幻を見た
使徒言行録 16章6〜10節
 日本列島の上空に高気圧が張り出したままです。さらにその上にチベット高気圧が覆って来ました。記憶にない、こんな天気予報図に驚きました。異常高温の連続で、さすがに体調が狂いそうです。庭木、花、野菜みな瀕死状態です。雨乞いしたいです。
 木曜日の午前、牧師館の二階のベランダに、筋骨逞しい野武士の死体が、天を仰いで転がっています。えっと思ったら、熊蝉の亡骸でした。真っ黒な兜を被ったまま、天を仰いで無念そうに死んでいる。
 どこかで見た場面だ。そうです、1945年の夏、埼玉県浦和市で見た、機銃掃射を浴びて死んでいった東京から逃げて来た避難民の遺体なのです。
 志木街道に累々と連なっていた死体の列、祖母に手を牽かれて逃げ延びたあの街道筋。戦後は、その道をアメリカ軍のジープが疾風のように走り過ぎていたのです。
 戦後闇市の中で売られていたキューピー人形、カトリック幼稚園の園舎の前に横隊一列ずつ並ばされ、アメリカ軍の暴風雨のように襲い掛かるDDTの波に薙ぎ倒されたあの頃。
 あの頃から六〇数年が経っているのです。
 今、七〇代に入って、この猛暑の中あらためて焦熱地獄の空襲や自宅の火事を思い出さずにはいられません。
 バケツを抱えて火消しのために地上を走り回っていた兄三人は、もう生きていません。防空壕の中で祖母に抱かれて息を殺していた幼子の私は、こうしてまだ生きている。
 生きていることは、実は、生かされていることだと実感せずにはいられません。この地上を去る日まで、精一杯なすべき仕事をなして、主の身許へ行きたい、と思います。
 猛暑の中、切実に思うことは、冷たい美味しい水、そして雨です。水も雨も命を育む神様からのプレゼントです。イスラエルが水撒き機(散水機)、スプリンクラーを世界で最初に発明したと聞いていますが、宜なるかな。第二次大戦後、国連の決議によって1948年に独立したイスラエルは、砂漠地帯の国土を開拓するために、どうやって水を手に入れるか苦心した結果、スプリンクラーを発明したのです。たちまち、世界中に広がりました。
 それにしても、中近東とは遠い日本の西日本は、まるで砂漠地帯の気候になってしまったようです。大阪の八月は、雨も殆どありません。蝉の合唱も途絶えてしまいました。
 さて、砂漠地帯のイスラエルの風土の中で、イザヤ書40章、7、8節はこう語っています。

   草は枯れ、花はしぼむ。
   主の風がふきつけたのだ。
   この民は草に等しい。
   草は枯れ、花はしぼむが
   わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 四季に恵まれた温帯の日本では、決して経験できない苛酷な命の光景です。「草は枯れ、花はしぼむ」ように、「この民(人間)は「草に等しい」と断言している。しかし、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と言い放っている。日本の古典のどこにもこういう信仰的な確信に満ちた発言は見当たらない。
 7節の「主の風」とは何のことでしょうか。これはまさしく神の霊(聖霊)のことです。旧約においては神の霊は、風であり、神の息なのです。日本にも「神風」があったではないかという反論が出て来そうですが、あれは蒙古襲来の時にのみ吹いた国粋主義的便宜的嵐の象徴であって、その後の国家的危機を救ってはくれなかった、のです。イザヤ書の神の風は、神の選民そのものに対して厳しく裁いている。この苛酷なまでに厳しい人格的関係にあって初めて、8節「神の言葉はとこしえに立つ」という信仰告白が成立するのです。
 土師の浜木綿が、じりじりと焼け付くような太陽の下で、百合を切り裂いたような純白の花を開くのを見ていると、「草は枯れ、花はしぼむ」という砂漠の世界が一瞬身近に感じられるのであります。
 わたしども日本人は、晩夏の中で「秋風ぞ吹く」と見えない秋を待つ世界に生きているのです。この風土を祝された風土として受け入れ、この風土のなかに福音をどう根付かせることができるのか必死になって考えて行かねばならない。これを日本人としての嬉しい試練として受け入れて行きましょう。
 さて、今日のテキストは、パウロの第二回の伝道旅の途中、その後の行き先を巡る大きな転換点を描いています。場所は、聖書の後ろの付録の地図の「8 パウロの宣教旅行2,3」をごらんください。私がここに持っているのは矢辺修造兄弟がくださったものです。
 パウロは、ローマ帝国の支配下にあるアンティオキアからアジア州の首都エフェソに向かう予定でした。
