ぶどう酒に変わった水
ヨハネによる福音書2章1〜11節
 先週の土曜日、早朝、衝撃的でした。朝6時38分、当土師教会の前々牧師夫人である澤田芳枝姉がみまかったのであります。百歳 、寿の命ではありますが、あまりにも突然のことでした。主は与え、主は奪う。
 ただし、わたしどもキリスト者は、この世のお別れに耐えられるのです。主の身元に召されたのであって、再びお会い出来る時を楽しみにして、しばしのお別れを惜しむのであります。
 今回、感銘したのは、澤田家一族が百歳の芳枝お婆ちゃまのご遺体を前にして、葬送の讃美歌を歌っている光景でした。お子さん、孫、ひ孫とそろった姿は壮観でした。まさにアブラハムとその一族の群れだと言っても良かったと思います。私がお会いしたことのない静夫牧師をそこに嵌め込んで、歌劇のクライマックスを見ているような充実感を覚えました。
 この歌劇の幕開けは、若き二人の結婚式とともに始まったはずです。そしてドラマの主要舞台は、土師教会と土師村でしょう。
 というわけで、土師教会の84年間の歴史の中の40年間余りの物語が再現されたような気がしました。みなさんは、どのような思いで、今回の前夜式、告別式に参画されておられたのでしょうか。
 その根源に結婚式があったのです。
 さて、今日のテキストも結婚式です。小説や映画、演劇と根底的に違っているのは、誰と誰の結婚式なのか何も書かれていないことです。「イエスの母」が活発に動き回っていますが、親戚なのか、カナ村の知人なのか、肝心の花嫁花婿には、全く関心を払っていないのです。そうではなくて、祝宴のためのぶどう酒に関心が集中している。小見出しは、「カナでの婚礼」ですから、ちょっと変だなあと思いませんでしたか。もし変だなあと思わなかったとしたら、もう何十回もこの場面を読んできたので、慣れすぎてしまったのです。
 他の福音書に並行記事もありません。けれども、ヨハネ福音書の最初の奇跡物語なのです。
 そもそもヨハネ福音書はいつごろ編集されたのでしょうか。いろいろ研究がされていて、現在では、およそ西暦80年代半ばから90年代の前半に成立したであろうというのが結論です。95年頃には、ドミティアーヌス帝による迫害があったのです。
 この福音書を読んでいると分かるのですが、ユダヤ教の教会堂シナゴーグから異端と見なされたキリスト教徒たちは会堂から追放されていくのです。ヨハネ教団も同じ経験をしています。その追放されたヨハネ教団側から、キリスト教とは何であるのか、いかなる信仰に立っているのか、が、深く問い直されて、いわばキリスト教がキリスト教である真の理由と答えを確立する必要があったのです。そこから同じ唯一神信仰と言っても、父なる神と子なる神と信徒たちが一つとなって強く結びついている人格的交わりの共同体であるという立場、迫害する側に対して、何を讓れないのか、どこが違うのかを、明確にしたのが、このヨハネによる福音書であります。その根底に死と復活というイエス様の命懸けの愛の行為(行動)があり、父が有ると強調しているのです。
 ヨハネ福音書を執筆した記者は、生前のイエスさまの行動と、同時に死んで甦った復活の主、すなわち救い主である主との二重性を前提にした栄光のイエスへの信仰告白としてこの福音書を書いているのです。一般に、この福音書が愛の福音書だと言われる理由はここにある。
 こういう前提を頭に入れて、ヨハネを読んでいると、初心者にとって、じつに分かり易いのです。が、同時に、古い信徒たちには、信仰告白的な深さを味わえる書でもある。なぜなら、復活の光の下に描かれたイエス像が全体から迫り上がって来ているからなのです。
 では、再びカナの婚礼現場に戻りましょう。
 1節、「三日目に」とありますが、一日目最初の弟子が決まり、二日目次の弟子たちが決まった。そして三日目なのだが、深い連関性、必然性はありません。が、わたしどもキリスト者は、ここを死んで復活した三日目、と読み込んでいます。こうした読み込みがあちこちでできるのがヨハネ福音書なのです。 
