葬りに行かせて
マタイによる福音書8章18〜22節
 私が働いていた短大は、園芸生活学科が東京近郊にありました。私は、週一回、園芸学科に文学を教えに行っていました。
 そこには大きなビニールハウスや総ガラス張りの亜熱帯植物園などもありました。私は、キャンパス内に聖書植物園を造ることを提案したのですが実現しませんでした。博多の西南学院大学が聖書植物園を現在持っているようです。
 ある秋の午前、葬式場の花の飾り方の実習があったのです。後日、その日の実習の報告を聞きました。
 それはこういう内容でした。
 黒枠の額の中の死者が、入口に向かって微笑んでいるのです。どこかで見た顔でした。そうです。森田進先生だったのです。学生たちはこう語りかけました。「先生、こんな美しい秋に亡くなられてよかったですね。秋はお花がいっぱいあるので、楽しく装飾ができて、死者にたむけられます。それに花が安く手に入ります。ところが、死者は、真冬の二月や、ま夏の八月が多い。歴史上有名な人物は、二八(にっぱち)が断然多い。しかも花枯れの季節で、おまけに花が高くつきます」。 
 本当でしょうか。これは、学生たちが作りだしたブラック・ユーモアだったのです。
 が、実際の葬式は、こんなに楽しく気安いものではありませんね。病床生活の果てであっても準備が十分ではなく、慌ただしく、なにが何やら分からぬままに時間が過ぎて行ったりします。葬式後、一週間も過ぎてから、遺族は、不意に悲しみに襲われたりするものです。
 私は、祖父、母、祖母、そしてわが子たち、兄たち、姉と次々に肉親を送ってきました。おそらく次は、いよいよ夫婦の別れでしょう。人生の最終コースに入ってから、牧師になったのは神様の導きとしか思えません。土師教会の牧師をあと何年続けられるか分かりませんが、死と向き合いながら、復活を信じて生き抜こうと思います。この中で誰がいつ神さまの身もとに行くのかを誰も分からない。はっきりしていることは、誰も自分の葬式を見ることが出来ないということであります。だからこそ私どもは、他者の葬式を大切にしていきたいと思うのです。
 土師に赴任してから土師町の共同墓地を知りました。ニサンザイ古墳の環濠に沿った大規模な墓場です。見るともなく見ていると人の出入りが多い。ある種の社交場でもあるようです。「朝から御苦労さんだね」とか、「ついでにあちらも寄って行ってよ」とか言う声も聞こえたりします。私は何をしているのかと言うと戦死者の名前や、子供の日付を読んだりしながら土師村の歴史に思いを馳せたりしています。教会墓地がないので、私の死んだ子供たちの骨壺は自宅に置いたままです。
 同志社大学を卒業してから実社会でキリスト教に触れて熱心なキリスト者になったKさんは大学時代の寮の先輩です。独学で神学を学び、Cコース経由で神奈川県の牧師になりました。牧師を目指した大きな要因は、知的障害を持つお嬢さんの無垢な信仰に励まされ続けた教会であったようです。ところが、そのお嬢さんを突然自動車事故で失ってしまいました。六〇代後半でした。赴任した教会でK牧師が取り組んだ仕事は、教会堂の改修そして教会墓地でした。それをなし終えて、いまは引退されています。
 私ども土師教会は、どういう選択をするでしょうか。教会堂の改修そして教会墓地、私どももこの問題に直面しております。 
 日本人の場合、先祖伝来のあるいは父母の墓と、初代キリスト者としての自分の墓をどうするのかは大問題です。十誡の第五条にあるように、「あなたの父母を敬え」は、キリスト者にとってもその通りだからです。どこに墓を建てるか、それとも散骨か。先祖や父母の分骨をするか否か。どれも正解はありません。それぞれがま向かっている難問です。
 少なくともこれだけは言えます。教会員である自分の葬儀は、断じてキリスト教ですべきです。が、それぞれの家の事情で悩んでおられる方もいるでしょう。今のうちに葬儀の仕方については、はっきりと態度を決めておきましょう。教会が責任を持つために必要なことです。「千の風になって」というような情緒的で曖昧な態度では、信仰を持って人生を貫くことはできません。
 さて、今日のテキストの小見出しは、「弟子の覚悟」です。ルカ福音書にもほとんど同じ並行記事があり、小見出しも同じです。冒頭の18節は、「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。伝道開始以来、イエスさまは多忙を極めていました。弟子たちも同じです。古代から現代まで人類の最大の悩みのひとつは、病気です。世界のどの宗教も病気からの回復、そのための祈祷、治療が、大きな関心事なのです。仏教でも薬師如来への信仰が厚い。薬師如来は薬壷をもった医学博士なのです。
 癒しを求める群衆の群れ、そこに大衆受けを狙った偽宗教者たちがつけこんできます。癌末期と聞くと、さまざまな宗教が入り込んできます。
 二千年前も同じでした。派手な見世物としての奇跡が評判を呼ぶ。現象的にはイエスさまの伝道と区別が付け難い。イエスさまと弟子たちを取り巻いて群衆たちはひしめいています。伝道旅行はいつもくたくたであった。そしてマルコ福音書によれば、食事をする時間もないほどだったとあります。
