むしろ信仰によって
ローマの信徒への手紙4章18〜25節
 おとついから猛暑となっています。うだるような暑さです。室内にいても熱中症になる確率が高い年齢になっています。今日の快晴も手放しで喜んではいられません。
 が、7月7日といえばいまだにわくわくします。1950年朝鮮戦争勃発の頃、小学校高学年になりかかった頃です。七夕飾りのための竹を近所に採りに出かけました。祖父が藁で七夕馬を編みあげました。この頃は夏草がぼうぼうと生えるので、お馬さんといっしょに草刈りをするのです。
 が、新暦の7月7日の頃はまだ梅雨が明けていないので天気が気になり、テルテル坊主も作りました。
 そもそも日本の季節の行事は、すべて陰暦で行われてきたので七夕は現在の八月中旬頃、いちばん晴れ間の続く銀河の美しい頃だったのです。ですから星祭りとも言われました。
 七夕は、どう考えてもタナバタとは発音できませんね。これはシチセキと発音するのです。もともと一年間の季節の節目の五節句です。すなわち3月3日(ひな祭り)、 5月5日(端午の節句)、 7月7日(七夕)、 9月9日(重陽の節句、菊祭り) そして一月七日(人日、七草粥)。 みなどうして奇数なのでしょうか。仏教寺院の塔もみんな奇数です。
 七夕は、元来、中国の民間伝承が起源ですが、日本では棚機つ女伝承(機織り女)があります。
 みなさんが幼かった頃、教わったのは、どんなお話だったでしょうか。7月7日の夜、銀河を舟で渡っていく牛飼いの彦星のお話でしたか。これは中国伝承です。
 それとも銀河に架けられたカササギの翼で造られた橋を渡っていく彦星のお話でしたか。これは朝鮮伝承です。そのどちらであってもその夜、雨が降ったら一年に一度限りの愛の忍び会い(逢瀬)は出来ないというのが日本ですが、ほんとうですか。隣の韓国に行くと、雨が降ったら、それは二人が再会の喜びのあまり感極まって号泣する歓喜の涙の洪水が地上に落ちて来るというのです。晴れても降っても二人は必ず会えるのだそうです。ならば中国は? どうもこうなると眉唾ものですね。
 私どもは、幼かった頃、短冊にもっと勉強ができるようになれますようにとか願い事を書きました。これは遠い昔からあった風習です。もともとは機織りなどの手芸の向上を祈ったのです。
 昔昔は、略奪結婚でしたから、男が、好きな惚れた女性を盗みに行ったのです。当然橋を渡って行ったのは男です。男女平等を叫んで橋の真ん中でデイトしていたら7月7日は加茂橋大橋や四条大橋や瀬戸大橋などのど真ん中は若い男女でいっぱいになり橋はたちまち崩壊してしまうでしょう。
 さて、はて、愛し合う二人が幸せになったかどうかは二人が織り上げる物語です。今晩は、若き頃の棚機の夜に帰って過ごしてみてはいかがでしょうか。
 さて、今日のテキストは、ロマ書です。
 パウロが人類の親としてのアブラハムから、神の愛と惠みを引き出した凄い神学的な解釈を展開している場面です。今日の箇所は18節以下ですが、その前提は278頁下段の13節から始まっています、小見出しは、「信仰によって実現される約束」です。私どもにとってアブラハムがなぜ信仰の父なのかと言えば、優れたその人格と行動の結果ではありません。神さまが子供を授けてくださると宣言されたとき、アブラハムはこんな高齢な私に子供なんてと笑ったではありませんか。そればかりではありません。妻のサラまで笑ったのです。アブラハムの人生の歩みがことごとく模範的で優れているから、私どもの父なのではありません。そのアブラハムが、愛する息子イサクを献げようとしたあの決然とした神への忠実な行動。それは犠牲を強いられたとも言える苦痛に満ちた不条理ドラマ、そのものだったのです。
 にもかかわらず、信仰に忠実に歩んだアブラハムのその全生涯によって、私どもの歩むべき道を教えられているのです。つまり、アブラハムのその行動は、徹底的に一人の個人としての決断であり、神の約束は、集団や民族との約束ではないのです。だから民族や国境を越えた、信仰の父になったのです。
 現在孤独死や無縁死などが話題になっていますが、アブラハムを見ていると孤独力が重要だなと思わせられるくらいです。
 テキストの寸前の17節(279頁)をご覧ください。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」。 ちょっと読むと難しいなあと思うかも知れませんが、そうではない。素直に読めば分かります。無から有を創り出す全能の神を信じることです。旧約の最初の頁、第一章「天地の創造」を開けば、ああ、そうだった、と納得できます。「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じなければ絶望を越える道は無くなってしまいます。
 こうして18節へとつながっている。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」とあります。