 3節、「母がイエスに」とあります。この福音書では、イエスの誕生物語はありません。また母の名前は出て来ません。出てくるのはマグダラのマリアという名前です。
 4節、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。「どんなかわりがあるのです、か」という疑問の助詞が付け加わってはいません。そして、「わたしの時はまだ来ていません」。 と答えています。つっけんどんな答え方です。
「わたしの時はまだ来ていません」と謎の台詞を言うのです。が、私どもは、その時とは、ローマによる政治犯としての処刑の十字架であり、復活であり、再臨でもあると知っているのです。生前のイエス様と救い主イエス様のダブルイメージの中のイエス様を前提にして読んでいるのは、執筆者もそうだからです。
 だいたい生涯をかけて何度も何度も愛読する本が他にもあるでしょうか。その度に新しい発見がり、教わることもある。しかも原作は、ヘブライ語であったり、ギリシア語だったりする外国産なのに、手放なせなくなるなんて摩訶不思議な書物ですね。好きな論語や古事記でも此処まではいかない。
 時が来たという場面は、12章23節に至って、初めて、「人の子が栄光を受ける時が来た」という台詞が登場して来るのです。処刑が栄光だなんてどういうことだ、と、疑問を持たれて、ようやっとその真実のドラマが、じつは贖罪という想像力を超えるような出来事が展開されるのです。
 が、今はまだ最初の奇跡物語の冒頭なのです。
 では、その奇跡とは何だったか。
 6節、「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも2ないし3メテレテス入りのものである」。
1メテレテスは、39リットルだそうです。一升瓶が1.8リットルですから一甕なんと一升瓶70本ぐらい入りそうです。それが6つ。凄い量です。大宴会です。それにしてもぶどう酒が切れてしまった祝宴は大失態というしかありません。婚礼は、若い男女の結婚式のことですが、カナの婚礼式は、もしかしたら神と人間との信仰の交わりの比喩かも知れません。信仰はしばしば神との婚礼を意味するからです。だから花嫁も花婿の名前が書かれていないのかもしれません。ならばぶどう酒は、十字架の血潮である。その管理を誤ったのは失態です。
 どうやらここでは、水はユダヤ教、ぶどう酒はキリスト教を指しているようです。ぶどう酒は、異端とされたキリスト教(ヨハネ教団もユダヤ教ナザレ派として迫害されたのです)のことです。ならば、イエス様のなさったことは、ユダヤ教からのキリスト教への改宗を指しているのです。水からぶどう酒への革命的な変換がされたのです。これこそ創世記の天地創造と同質の無からの創造物語と重なる。そのうえで、水は新たな祝福を受けて永遠の命の象徴にまで高められるのです。バプテスマ(洗礼)と水の関係を考えれば頷けるでしょう。
 さらに強調させていただければ、ここでの奇跡とはキリスト教伝道の豊かな収穫を描いたのだと言ってもいいでしょう。ぶどう酒は、神の宴会の食事を満喫するための欠かせないものなのです。ユダヤ教に対するキリスト教の勝利を宣言する場面からヨハネによる福音書を展開しようとした記者の試みは成功したと言えます。
 11節をご覧ください。(166頁上段です)、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」と締められています。
 イエスさまは、こけおどしのような見せ物としてのしるしを嫌っています。カナのしるしは、まさに福音の内実を人々に悟らせるための伝道だったのです。
 私どもの伝道も、福音の力と愛をもってなされなければ、成功しないでしょう。
 夏の間にじっくりと一人一人が、教会としての伝道のありかたを考え練り上げていきましょう。
 最後に一言、ぶどう酒は赤ワインと白ワインがあります。カナの婚礼は、どちらのワインだったのでしょう。
 祈ります。
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