実を結ぶ
ヨハネによる福音書15章11〜17節
 先日皐月闇の夜、火の用心の拍子木の音が聞こえてきました。そういえば日暮前、消防車のけたたましいサイレンが鳴り響いていました。何台も何台も近づいては遠ざかって行きました。西福寺隣の北田さんのご主人も顔を出されて、「近いようだなあ」と言っています。あわてていません。消防車が入れないこの街道だからのんびりしたものです。この昼間のサイレンと夜の火の用心とが呼応していたのか否かは分かりません。「隣組長」である私は、気になって飛び出したというわけです。「隣組長」という漢字三文字は、まるで新撰組、白虎隊になったような時代劇を演じているような気分になります。埼玉県の新座市の団地では、全く違った呼称でした。
 そしてある日の午後五時前、足腰を鍛えよとのお医者さんの忠告を思い出して、西福寺の裏側がどこなのかを見極めようとして散歩に出かけました。が、たちまち迷ってしまいました。磯野良嗣邸の近くの竹林の傍を通り過ぎて、人気のしないもの寂しい石段を登ると、どうやら空き家のようです。少年時代の探偵ごっこを思い出して、急に元気づき、あちこちの裏道を通り抜けました。日が傾きだした頃、静かな御屋敷に迷い込んでしまいました。テレビがついているようです。なんだか懐かしく、来たことがあるような気がするのです。なんと永菅節さんの御屋敷でした。門もなかった。鍵もなかった、のにどうしてわたしはここにいるのだろう。振り返ると小林一寛邸です。そっと気づかれないように、長屋門に近づき、ギギッという音に緊張しながらようやっと娑婆に戻ってきました。こんな近所なのに私には、異次元の世界だったのです。夕日に照らされた土師教会堂の十字架を見たとき、ほっとしました。この村の中に教会が建っている事実、あの長屋門が、小林まつ姉が開いた最初の日曜学校の場所であった事実をどう受け止めたらいいのか、そこからどのように教会が創立されていったのか、その後の80年余りの苦闘をまだはっきり把握出来ていませんが、突然、日本各地で宣教している仲間たちの苦闘を思い浮かべて、会いたいなあとしみじみ思ったのです。迷宮の迷路の中での宣教だなと実感させていただいたわけです。
 今日のテキストは、あまりにも有名な場面ですが、あまり緻密には読まれていないような気がします。しつこいまでの愛についての説教です。おそらくヨハネ教団のテキストの一部だったのだろうと思われます。
 そもそも十五章の一節が格好良すぎる。「わたしはまことのぶどうの木」、 ここだけが一人歩きし過ぎているのが現代の世俗社会です。小見出しは、「イエスはまことのぶどうの木」なのです。第一節も、「わたしの父は農夫である」なのです。ヒューマニズムに合わないものはどんどんはしょるか、ちょん切ってしまう。そして気のきいた寸言として受け止める。こちらを戸惑わせたり、傷つけたりしない。
 イエスさまの言葉、「あなたがたは地の塩である」も同じ。その後の「だが、塩に塩気がなくなれば」以下はちょん切られて一人歩きしているのです。
 今日のテキストで言えば、十三節、「友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない」。 凄い言葉です。私も学生時代こ寸言に涙をこぼした一人です。ここもヒューマニズムが歓迎する言葉です。しかも自己犠牲への讃歌であります。ここでもその前後の関係が切り捨てられている。
 大体15章は、父なる神と子なるイエスさまと信じる私どもとの愛によって結ばれた関係性について懇切ていねいにしつこいほど念には念を入れたイエスさまの言葉なのです。ここまで言い含めないと、心の板に書き留められない弱くてどうにもならない存在が私ども人間の実態なのです。そこを差し置いて命を捨てる愛に酔いしれるヒロイズム(英雄崇拝)へと雪崩こんでしまう情けない人間なのです。
 弟子たちと最後の食卓を共にして、弟子たちの足を洗ったイエスさまが、ペテロの離反をも予告したあと、愛とは何かについてなされた決別の長い説教の一部がこの15章なのです。私どもが自分に快い部分だけを切り取って、耳に痛い部分をちょん切って聞いているかぎり、愛の具体性、肉体性は見えては来ない。地上でのイエスさまの歩みの総決算、最後に十字架に向かって行く寸前の決別説教の深い深い、み心を理解するためには、イエスさまが語る愛の共同体に目覚めていかなければならない。ここに登場してくる「つながって」とか愛に「とどまっている」あるいは「実が残るように」という言葉をどう受け止めるかが理解の分かれ目なのです。静かに消極的に幹にすがっているというようなイメージで捉えるとすれば間違います。ぶどうの木の枝であるということは、じつは積極的な行動を意味しています。愛の共同体は、9節、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」 が、語っているように、愛の共同体を積極的に生きることを意味しているのです。
 だから、15節、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、 この語りかけも凄く感動的です。二千年まえの身分社会の中で主人と僕(奴隷)が友であるはずがない。その社会的束縛からの解放こそ愛の共同体の革命的基本構造なのです。
 その友のために命を投げ出して十字架上で死んでいったイエスさま、そして死から甦ったイエスさまの行動が、愛の具体性なのです。三浦綾子の『塩狩峠』の主人公もまた命を投げ出して人命を救ったのでした。あの車掌は熱心な耶蘇でした。
 「つながる」も「とどまる」も「残る」も、じつは同じ単語なのです。わたしどもも、つながり、とどまり、残るという具体的な行動を通してイエスさまの弟子であり、共同体の重要な一人一人として生きていくべきです。
 その行動が目指すものが何であるかは、はっきりしています。「実を結ぶ」ことです。驚くべきことに、「実を結ぶ」とは、愛を結ぶことであると同時に、伝道することを意味しているのです。絶対的な少数者であったキリスト教徒は、こうしてローマ帝国を揺るがす力になっていったのであります。
 さあ、私どももまた土師町の迷宮の隅々まで、豊かに実を結ぶ生活を展開していきましょう。
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