 やればできる、なんとか自力でやれる次元のものは、希望とは言えません。万事休す、としか言えない絶望の断崖の上に追い詰められて祈るしか、いいえ、祈る気力もなくなってしまったときに、なお望みをいだくのは困難の極みですが、そこで初めて、私どもの信仰が問われるのです。もう、祈る気力もありません。神さま、御心ならば、絶望している私に祈る力と勇気をお与え下さい、と何度祈ったことでしょう。
 誰でも人生の伴侶にさえ言えない苦悩ってあるものです。最愛の伴侶を苦しめないためにも一人で耐えねばならない苦悩ってあるのです。私など気が弱く守秘義務があっても寝言で皆しゃべってしまう人だと思われていますが、どういたしまして、人間そんなに単細胞ではありません。
 アブラハムはどうであったか。すでに百歳になっていたアブラハム爺ちゃんは、「その信仰が弱まりはしませんでした」。 20節、「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました」。 続いて21節、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信しているのです」。 
 ここで21世紀を生きている私どもには、科学的、医学的、その他の学問的知識や教養が邪魔する時があって、何が神さまの御心であるのかを逆に見分け難くなっているのです。原発問題一つを見ても、現閣僚の中軸であるIさんもAさんもキリスト者ですが、この問題を経済的利益の視点からしか捉えていません。創世記の被造物の管理権を委ねられている人間の責任をどう捉えているのか聞いて見たいものです。
 神さまの声がまっすぐに降りて来るのが聞こえたらうれしいのですが、そこは、人間に自由意志をお与えくださったのですから、私どもは、どんなにたいへんでも自分で行動に責任を持たなければなりません。愛に基礎づけられた決断を絶えずして行かねばならないのです。祈りつつ、神さまの声に従って行行きたいものです。
 日本キリスト教団が教団の中で福音派系と実践派系に二分されているような現状は悲しむべき動向であります。主は一人、教会は一つなのです。
 七夕のその後についてちょっと付け加えます。1950年代後半頃から、七夕流し、つまりたくさんの願い事を書いた短冊の竹飾りを翌日河に流す楽しい行事が各地で禁じられるようになりました。高度経済成長期がもたらした自然破壊、環境破壊が目を覆うようになったのです。東京の隅田川で古畳みが流れ、大阪の淀川で中古品の自転車が流れている、悪臭を放っている、という末期現象が始まっていました。
 七夕流しが出来ない状態にしたのは誰だったか。そして人間の愚かさが行き着いた先がチェルノブイルであった。小説家の水上勉が生前、彼の故郷の若狭の海岸線が原発銀座になっていることを怒って、激しく当時の日本を批判しつづけました。講演会で接した水上勉の熱情的で真摯な人格に深く心動かされた日のことを覚えています。
 さて、テキストに戻りましょう。
 22節以下です。アブラハムが義と認められたのは、信仰によってであり、それは神さまの惠みによってであります。
 24節、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます」。 25節、「イエスは、私たちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」と総括しています。いわゆる信仰義認です。
 この告白は当然現在の私どもキリスト者の信仰告白でもありますが、パウロはこの告白を洗礼(バプテスマ)と結び付けている、のが独特なのです。
 ユダヤ教では、死者は地下、海(水)の中に行くと考えています。地中海世界ではそういうとらえ方していました。日本は故郷近くの山や森に死者たちがいて見守っていると考えて来ました。
 死者を水の中から掬い上げることは誰もが考えついたことでしょう。パウロは、その考えと罪の赦しを結び付けたのです。
 それは6章(280頁下段)です。小見出し「罪に死に、キリストに生きる」が見事にバプテスマ神学を要約しています。3〜5節(281頁下段の最終行)からです。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。
 水の中から立ち上がる禊ぎの儀式は、ヨハネの悔い改め運動の儀式だったのですが、パウロは、ここからキリスト教徒になることの意味をさらに深めてくれたのです。すなわち、キリストの死と再生のドラマが洗礼であり、義とされる喜びであることを解き明かしているのです。
 死と再生のドラマを演じることが出来た私どもは、絶望の断崖の上に追い詰められても、もう動じることはない、と言っても弱い私どもですから揺らいでしまうかも知れません。が、希望を失うことはあり得ないのです。必ず主からの助っ人が私どもを支えてくださいます。
 七夕伝説は、楽しい一夜の楽しみですが、私どもキリスト者は、とこしえの命を与えられている。すでにイエスさまと一緒に復活している。この信仰に立って、雄々しく我が生涯を貫いて行きましょう。
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