枕する所もない
マタイによる福音書8章18〜22節
 今年の桜は、三月下旬に突然咲き出して、たちまち満開、四月のピカピカの小学校一年生が正門に入る前に散ってしまいました。が、それでも入学式はいいもので、お父さん、お母さん、そしてどうやらお爺ちゃん、お婆ちゃんまでが一団となって、晴れがましく歩いている姿を見ていると、「おめでとうございます」と声を掛けたくなります。
 去年は、念願の吉野の桜を観に行きました。下の桜、中の、上の桜、全山の桜は圧倒的な光景でした。よく見ると染井吉野は少数派なのです。ああ、吉野は山桜が多いのだと初めて気がついたのです。染井吉野はもともと東京の地名ですし、染井吉野が一般化したのは明治以降です。学校義務教育の徹底化と歩みを共にしてきたのです。首都圏で育った私には、桜と言えば染井吉野だったのです。去年の春は、山桜の美しさに目覚めた春でした。
 さて、3月5日(金)に、京都に行きました。妻側の墓参りを終えて、そして二人の恩師である先生のお見舞いのためでした。先生のマンションは、左京区の下賀茂です。
 下賀茂神社の境内は、糺の森と言われていて、世界遺産であります。あまりにも暖かくて絶好の日和、瀬見の小川では、保育園か幼稚園の幼子たちが靴を脱いで嬉しそうに川の中を歩いていました。きれいな水の上に藪椿の赤い花が丸ごと流れて行きました。
 その近くに鴨長明の極小住宅が再現されています。もともとは京都の東南部の山麓にあったものです。鴨長明の若き日に、京都の町は戦乱で焼かれ、人々は飢えと伝染病、さらに火事と地震に苦しめられていました。都大路のあちこちに骸が転がっていたのです。鴨長明は、そんな現実に愛想をつかして、荷物を纏め、手車に載せて日野へと逃れ、文字通り極小簡便な方丈の家を建てて暮らしたのです。いわば、持ち運び自由自在。大八車に載せられたでんでん虫と言ってもいいでしょう。
 そこで、夕べには西方極楽浄土を思い描き、琵琶をかき鳴らして、南無阿弥陀仏を唱えるという、美的生活を楽しんでもいたのです。末世のマイホーム論が方丈記だといってもよいでしょう。
 さて、今日のテキストは、その極小住宅さえ持とうとしないことをもって、伝道の真髄としたイエスさまの言葉が中心を占めています。
 狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。
 鴨長明は、豪邸を否定したが、心の贅沢と自分の個人的信仰は手に入れたのです。
 では、イエスさまの伝道は、どこに立脚していたのでしょうか。
 この箇所の小見出しは、「弟子の覚悟」です。イエスさまの覚悟ではありません。
 マタイ伝のイエスさまの宣教活動を振り返ってみましょう。
 ヨハネから受洗したイエスさまは、荒れ野に行って四十日間、悪魔の誘惑と戦って勝った。そこから故郷のガリラヤに戻って、四人の若い漁師を弟子にして、群衆がもっとも関心のあること、それは言うまでもなく病気を治すことです。夥しい病人を癒し、山の上の説教で、貧しい人、悲しむ人、義に飢え渇く人たちに、神の国の到来を告げたのです。神の到来とは、イエスさまご自身の到来のことであると群衆が気がついたのがいつなのか、については福音書は何も語っていません。夥しい群衆は奇跡に驚き、癒しを求めてイエスさまの後を追い続けたのであります。
 イエスさまは、群衆を単に慰めただけではなく、イエスさまと一緒にいる彼らに彼らが何者であるのかをはっきりと教えてくれたのであります。
 あなた方は地の塩である。
 あなた方は世の光である。
と。そしてお互いに共に生きて行く指針と原理を「主の祈り」として示してくださったのです。
 最後に、人生の究極的黄金律を与えてくださったのです。7章9節、11頁です。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と。そしてイエスさまは、重い皮膚病の患者を癒し、百人隊長の僕を癒し、多くの人々を癒されたのです。
 旧約の時代、死者は陰府が死者のターミナルであり。絶望から救われることはなかったのですが、復活のイエスさまに出会っている私どもキリスト者は、生きることの生きていることの喜びの中にいるのですから、隣人になすべきことがいっぱいあるのです。喜びを持ってそれらをなすべきなのです。とは言っても、イエスさまと弟子たちの活動は疲れ切っていたに違いありません。
 テキストをご覧ください。
 18節、「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」。 これだけでは、イエスさまが何を言いたいのかはっきり分かりません。
 が、マルコ伝は、少し違った視点からこの場面を記しています。6章31節、「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」とあります。
 マザーテレサを中心にする方々が、昼食を十分に楽しむことはよく知られていた事実です。ターミナルケアのなかで横たわっている人々に十分に仕えるためには、十分な食事を取って十分に仕えなければならないと語っていたのです。イエスさまの弟子たちも同じようにそうしていたのです。