 16章1〜6節までの小見出しは、「テモテ、パウロに同行する」です。テモテは、リストラの、母がユダヤ人キリスト者であり、父はギリシア人です。3節、「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に洗礼を授けた」とあります。あれっ、変だなあ。パウロは割礼は不要だとあれほど力説説得したはずなのに、と違和感を覚える人もいるでしょう。が、実は、伝統的ユダヤ人は雑婚を認めなかった。雑婚した者が出て来た場合には、葬式もしたのです。パウロは、そこを突破しようとした。テモテをユダヤ人として認めるためにあえて洗礼を施したのです。
 ところが、6節、「さて、彼らはアジア州でみ言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」。 7節、「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを赦さなかった」とあります。これはどういうことでしょうか。「聖霊」と「イエスの霊」とはっきりと表記上は区別していますが、同じ聖霊と解していいでしょう。問題は二度も禁じたという意味です。
 この時パウロの一行は、パウロとシラスとテモテでした。彼らは、この地方の教会をさらに問案したかったのですが、聖霊に禁じられた。実は、聖書の付録地図は、私どもに分かりやすいように簡略に書かれています。この辺りには、当時幾つもの独立国家があって、いろいろ複雑な関係があったのです。そんな諸国家間の状況を踏んまえながらの伝道が困難を極めることは明白であった。パウロ一行は慎重に判断して、8節、「トロアスに下った」のでした。なぜトロアスに下ったのか。考えられる事情があります。それはパウロが肉体的な棘を背負っていたことです。それが具体的には何を指しているのかは今なお謎々です。
 が、それを解くヒントは、十節にありそうです。「わたしたちはすぐにマケドニアに向けて出発することにしました」。 突然一人称複数の「わたしたち」文体が登場するのです。「わたしたち」とは誰か。使徒言行録の著者はルカだと私たちは知っている。しかもルカはギリシア人の医師なのです。トロアスは、アジアの最西端、目の前にはエーゲ海が広がっていて、ギリシアの島々も見えている。ヨーロッパが見えている。その港町に開業医の医師ルカがいる。当時ギリシアが医学の先端を占めていたのです。パウロは、ルカの評判を聞き知っていただろうと思います。今後の伝道活動の展開を思う度に、なんとかして良い医者の世話になりたいとパウロは願っていたに違いない。その絶好の機会が来たのだ。
 9節、「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』とパウロに願った」とあります。聖書に出て来る幻は、ほとんどの場合、神さまからの啓示なのです。パウロ一行の進み先を二度も禁じた聖霊、そして今度は、神が幻を通して啓示を与えてくださったのです。エーゲの海を渡って、ヨーロッパ大陸を目指せ、と。
 9節の「一人のマケドニア人」とは、ひょっとしたらルカではなかったでしょうか。だから10節、「パウロがこの幻を見たとき」とは、すなわち啓示を受けて、「わたしたちはすぐにマケドニアに向けて」とルカが書き記したのです。
 足取りも軽く、生気に満ちて海を越えたパウロの胸の底には、紀元前四世紀のあのアレキサンダー大王の若々しい勇壮な姿が大写しになって見えていたに違いない。ヨーロッパとアジアを結び付けた偉大な英雄アレキサンダーの勇姿を思い描いたに違いない。
 そうだ、幻を通して神さまが指し示して下さったのだ。東に生まれたキリスト教の福音を西のヨーロッパに伝えよとの声が聞こえてきたのです。パウロの一行は、アレキサンダーの父上の名前から取ったフィリポに行き、そうしてギリシア半島を巡って、ついにヨーロッパにキリスト教が伝わって行ったのです。ヨーロッパ伝道が始まったのです。
 これこそ聖霊が二度に渡って禁じて、ついに幻を通して啓示して導いた世界化の開始だったのです。その西回りのキリスト教伝道史の最果ての地が日本であることは、ザアカイの回心のときに学びました。
 私は、ふと想像するのです。もしも聖霊がアレキサンダーの辿った道を幻として与えて下さっていたらどうだったろうかと。トマスのインド宣教を始めとした東廻りのキリスト教伝道史の展開があったのではないでしょうか。シルクロードは、葡萄とキリスト教の道になっていたのではないでしょうか。
 現在この土師の村にも十字架が立っている。
 明日から一泊二日、子供立ちのためのお泊まりキャンプが始まります。十ひとくらいの子どもたちが教会の門を潜ります。一人一人の子どもが、 ここから何を持って帰るのか、子どもたちがこの教会とどう出会えるのか、どんな幻を見ることができるのかを期待して、
 真剣に祈り、伝道するのが嬉しい義務であります。今が踏んばり所なのです。
 共に祈りましょう。
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