陶工の手の中に
エレミヤ書 18章1〜10節
 おとつい5月10日夜7時から島根県出雲市の出雲神社では、1953年以来60年ぶりの本殿遷座祭が行われました。テレビあるいは新聞でその報道記事を御覧になった方もいらっしゃることでしょう。日本の代表的な神社にある遷座祭は、何年かごとに行われる本殿修理の間、ご本体は仮殿に移られるというのです。
 朝日新聞の見出しは、「出雲の神 厳粛な帰還」でした。この表現にこだわれば、出雲以外にはそれぞれの神がいて、日本全体の神という存在は、ないのだ、ということになるでしょう。
 それでは、近代国家としての統合性は保てないというので、国家神道が組織化され、その頂点に天皇を戴いたのです。
 しかし、そもそも古来の神道には哲学的体系、特に信仰についての体系がありません。何もないから何にもなれる。そこが危ない。
 殊に、葬式を神社でしないことはご存知の通りです。人が死ぬという決定的な出来ごとを宗教本来の場(神殿)で行わないという事実をどう考えたらいいのでしょうか。
 緑の杜に囲まれた神社という光景、たとえば明治神宮、平安神宮、上賀茂、下賀茂神社などはわたしの好む所ですが、神道そのものは宗教的、信仰的な次元においては、私には魅力がありません。
 『古事記』は、楽しい神話世界であって、神道の正典とはとても思えないのです。
 再び出雲に戻れば、旧暦の十月を、出雲では、「神在月」というのをご存知ですか。
十月になると全国各地の神さまがみな出雲神社に集まって会議をされるというのです。出雲以外は、十月は神さまが不在なので、神さまのいない神なし月、すなわち神無月なのです。
 御留守の間、神さまが相手をしてくれなかったら、人間たちの悲しみや苦悩などはどうなるのでしょうか。神さまたちは出雲で誰と誰は相性がいいと縁結びの相談をしているとか聞いています。
 そもそも現在の日本では、国家神道という禍々しい歴史を体験したので、宗教に対する根本的な誤解があって、公の教育現場で宗教教育をしません。そのために宗教について義務教育の段階で真面目に考える訓練を受けたことがないので、大学生であっても、学問的に信仰とは何かについて、さらには、世界の宗教的現実を見つめる教養に欠けていると言わざるをえません。
 ましてや、神の言葉を民衆に伝える預言者の歴史を持つユダヤ史はなかなか分からないと思います。私どもキリスト者は、旧約の預言者の延長線にモーセよりも偉大なイエス・キリストを最大の預言者として仰いでいるのです。
 では、今日のテキストに入りましょう。
エレミヤ、一言で言えば、バビロン捕囚期を生き抜いた預言者であります。ユダ王国最後の王ゼデキアは、ネブカドネツアルによって王位につけられましたが、エジプトとバビロンの間で葛藤して、ついにバビロンに反旗を翻したのです。その間、エレミヤは、抵抗することの無謀を指摘して、バビロンに投降して服従すること、それこそユダヤ民族が生き延びる唯一の可能性であると説いたので、王ゼデキアによって投獄されてしまったのです。が、エルサレム陥落後、バビロン軍によって解放されました。そしてエルサレムにとどまることができましたが、やがてエジプトに連れ去られて、彼の地で死んだと伝えられています。
 エレミヤの預言者としての功績はどこにあるのかと言いますと、ヨシヤ王が神殿の修復を行った時に発見した「律法の書」に沿ってそって始めた宗教改革に賛同しました。この「律法の書」は、現在の旧約聖書の「申命記」の主要部分であると推定されています。その目的は、イスラエルの全域に亘って、エルサレム以外の聖所を廃止して、聖所の統一をすることにあったのです。あちこちの聖所が土俗の宗教バアルの悪に染まっていたからです。アナトトの地方聖所の祭司の子として、おそらく十代末で召命されたエレミヤは、申命記の律法こそがユダ王国を救うと確信したのですが、そのために暗殺される危機にも陥った。やがて、律法主義に急傾斜していく宗教改革に疑問を持つようになり、結局人間の力では限界がある、人間性そのものの変革なくして改革は出来ない、神の介在なくして実現できないと悟るのです。ここからエレミヤの特色が濃厚になっていきます。エレミヤは、神が与えてくださる新しい契約の到来を予告するのでした。
 エレミヤは、第一回のバビロン捕囚の人々に手紙を送り、いかなる環境のもとにあっても、ユダ王国復興の志を失ってはならない、いつの日にか必ず、律法主義に堕したユダヤ教を越えて、新しい契約が出現するであろう、つまり新しい普遍的な宗教(救い)が実現するであろうと預言したのであります。この点が、エレミヤの預言者としての功績の偉大さなのです。
 今日の個所は、神は「陶工」であると言い放っています。「陶工」とは、当然、やきものしのことですが、私は、ここ土師の地を切り開いた集団である「土師氏」のことを思い浮かべるのです。土師町自治会のふるさと土師の歴史を探る会が2112年5月1日、ちょうど一年前に刊行した『ふるさと土師』に拠れば、土師の地名は、土師氏集団の居住に始まったとあります。おそらく五世紀でしょう。
 土師氏とは、「古墳時代、陵墓の設計・築造・葬送儀礼・埴輪や土器の製作を専門とする技術者集団」(12頁)のことです。当時、仁徳天皇陵の近くまで海岸線が迫っていたようです。ならば土師氏は渡来系民族であった可能性も高いはずです。
