最も小さい者の一人に
マタイによる福音書25章31〜40節
●第一部 CSの生徒たちに
 ここのイエスさまの言葉、どうですか。
 謎々のようにむずかしいなあ。三七節の「正しい人たち」って、どういう人たちのことでしょうね。真面目な人、やさしい人、周りの人の様子を注意深く見て必要ならば手助けできる人、気配りができる人、などなどいろいろ考えられるね。
 (ここで子どもたちの答えを求める)
 ううーん、イエスさまは、次のように言いたかったのだよね。つまりさ、「自分は真面目だからいろいろできると思いこんでいるようだけど、ほんとかなあ。だってわたしが飢えていた時、のどが渇いていた時、裸の時、病気の時、牢屋にいた時、いろいろしてくれたね、ありがとう」と。
 そしたら、正しいと思いこんでいた人たちは、びっくりして、「主よ、いったい何時そんな時があったのですか」って問い返したんだろうなあ。いつもまわりを注意深く見ていたけれども、主が眼の前にあらわれて、お腹をへらしていたり、病気であったり、牢屋に入っていたりしたのを目の当たりにしたことは一度もありませんでした」と答えたに違いありません。
 その時のイエスさまの答えは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。
「最も小さい者」とはだれでしょうか。
 さあ、考えてみよう。大きな蕗(ふき)の葉っぱの下にいるという北海道のコロボックルは、堺や河内長野にはいないし、昔話の一寸法師やかぐや姫もいない。白雪姫と七人の小人たちも童話の世界だ。
 じゃあ、「小さい者」って、イエスさまとどういう関係なのかなあ。
(ここで再び、子どもたちに答を求める)
 「小さい者って、
  イエスさまのことなのだ」
 ううーん、そうだね。きっとそうだ。あるいは、イエスさまは、いろいろなところで、いろいろな姿で子どもの前に現れるんだね。でも、でも。なかなか気が付かないんだよ。
 ところで、友だちがいない子どもっているかなあ。いつもみんなと離れて寂しそうな子ども。もし、いたら仲よしになろうね。
 だって、世界中の子どもはみんな神さまの子どもだから。
 お祈りしましょう。

●第二部 教会員たちに向けて
 よく考えると「変だなあ」と思うことがたくさんあります。教育に関する言葉だけでもこれは、「もともとどういう意味で使ってきたのかな」って思う言葉があります。
 幼稚園の「幼稚」、「お前はいつまでも幼稚だなあ」、「あいつは幼稚だ」。これらは明らかに軽蔑語です。「幼稚だ」と言われて幼な子の純心と無垢さを思い浮かべて、「ありがとう」とにっこり微笑む大人は、まあいないでしょう。
 小学校、中学校の義務教育を終えて、いよいよ高等学校です。ところが、文部省の区分では、高等教育の中に高校は入っていません。高等学校は、中等教育の分野なのです。高等教育というのは、高専、短大、大学、大学院のことです。
 亡くなった私のすぐ上の兄は、高校に入学したのですが、中途退学しました。不登校ではありません。毎日精勤しました。成績不振ではありません。不振どころか、成績ゼロだったのです。釣り大好き少年でしたから、毎日学校の正門からちゃんと入って、そのあと校舎に入らず、まっすぐに裏門を抜けて学校の裏にある大きな沼で釣りに励んでいたのです。通信簿には全欠席、成績、全科目空白という前代未聞のケースになったのです。家族全員呆然となりました。後に兄は、日本を代表する陸(おか)釣りの名人になり、いわゆる職業は三〇代で卒業しました。
 その兄は、私が大学に入ると、「そうかあ、高等学校を卒業したのに、勉強が足りなくて大きな学校(大学)に入り直したんだ、かわいそうに」と言ったのです。高等学校は、兄にとって正しい意味での高等教育を施す学校という意味だったのです。
 言葉というものは、いつも裏表の二重の意味を合わせ持っていることが多い。「最も小さい者」とは、可愛らしい意味と共に幼稚な憐れな奴だという軽蔑を合わせ持ってもっている。だから逆に小さいのにやがて英雄になる一寸法師、地上の王たちの求愛をも退けて天上に帰って行くかぐや姫がいるのです。極めつけがベツレヘムという小さな変哲もないないところで生まれて、世界を救うメシアとなったイエス・キリストです。
 今日のテキストの「最も小さい者」とは、マタイ福音書に即して言えば、明らかにイエスさまの弟子たち、すなわち貧しい伝道者たち(小さい者たちの一人)のことです。苛酷な状況の中での伝道の旅であったことは福音書を読めば分かります。「飢えて、喉が渇き、着るものがなくなり、あるいは病気になり、牢獄に留置された」、 福音を伝える苛酷な伝道の日々でありました。それらの弟子が遭遇したあれこれは、すなわち私が遭遇したことなのだ。あなたがたには、そんな私が見えなかった。確かにあなたがたは、私だとは知らなかった。ただし、遭遇した事実から目を離さずに当然なすべきこととして、ひとつひとつ行動したではないか。じつはそれらは私にしてくれたことなのだ、とおっしゃっているのです。あなたがたは、正しい者だ。
 さて、現在の私どもは、イエスさまの小さ弟子として、現在の文脈の中で何処を何を見てているのかとイエスさまから新たに注意されそうです。
 じつは、二週間前、教会のベルが小さく鳴りました。ほんとうにベルかなと思うほど心細く鳴るのです。出て見て、すぐに分かりました。おそらく三〇代前半の若者で、ちょっとみすぼらしい服装でしたが、まあ一見真面目そう、あるいは病弱。顔色は良くない。口ごもりつつしゃべりますが、要するに、「お腹が空いている」と言うので、「温かい食べ物は今ない」と答えると、「お金を貸してください」でした。こういう人は、応待に失敗するとどんな行動に出るか分かりません。
 意に反して、五〇〇円を教会のあの茶色の封筒に包んで渡しました。もしかしたら、封筒を読んで礼拝に来るのではないかと。「わたしが飢えていたときに食べさせ」というイエスさまの言葉と私の行動は一致していません。おそらくこの青年は常習犯です、どうしたらこの青年が自分自身に誇りを抱き、自立していけるのか、どういう援助をしていくべきなのかを真剣に考え、行政にも訴えていくことが私の役割でしょう。キリスト者は、単なる個人的善意の人であってはなりません。社会全体の変革を目指して行動しなければならないのです。
 今日のこの「最も小さい者」とは、現在の文脈で読めば、経済的困窮者、福島原発の被害者、すなわち十五万人の避難生活を続けている人々、重い障害がある者、外国人不法労働者、難病の病人、囚人などが考えられます。
 イエスさまは、これらの状況に目を背けている者たちは、神の羊ではない。永遠の命を与えられないと断言しているのです。
 突き詰めて考えれば、私ども一人一人がこれらの人々でもあるという事実に目覚めないかぎり、「あなたを知らない」と神様は審判の座で断言なさるでしょう。
 主よ、私どもに勇気と知恵と行動力とを与えてください。
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