若者よ
コヘレトの言葉11章9〜12章2節
 六〇代以上の方は、「コヘレトの言葉」と言われてもピンと来ないでしょう。「伝道の書」と言えば、「うん、あれだ」とうなづく。私もそうです。が、それこそ若い時代には、口語訳「伝道の書」の冒頭に特別愛着を覚えていました。
  空の空、空の空、いっさいは空である
 この第一行がなぜそんなに私を引きずり込む力があるのでしょうか。それははっきりしています。「くうのくう、くうのくう」という発音に魅了されていたのです。日本人ならば「空(くう)」という単語にそれなりの思い入れがあります。土師教会の火災保険を扱っている何某さんは、まだ四〇代の精力的な方ですが、がっしりした体格、頭の毛一本もない照り輝く精力的な坊主頭です。彼は宗教に関心が強く、とりわけ仏教がぴたっと来るとのこと、262文字で出来ているあの「般若心経」をよく唱えているようです。暗誦できない人でも、「色即是空 空即是色」は知っているでしょう。現象するものはすなわち空である。空すなわち現象であるという無常歴史観だと言えば、辞書的意味は当たっているでしょう。それほど日本人の感覚に沁み込んでいるものが無常感覚です。「方丈記」、「平家物語」を貫くものもおおよそのところこの無常感覚なのです。
 ということは、旧約聖書にも、仏教にも通じる無常感覚があるということになります。その通りです。仏教の場合には、無常歴史観になります。
 この場合の「歴史観」は、すべての現象は相対的であり、儚いものであるという主張です。歴史観となると旧新約聖書の歴史観とは相入れません。旧約が受け入れているのは、すべてのものは、儚いでありますが、この理解はあくまでも聖書の隠された視点の一つなのであります。旧約聖書の中でも特異な書です。旧約聖書全体を編纂した時、最後まで「コヘレトの言葉」を入れるか否か論争された事実があります。あまりにも暗い無常感覚に対して抵抗感と違和感があったのです。それだけにこの「コヘレトの言葉」が旧約に納めれた事実は、意味深い。私どもは、だからこそ「コヘレトの言葉」からそのメッセージをしっかり受け止めなければなりません。
 さて、この「コヘレトの言葉」を開いてお気づきになったと思いますが、「コヘレトの言葉」には、小見出しがありません。12章もあるのになぜ小見出しがないのでしょう。これには理由があります。小見出しは、ある視点からテーマを絞ってまとめられた題名です。が、コヘレトは、そういう纏め方ができない。つまり多角的な視点、多様な解釈を赦す多義性を持っている。極端に言えば誤解するのも赦される。自分勝手に読めるのです。
 ですから暗欝な無常感覚が漂っているのは事実ですが、だからと言って、仏教的な無常観と同じだ、我が意を得たり、と合点するのは早とちりなのです。
 大体、なぜ題名が「コヘレトの言葉」なのでしょう。1034頁の1章1節には、なんと書いてあるのかと言いますと「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあります。コヘレトという名前の子どもがいたでしょうか。子どもの名前はソロモンであったはずです。そうです、これは人名ではありません。「召し集める者」という名詞なのです。
 つまり人々を集めて語る者、神によって選ばれた者という意味です。神の言葉を語る者であれば、伝道者です。ここから「伝道の書」という名前が生まれのです。これで納得する還暦世代の方がいらっしゃるでしょう。ここには、世界の無常が描かれる。と同時にそれだけではない、無常とどう向き合うのか、どう乗り越えるのかというヒントも隠されているのです。これが多義性であります。この世でさんざん苦労してきた、あるいはこの世をじっと見つめてきた者のみが語れる深い知恵が隠されているのであります。ならば、詩編、コヘレトの言葉の作者がソロモンであると長らく信じられてきた事実も納得できるのであります。
 ここからさらに若さについて、老いることについて、奥義が顔を見せてくれるのであります。
 では、今日のテキストを追っていきます。
 11章9節、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道、目に映るところに従って行け。」 と。その一節前の11章8節は、「何が来ようとすべて空しい」と結論を出しながら、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい」と言われたら、まじめな人であれば、むしろ戸惑うのではないでしょうか。続く「青年時代を楽しく過ごせ」と追い打ちをかけられると、おちょくられているのではないかと少興ざめしそうです。
 先週4月22日(火)から三日間、香川県善通寺市のキリスト教大学・四国学院大学のキリスト教強調週間の講師として招かれました。かつて十年余り務めた大学であり、正下兄を教えたこともありました。先月礼拝に出席してくださった清水幸一教授は、かつて大阪YMCAの主事であり、嶋岡正明兄、真嶋克成兄の部下でありました。不思議なつながりです。四国学院は、1949年に米国南長老教会が創立しました。日本改革派の最高学府であります。キャンパスは、美しく手入れされて、新緑溢れる林のなかのチャペルの前には、巨岩に「汝の若き日に汝の創造主を覚えよ」(伝道の書12章1節)と刻まれています。新共同訳では、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」です。現代の学生たちは授業をさぼることなく、まじめに教室のドアを開けて消えていきます。わたしの説教にも緊張した面持ちで耳傾けてくれます。茶話会に現れた学生たちは、礼儀正しく、明るく、楽しそうに讃美歌を歌っていました。
