ねじれた弓
ホセア書7章13〜16節
 今年のイースター礼拝は、先週3月31日でした。明けて翌日、4月1日の夕暮れ、土師小学校のあたりを散歩していましたら、曲がり角の家の垣根から背丈三メートルほどの樹木が顔をのぞかせていました。幹の太いその木は、暮れなずむ空に淡い赤紫色の米粒のような花をびっしりつけていました。「あっ」と声を上げたとき、濃厚な春の芳しい香りがあたりいちめんに広がっていました。
 さて、花の名前がお分かりですか。そうです、「リラ」あるいは「ライラック」です。広辞苑によれば、「モクセイ科の落葉低木。南ヨーロッパの山地に自生し、高さ五メートル内外。五月頃、淡紫色で四裂した長さ約一センチメートルの花を開き、芳香を放つ。観賞用に栽培。園芸品には白・淡紅色がある。ムラサキハシドイ。ハナハシドイ。ライラック。季(春)」 この花です。ライラックと言えば、西欧、とくにフランスでは、イースターを代表する花として知られています。日本では、札幌の大通りのライラックが有名です。
 私が働いていた恵泉女学園の庭にもライラックが咲いていました。園芸で有名な恵泉女学園を立てたのは河井道です。日本YWCA創立者でもあります。河井道の御父さんは伊勢神宮の神官でしたが、明治の神仏分離の時、職を失って伊勢を追われた神官の一人であります。幼い道は、その後、女性米人宣教師ミス・スミスが創立した北海道の北星女学校に入学、キリスト者になりました。
 このミス・スミス先生が、日本に初めてライラックを持ちこんだ人だと言われています。もっともこれには異説(違った見解)があって、北海道大学のライラックの方が日本で最初のものというのです。私としては、園芸が好きだったミス・スミス先生とライラックの美しい物語の方がほんとうであってほしいと思っています。
 花は、誰が見てもいいものです。戦争があると真っ先につぶされるものが花壇です。花より団子ではない、花より野菜になるのです。が、じつはどんな状況にあっても花は平和の象徴なのです。
  明治十年代の函館、札幌は、幼い河井道がミス・スミスの北星女学校の中で一人の人間として目覚め、自立していく変貌の季節を生きていたのです。その頃は、近代日本が刻々と変貌し続けていた変革期でありました。
 そもそも、キリスト教は日本の近代化、変革期の中で重要な働きをなしたのです。近代日本の女性教育史においても、函館の遺愛女学校から長崎の活水女学校まで、キリスト教が果たした役割は、決定的であります。日本の女性解放史は、キリスト教女子教育に支えられながら苦難の道を歩んできました。
 さて、今日のテキストは、ホセアという預言者の書です。
 イスラエル民族が、政治経済的な繁栄にうつつを抜かして、またしてもバール繁殖信仰に呑まれていった宗教的な堕落を、徹底的に批判している内容なのです。
 が、同時にその預言活動を展開しているホセアが、妻の不倫、逃亡、堕落というドラマを抱えて、苦悩しながらも愛しぬくという夫としての愛が背後に息づいていることを見失ってはいけません。そういう夫婦の関係が、神とイスラエル民族という関係の暗喩(メタファーとしての比喩)になっているという構造を持つ預言書です。
 ただし、これは神の忍耐と赦しの愛の物語だと褒めあげるだけでは足りない重大な問題が現在の私どもの前に投げ出されています。それは、当時の男尊女卑思想の問題です。アダムとエバの楽園追放以来、エバが罪と堕落の最初の人(女)であるという短絡的な思想が世界中に広がっていったのであり、ホセアと妻の物語もその延長線上にあるという一般的な解釈です。二一世紀の現在でさえ、男尊女卑の思想は克服できていない。この問題が、ホセア書と結びついています。
 が、まずはテキストに書かれている内容から学びましょう。第七章のテーマは、イスラエルの罪です。神が選んで救いの契約を結んだ民がまたしても犯した罪の問題であります。13節、「なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても彼らはわたしに偽って語る」。 ここだけからも現代の私ども一人ひとり感じるものがある。ぐさりと刺される思いいがある。
 ホセアの預言活動は、紀元前750年頃から、北イスラエルが滅亡した前722年直前頃までと推測されている。この時代を左右した巨大な出来事は、アッシリア帝国の急激な興隆と勢力の拡大であります。ティグラト・ピレセル三世によって再興されて、その後オリエント世界の統一へと動き出したアッシリアは、シリア、パレスチナを支配下に入れます。その時北イスラエルも貢物をしています。続いてダマスコ、バビロニアも一時的に征服されました。
 イスラエル王国の政治的危機です。
 ホセアの活動中、前722年には、ついにアッシリアのシャルマナサル五世に滅ぼされてしまったのです。支配者階層は捕囚となり、主都サマリアには、異民族が送り込まれて、イスラエル民族は解体の危機に立たされていったのです。やがては南のユダ王国も侵略されて、属国となり果ててしまうのです。これがホセアの時代です。引き続いてアモスの登場です。