 だから例えばマタイ18節が必要なのです。伝道するためには、休息と食事が欠かせません。
 19節、「そのとき、ある律法学者が近づいて、『先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります』と言った。きっと、律法についてよく勉強してその規則を忠実に守っている人物でしょう。その専門家であるという自負ももちろんあります。
 ここの「先生」という呼びかけには、ユダヤ教で尊ばれている教師(ラビ)という敬称が使われています。これは、権威をもって説教するイエスさまへの憧れとある種の羨望も感じられてなりません。
 しかも、「あなたのおいでになる所なら、どこへでも」という言い方はたいへん軽率な発言だと思います。イエスさまは、たった今弟子たちに、「向こう岸に行くように」命じられたばかりです。歩けとも船で行けとも言っていません。向こう岸の何という町でしょうか、村でしょうか、今晩泊まるところはあるのでしょうか。そしてこの学者のたいへん軽率な発言に対して、イエスさまは、にべもなく、なのか、独り言、なのか、秘かな嘆きなのか、次のように答えたのです。
 「キツネには穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。 これが返答なのです。つっけんどんな、冷たい言い方ですが、ここには帰る家もなく、くつろぐ家族との団欒もない孤独なイエスさまが見えている。だいたい弟子たちが出発してしまったらどこに行くつもりでしょう。「えっ、そんな」っとつぶやく学者の落胆した顔が見えてきそうです。学者も偉大なラビになりたかったのです。イエスさまのおそろしい孤独な言葉にたちまちひるんでしまいます。
 またここには、「人の子」という言葉が、さり気無さそうに登場していますが、じつは意識的に選ばれた言葉です。神の子ならば私どもにも抵抗がありません。よく分かります。「人の子」は、旧約聖書に於いて、アダムの子、すなわち人間という意味です。それが、旧約の終わりに近づき、黙示文学の中で「人の子のような者が天の雲に乗り」とダニエル書に登場してくると、ユダヤ民族を解放する救世主のイメージを色濃く担って現われているのです。神の子であると同時に人の子(人間)であることが重なり、メシア像がぐっと実感的に迫ってきたのです。人間の救い主としての完璧なイメージが確立したのであります。この事実を踏まえて、イエスさまが自分自身を規定した称号が「人の子」であります。「だが人の子には枕する所もない」は、イエスさまの孤独を意味するばかりではありません。父なる神の一人息子でもあるのです。ここからメシア宣言まではもうすぐなのです。
 では、21節の弟子の一人の発言はどう受け取ったらよいのでしょうか。
 「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったのです。ユダヤ教に於いて、親の葬りは何事にも優先されるべき重要な儀式であります。現代の日本だって同じでしょう。家族に最後のお別れをさせるべく、あえて延命させてでも時間を引き延ばすことはしばしばであります。だいたい遺体を放置しておけばみるみる悪臭を放ってしまいます。遺体に触れることは汚れでもあります。十誡にも反します。ですからこの弟子の言ったことは間違っていません。にもかかわらず、イエスさまの言葉はきびしく拒否的に迫ります。
 「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」
 この無慈悲な返答に私どもはたじろいでしまいます。イエスさまの本心はどこにあるのでしょうか。
 これは、十誡の無視ではありません。「父母を敬え」への反対でもない。この場合の先に出てきた「死んでいる者たち」とはどういう意味なのでしょうか。これは、神のみ心を理解していない者、即ち霊的に新しく創りあげられていない者という意味なのです。そういう世俗的価値観に止まっている者なら葬りに行くがいい、というのです。つまり、あなたは私の弟子の一人ではないか、弟子とは何なのか十分に考えてみるがよい。何が重要なのか、何がみ心なのかを常に問いながら生きているはずである。今は何をすべきなのか。どこに行こうとしているのか。
 イエスさまの返答は、こう始まっています。「わたしに従いなさい」
です。続いて、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」です。これは葬りの否定ではありません。しかし、かれらは初代キリスト者ではないのです。
 私どもは、現代の初代キリスト者です。欧米の多くのキリスト者とは異なった伝統の中にいます。むしろ原始キリスト教に近い状況にいるのです。ここから出発すればヒントがたくさん得られるのです。自分たちの信仰を貫きながら、父母も敬い、父母たちの魂をどうやって救うのか、ひたすらみ心に聞き従っていくべきです。これも正解はありませんが、脊負って行くべき大切な課題なのです。
 日本は、キリスト教の最後の辺境地です。ここで伝道していることをむしろ感謝しながら、神の栄光を称えて突き進みましょう。
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