 学生食堂は、ほぼ満員です。
 が、私は、気になりました。こんなに屈託なく明るくていいのだろうか。ふとあの歌が聞こえてきました、「青春時代が夢なんて後からしみじみ思うもの。青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」、こんな歌を知っていますか。こんな歌の方が実感があった世代なのです。この落差ってなんだろう、と思いながら讃岐うどんをかき込んでいました。
 青春って青い春って書きます。青臭い、青二才、あいつ青いなあ。みんな未熟な若者たちへの批判の言葉です。が、その底には、未熟なだけに懸命に生きている若者への応援歌のような微妙な響きもあります。私ども六〇代以上は、青臭い未熟な青春を全力投球で泳ぎ抜いで来たのです。クロールが駄目ならバタフライで、それも駄目なら、リレーで助け合って。ときには焼けを起こして八方敗れの惨めな敗北も経験しました。そうしてとにもかくにも生きてきたという実感があります。そこから人生の味を少しは理解してきました。だから必要なら若者たちの力になってやりたいと思っているのですが、とっかかりが見つからないのです。今回学生たちは静かに礼儀ただしく聞いてくれましたが、その目は真剣そのものでしたが、礼拝後話しかけてくれることはありませんでした。
 聖書に戻りましょう。11章9節の後半、「知っておくがよい。神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れて行かれると」。10節、「心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け」。 この部分は学生たちに届くのでしょうか。
 某一流大学の学生相談室からの報告によりますと、こんな悩みが上位の三番目だそうです。すなわち、「わたしには、悩むべき問題がない。この大学に学んでいることは誇りです。お小遣いに苦労したことはありません。学問的、思想的な問題もありません。家族の問題もありません。つまり何も悩みがないのです。悩みがないのが悩みです」と。
 この学生には、10節の最後の行、「若さも青春も空しい」はどう響くのでしょうか。
 12節以下はふたたび青春以降の人生の悲しみ、暗さを次々に語っています。「苦しみの日々が来ないうちに。『歳を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」と。
 さあ、私ども高齢者は、どう反撃しますか。青春は肉体的年齢と関係はない。精神的若さこそ人生だ。老いてますます青春だって反撃しましょうか。これは、どこかに無理がある反撃ですね。
 この書を書いた作者は、間違いなく人生経験豊かな人物です。老いることの辛さや悲しみも味わっている人物です。この世の無常を知っています。だから「コヘレトの言葉」を書いた。作者は、若者への応援歌を書いたのです。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」、 これは作者の後悔を込めた懺悔でしょうか。どうもそうではないようです。若者であれ、老いた者であれ、人生は大変なのだ、とくに「若さも青春も空しい」と断言している背後に、老人だって空しい日々を過ごしているんだぞ、という苦さが潜んでいるのです。だからと言って、どうせそんなものだと言ってうそぶいているのではなさそうです。ここからが仏教的無常観との分かれ目です。どうやら作者は、現実は空しい日々が続いている。にもかかわらず絶望しない。なぜなら、私どもは創造主によって導かれているからだ。創造主は、私どもの生の空しさを十分知っておられる。その空しさを越えて生きる秘儀を開いてくださる。それは、絶望しながら絶望しないという秘儀である。
 それは、12章13節、1048頁の下段です。コヘレトは結論をだしました。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その』戒めを守れ。』 これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの座に引き出されるであろう」
 この結論は、むしろ大いなる慰めなのです。人間の一切の業をすべて見ていてくださっている主を信じて生きていくことは、なんという嬉しいことでしょう。「善をも悪をも」と書き記したとき、コヘレトは、激しい畏れを覚えたにちがいない。と同時に、安らいだのであります。生きるとは絶えざる緊張ですが、緊張なくして、生きる喜びはありません。
 コヘレトは、人生の虚無を徹底的に味わっている。だからこそ生きる。その生のすべてを主は見守ってくださっている。私どもは、不条理かつ納得しにくい時代を生きていますが、決して絶望しないのです。若者よという呼びかけを、コヘレトに代わって、私どもがしていくことが、じつは若者と共に世界を前進していく道であることを確信しましょう。
 祈ります。
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