わたしの愛にとどまって
ヨハネによる福音書15章1〜10節
 先週金曜日、雨があがって、ちょっと涼しい風が出てきたので少し遠くまで散歩しようと思って家を出ました。ご承知の通り、車がないので、歩くしか方法がない。土師の東部の五、六丁目は馴染みがないので、もしかしたら蛙の合唱が聞こえるかもと思って出かけました。結局十分余りで府立大学の西門に着きました。まっ白な夾竹桃の花が夏に相応しく風に揺れていました。背丈の高い外国種の松や亜熱帯的な樹木が目につきます。まっすぐに白鷺門を目指しました。白鷺駅に続く街並みは、新家町でした。おそらくここから中百舌鳥近くの団地に安村喜行牧師のお家があるんだろうなあと思いました。
 さて、行き当たりばったりで寿司屋の暖簾を潜ると、五時半過ぎ、カウンター席に、もう三、四人先客がいました。外観と違って店内はちょっとした割烹旅館的な良い感じでした。座布団のカバーは印刷されたものではありましたが、いかにも涼しげな季節感のあるデザインであり、室内は質素ではありますが、老舗の雰囲気さえ感じさせてくれました。カウンター席は、にぎやかに暮らしの情報らしきものの話で盛り上がっています。都会の寿司屋ではあまり見られない情景です。上にぎりを注文しましたが、ご主人はゆったりと俎の前で一緒に話しに興じています。和やかな楽しげな雰囲気です。
 注文した寿司はゆっくりと姿を現しました。
大きな重い皿に、大きなネタ、大好きな鰻、ハマチ、海老もある。良い感じ、を久しぶりで味わいました。その後、握っているのが店の主人であり、甲斐甲斐しく立ち振る舞っているのが奥様であることが分かりました。元気いっぱいの中年夫婦。ここは、もともとご主人の育った家であり、お父さんの後を継いだ。奥様もこの町の出で、実家は歩いて五分、二人は小学校の同級生。ご主人は大阪や京都で修業したことはなく、父から技術を学んだとのこと。奥様が声を掛けてきた。
「お客さんはどこから?」
「土師町から。知ってる?」
「深井なら知ってるけど」
「府大をまっすぐに横切って西側だけど」
「家から此処まで十五分くらい?」
「いいや、三十分」
 ここで会話が区切れてしまいした。
「ああ、知らないんだ。府大を挟んだ東西なのに。否、府大に切断された東西という方が正確かなあ」
 つまり、せっかくの大学が地域を結び付ける役割を果たしていないような印象なのです。そう言えば、一昨年のクリスマス讃美礼拝にお誘いした府大大学院生は迷って迷ってようやっと土師教会に来てくれました。が、その後手紙を出しましたが二度目がありませんでした。府大と土師町との結び付きも現在ではほとんどないような気がします。新家町と土師町は府大を挟んで全く別の地域を生きているのです。府大も、もしかしたら府大という構内だけを場として呼吸しているのかもしれません。大学周辺も学生の町という雰囲気は感じられないのです。ただし、これらのことは、あくまでも私の印象であって、ほんとうのところは分かりません。教えてください。
 では、土師教会はどうでしょうか。土師町の中でどれくらい必要とされているのか、否、知られているのか、どんな社会的な位置を占めているのでしょうか。私としては、十字架が目立たないことが残念でなりません。84年の歴史を積み重ねて、何をどう刻んできたのでしょうか。土師教会の歴史をどう理解したらいいのか考えるヒントを教えてほしいなあと思います。
 さて、教会とは何でしょうか。ヨハネ福音書15章1節、「わたしはまことのぶどうの木」の「まことの」とわざわざことわっているのは何故でしょうか。小見出しも、「イエスはまことのぶどうの木」とことわっています。ご存知のように、現在日本一のぶどうの産地は山梨県です。甲府には、最初にぶどうがシルクロードから渡ってきた地と伝える仏教寺院があります。
 あれ、ぶどうはキリスト教の象徴ではないの?という人がいるかもしれません。が、日本の教会でぶどうで有名な教会って、聞いたことがありません。
 大阪は、太子町あたりがぶどうの産地として有名ですが、じつは戦前日本一の産地は、大阪南部であった時期があったのです。現在、かつての繁栄を取り戻すべくワイン製造にも本格的な参入をし始めたようです。うれしいニュースです。日本の古代仏像の台座には唐草模様(つまりぶどうのデザイン)がたくさん使われています。薬師寺の薬師如来の台座が有名です。なぜか、古代から生命力と命そのものの象徴としてぶどうは不動の位置を占めてきたのです。つまりぶどうは、キリスト教の象徴である以前に、中近東オリエントを代表する命の象徴であったのです。そういう背景を知ったうえで、「わたしはまことのぶどうの木」とあえてことわったイエスさまの真意が見えてきませんか。ぶどうの繁殖力はご承知の通りです。
 ヨハネ教団がユダヤ支配層からの迫害を受け、やがてはヨハネの惨い死に方を知っている私どもには、ヨハネが預言した命の象徴であるイエスさまという実感が迫ってくるのです。
 ですから2節、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は父が取り除かれる」と断言する。ただし、まちがってはいけません。取り除かれるとは、剪定のことです。剪定はさらに豊かに実を結ぶためになされるのです。もう一度言います、幹にぶらさがっているだけでは取り除かれてしまうのです。そうではない、主イエスと一体となって豊かな実を結ぶ仕事(伝道)に打ち込んでいなければ無意味なのです。「実を結ぶ」のはごく自然な成り行きなのではありません。放っておいたぶどうは、良い実を付けないことは栽培してみればよく分かります。信仰によって、私どもは、愛の実を結ぶことが出来るのであります。
 テキストは、じつは教会論なのです。「つながって」は、ギリシア語では、「とどまる、残る、宿る、住む」などの意味があります。「とどまる、残る、宿る、住む」が、「つながって」いるのです。つまり私どもの教会が、イエスの身体であるというのであれば、枝としてしがみつき、ぶらさがっているだけでは意味がない。イエスさまと生き生きとした有機的な関係を維持しつづけていくことが肝心なのです。今日のテキストの要は九節であります。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい」です。
 「つながって」と同じ動詞なのです。何度も何度も読んでいれば、そうなんだと分かってくるのです。言葉っておもしろいですね。ギリシア語が分からなくても新共同訳聖書を何度も読んでいると分かって来るのです。
 愛は、父なる神から伝わって、子なるイエスさまが体現してくだった愛が原動力となって私どもにも伝わっているのです。こうして愛が私どもに宿って、互いに愛し合うのです。これが教会です。教会は世界でたった一つの見えない教会と現在私どもが具体的に属している目に見える土師教会が重なっているのです。だから世界中が主にあって一つの教会と言い切れるのです。「わたしの愛にとどまって」は、積極的な行動によって可能なのです。
 土師教会は、日に日に高齢化が進んでいきます。病院や施設で暮らしている会員もおります。が、信仰によって教会形成につながっているのです。手足が不自由になっても、私どもは祈ることができます。愛の実が次々と結ばれれば、主にある友が増えるのです。高齢者も中年も若者も子供達も皆が、イエスさまの身体としてつながっていきましょう。
 イエスさまが今日も呼び掛けています。
「わたしの愛にとどまっていなさい」と。
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