい批判がむきだしになっています。怒れるイエスがここにも描写されているのです。
 イエス様は、群衆をそのまま受け入れてはいない。ピラトの裁定(裁き)をそのまま受けいれてしまう人々や群衆を、「あなたがたもまた罪人なのだ」とはっきりと宣言して、悔い改めない限り、神の国には入れないことを明確に宣言している。単に外側から見ていて、見物人として喜んでいることに対して、イエス様は、厳しい目を注いでいる。
 「恥入った」のは、会堂長たち反対者ですが、じつは、群衆もまた、イエスさまは手放しで迎えてはいない。ルカはその辺りの事実を冷静に捉えて書いています。必ず到来する神の国は、甘っちょろ平和で実現するものではない。自分の全存在を賭けて、悔いることなしには受け入れてもらえない。
 「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」
 そして神は安息なさったのです。ただし、その後私どもは、与えられた自由を取り間違えて堕落してしまったのです。ですから心からの悔い改めがあって、初めて安息日を味わうことが赦されるのです。それが私どもの主日礼拝日であります。小さな土師教会ですが、歴史を更新した猛暑の八月、心を合わせて神を讃美できる喜びを噛み締めましょう。
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