 さて、エレミヤ書18書の1〜17節までの小見出しは、「陶工の手中にある粘土」です。土師氏の仕事のある部分が陶工の仕事と重なります。おそらく土師氏の陶工も、4節「陶工は粘土で一つの器を作っても気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった」。 と同じであったでしょう。現在世界中の心ある陶工たちもも同じであります。作って焼き上がったものでも気に入らなければ、たちどころに壊してしまうのです。おっちょこちょいの私などは、ついつぃ「もったいない」と思ってしまうのですが、心ある陶工は自分が作ったものについては厳しい。5節の後半を御覧ください。「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」。 
 近代的ヒューマニズムは、こういう神の言葉を嫌います。あくまでも人間の主体性を主張するのです。が、誤解しないでください。この部分は人間の主体性を論じているのではありません。作り手である神ご自身の作ることへの責任を論じているのです。作るものに対する徹底的な責任を述べているのです。
 7節以下は、ユダ王国に限定していない。諸国に向かって言い放っています。「あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、」 8節「もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその災いをくだそうとしたことを思いとどまる。」 17節であらためて分かることは、全被造物に対する神の支配権と権威です。神の支配は全能であり、無から有を、有を無にすることができるのです。そういう創造主が同時に自分が作ったものに対して、ある時、人間が自分らの悪を悔いる時には、「災いをくだそうとしたことを思いとどまる。」 と発言している。これは被造物の人間が神の前でどうあるべきかを説いている場面なのです。人間が神の前でどう責任ある行動をすべきなのか、悔いるという行動を取る自由を保証してくださっている。ここが神道や仏教信仰との決定的な違いなのです。私どもの神は絶えず問いかけてくる神であり、人間の自由意思によるあるべき行動に期待しているのです。ということは、ひっくり返せば、10節の後半を御覧ください。「わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」 と明言するのです。
 さて、宣教の前半で、私は、エレミヤが、「いつの日か新しい普遍的な宗教が実現するであろうと預言した」と述べました。その意味は、今日のテキストだけでは分からないでしょう。
 今日の部分は、絶対的な神であり、怒り裁く神の場面でありますが、同時に自分が創造した人間に対する神の憐れみがかすかに感じられてなりません。それは、「思いとどまる」
という言葉です。
 私は、ここに旧約の神が審判の神、怒りの神だけではなくて、堕落した人間を救うもう一つの可能性、すなわち申命記的な律法主義を越えた愛の神として、人間の前に新しい己の姿を出現してくる可能性を見ているのです。
 祖国を失い、バビロンを始め、世界中に散らされて行ったイスラエル、捕囚の絶望のただ中で、暗殺グループに狙われながら、なお神の励ましの言葉を伝えていったエレミヤがここにはいるのです。神の憐れみの深さと出会ったエレミヤの幸福は、現在の世界の混乱の中でいっそう切実なるものがあります。
 神が語られた言葉は、エレミヤ書31章(1234頁)の見出し「新しい契約」として人々に語られて」います。10節、
  諸国の民よ、主の言葉を聞け。
  遠くの島々に告げ知らせて言え。
 16節、
  主はこう言われる。
  泣きやむがよい。
  目から涙をぬぐいなさい。
  あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
  息子たちは敵の国から帰って来る。
  あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
 この後、旧約聖書の中で、もっとも美しい救済預言が始まるのです。31節(1237頁)からです。
 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
 言うまでもありませんが、石に刻まれた十誡ではなく、一人一人の心に新たに記される契約なのです。誰もが心に刻まれたその内容を咀嚼できる、希望に満ちた契約なのです。
 この救済預言のあと、エレミヤは逮捕され、やがてエジプトへの連行されて行くのです。
 振り返ってみれば、旧約の預言者の生涯は様々な苦難に満ちています。神の言葉を預けられる預言者たちはみな苦難の人生を歩んだのであります。
 旧約と共に預言者の歴史も終わりましたが、私どもは、今、現在、神の証人として立てられていることをしっかり心に刻んで、エレミヤの新しい契約を生き抜いて行きましょう。
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