 第一章の冒頭によれば、ホセアの妻の名前は、ご存知のようにゴメルです。その三人の子供たちの名は、イズレエル(地名であるが、多くの無実の血が流された場所の象徴)、 ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)。ロ・アンミ(我が民でない者)であります。このような厭うべき不幸な名前を与えるように主が命じたというのです。ゴメルが神殿にいた娼婦であったとする説が有力な手掛かりになっているわけです。ホセアと妻を巡る伝承がこうして記されているのです。しかし、ゴメルの履歴もほんとうは謎なのです。
 だいたいホセアの出生地も預言活動を展開した場所も分からない。彼が属した社会的階層や預言者になるまでの前歴も分からないのです。30年近くに及んでいる預言活動をした人物の履歴が不明なのです。
 が、こんなことは日本史の江戸時代でさえあることです。世界的に有名な浮世絵の作者写楽が誰であるか決定打はないままです。
 では、ホセアの預言の特徴は、どこにあるのでしょうか。預言書によくある使者の定まった形式「主はこう言われる」や託宣定式「と主は言われる」というような定まった形式に則らない。彼の多くの言葉は隠喩(メタファー)が多い。たとえばヤハウェーが、父、医者、羊飼い、猟師、獅子、虫、露などに喩えられている。イスラエルが、家畜の群れ、子牛、ぶどうの木、いちじく、病人、菓子、朝の露などです。
 ホセアは、法律的手続き様式に則って、罪を告発をしています。
 さらにイスラエル民族の伝承をふんだんに活用しています。族長伝承、出エジプト伝承、シナイ契約伝承、土地取得伝承、荒野伝承などです。
 最後に、ホセアは、イザヤやアモスのような社会的、倫理的正義や恵みの業よりも、誠実さや慈しみ・愛をより強調していると言えます。
 この場合「契約」の概念は、とても重要であって、ヤハウヘとイスラエルの契約が基本原理であって、これが夫婦関係にそのまま持ち込まれて考えられているのです。契約の不履行を猥らな淫行と捉えているのです。すなわちイスラエル民族がバール信仰に走った事実が淫行なのです。これは十戒の不履行です。神を神としないことへの怒りなのです。これは、現代では、人間の神格化の問題です。人間の人間への過信(自信過剰)こそ現代のバール信仰ではないでしょうか。
 ホセアの時代北イスラエル王国の末期には、、王の暗殺が起こり、次々と王が変わり、最後には滅亡していったのです。王国制度への不信は、ホセアにもあった。そもそもイスラエル民族の歴史は族長時代から神権政治であって王国制度にはなじまないものがありました。このことを現代の私たちはどう捉えたらよいのでしょうか。
 荒っぽく言えば、神を神として立てて賛美するキリスト教信仰こそ旧約時代からの正当なあり方ではないでしょうか。
 では、もう一度テキストに戻りましょう。

  なんと災いなことか。
  彼らはわたしから離れさった。

 これは現代世界の本質なのではないでしょうか。神なんてない。宗教? やばいよ。宗教なんてせいぜい精神的な慰めでしょう。そうでなくても忙しいのに、なんで日曜日にわざわざ教会に行くんだ。いろいろな声が聞こえてきます。
 この時、神の声が降ってくるのです。 14節、「彼らは心からわたしの助けをもとめようとはしない。寝床の上で泣き叫び 穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが わたしに背を向けている」と。現代はますます神と無縁だと断言してそっぽを向いている時代です。酒と食い物と愛欲でいっぱいの寝床、もっとも情けない欲望むき出しの時代なのです。
 彼らの一つ一つの声に反論する必要はないのですが、これは、と思うものがあれば、本気になって反論を展開することは私どもの信仰の再確認になるでしょう。
 ところで先週の朝日新聞に拠れば、2011年3月11日以後、大学生の宗教意識に僅かながら微妙な反応が起こっているとのことです。宗教を持っていると答えた者が増えているとのことです。ただし、どの宗教であるかは明らかにしていません。このアンケートは、国学院大学が時々行うアンケートです。そして16節、「彼らは戻ってきたが、ねじれた弓のようにむなしいものに向かった」と書かれています。
 しかし、神は、そのむなしさの中にイスラエル民族を放り出しっぱなしにはしません。
 親に背いた息子を憐れむように、神は憐れみの声をもらす。ホセア書の終わりの方で神はこう言っているのです。11章8節、1416頁下段、「イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。/略/わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」と。
 これはまさに神の愛である。妻の不倫に心を焼かれて、なお自分の腕の中に引き戻したホセアの顔が手に取るように浮かび上がるのです。男尊女卑思想の限界の中でぎりぎりの神の愛に拠る救いを描き出したえホセアの誠実な愛を私は思うのであります。
 神の忍耐と救いの可能性を語り続けること
 それは、愛の預言であり、私どもには宣教と伝道なのです。ねじれた弓ではなく、びんびんと引き絞った弓から、愛の救いの矢を射かけてくる奮い立つ神の前に、さあ、今日立ち帰りましょう。
 祈ります。
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