 イエスさまとその弟子たちは、ガリラヤ周辺の町や村をしらみつぶしのように訪ね歩き、病気を癒し、雑事の助っ人であったり、生活相談にも乗ったことだろうと思います。では生活費はどうしていたのかというと聖書には経済的な支援については何も書かれていません。現在まで学問的に分かっていることは、ほとんど報酬はなかったであろうということです。その代わりに一宿一飯にあずかっただろうということです。その他の場合には、女性信徒の中に少し余裕のある者がいて、ときどきイエスさまの一行が宿泊していたかもしれない。マルタの家もそうだったかも、という推測もあります。
 いずれにしても現代の無料ボランティア市民活動に近いものだったらしい。あるいはNPOに近かったかもしれません。イエスさまの活動期は、三年くらいだったと言われています。あれほどの活動ですから多忙きわまりなく、弟子たちの疲労も大きかったことでしょう。時々群衆から離れることは、離れることによって、より一層近づく有効な伝道方法論であったはずです。
 さて、「枕する所がない」という日本語は、微妙なニュアンスを漂わせています。旅枕、草枕など。さらに歌枕、塒、いろいろあります。
 旅から旅への伝道の途中の放浪感覚、あるいはさすらいという不定型感覚が付きまとっているような気もします。
 そして、どうも家庭の匂いがしない。家族のぬくみが感じられない。枕するというと、自分の手枕と同時にあなたの手枕も浮かんできませんか。
 どうもイエスさまのこの台詞は、身内としての血統的家族観の否定、拒否感が感じられるのです。イエスさまは確かに独身でした。が、独身主義であったとは思えません。あるいは誰だれが恋人であったのではと想像することは可能でしょう。イエスさまの台詞からはっきり言えることは、父なる神のみ心を行うものが母であり、兄弟姉妹であるという神の家族、つまり教会という家族観なのです。
 それにしても、この台詞は、弟子たちにとってもショッキングであったはずです。
 テキストを順序正しく読んでみれば、これは、ある律法学者の決意表明に対する答えでありました。
 「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。 凄い決意表明です。厳しい伝道生活に耐えられるでしょうか。学者を止める決意はあるのでしょうか。イエスさまの答えはにべもない冷たい拒否だったのです。
 そもそも律法学者たちが、イエスさまに向かって「先生」と呼びかけるときは、「先生」という敬称を使って切り出しますが、たいていの場合、その底にはイエスさまへの軽侮(侮り)が込められていたのです。自分たち律法学者の自信過剰で身をよろっていたのです。 
 それを心得ていたイエスさまは、即座に厳しく跳ね返しているのです。「あなたは家庭を顧みず、報酬のない生活ができるのか。そこまで純粋な伝道精神に燃えているのか、自分の決意だけでは、生きている喜びには結び付かないぞ。あなたはそもそも今、私と共に行動する喜びを手にしているか」と。
 イエスさまのこの台詞には、周りの者が思いつかない切り立った断崖の孤独が立ち込めています。ある種の悲しみさえ漂っているのです。権威と行動力と知恵に恵まれたイエスさまの内面の一部が噴き出ているのです。この台詞を突き出された律法学者はどうしたでしょうか。
 時に、そこにいた弟子の一人が、21節、
「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」」と言った。22節、イエスは言われた。「私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
 これはどういう意味でしょうか。律法学者の決意表明のほうがはるかに立派ではないでしょうか。にもかかわらず、イエスさまの台詞は、この弟子に対してはるかに好意的なのです。つまりすでに弟子として一緒に苦労を共にしてきた者に対する理解はずっと深かった。一緒に福音の伝播に預かっているという連帯感が、弟子には強くあるのです。
 そしてここでいう「死者」とは、たとえ弟子の肉親の父であるにせよ、すでに生涯を終えている、その父と生きて命を与えている私との区別が出来ていないのか。私は命であるとイエスさまは、語っているのです。じつは私は、死者にとっても生者にとっても救い主なのだと言いたいのではないでしょうか。つまりお前たちは死者のことは放っておけ、と。   
 今、あなたに必要なことは、生きて生き続けて行く私に従うことだ、と。
 死に囚われている人こそ、すでに死者なのだ、と。
 イエスさまの台詞は、弟子に対して深い洞察を持った、理解している言葉でありましたが、彼が分かったかどうかはなにも報告されていません。
 群衆たちは、向こうを目指して雪崩をうつように走り出したに違いありません。マタイ福音書によれば、岸辺に残ったイエスさまと弟子たちは、一緒に舟に乗り込みました。あの弟子も一緒に行動したことでしょう。
 さて、この律法学者と、この弟子は、その後どうしたでしょうか。ふたりのその後について、聖書は、何も語ろうとはしません。
 その後どうなったのかは、この短いお話しを読んで、私どもはどうしたらいいのか。信仰を生きるとはどういうことなのかを考え、何をしているのかがイエスさまに問われているのです。
 祈ります。
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