恐ろしかった
マルコによる福音書16章1〜8節
 今日は、イースター(復活節)です。主イエスさまが陰府から甦った、死の床から起き上がった、決定的な日なのです。
 もう二〇年以上も前、たまたま復活節の教会の礼拝堂の様子が新聞に小さく掲載されていました。
 フランスのある田舎のカトリック聖堂。正面の祭壇には、何と太い満開の桜が十字架の上に袈裟掛けされているのです。十字架に斜めに掛けられている。満開の桜は、まさに生命力の爆発状態。日本人の間では、桜の短い命に対する愛惜の思いが強い。儚さの典型として桜を愛でている傾向が強い。「見事散りましょう、国のため」も桜になぞらえた軍歌でした。ちなみに戦死と言わずに「散華」とも言ってきました。
 さて、隣の韓国人は、桜というと日本人が植民地時代に持ち込んだ染井吉野の桜花という前提観念が強すぎて、「サクラ」と発音することさえ嫌がって固有の韓国語で「ポッコ」と発音しています。が、一方で、実は桜が大好きなのです。韓国に行くと延々と続く桜街道に驚くことがたびたびあります。桜は案外育てやすい。山火事の後、すぐに植えつけた結果、全山桜の満開という光景もあります。韓国の寒い冬が過ぎて遅い春がめぐって来ると真っ先に咲くのは、真っ黄色な連翹の花であり、続いて満開の桜が生命讃歌の大舞踏会を繰り広げてくれるのです。
 そんなサクラのイメージが、主の復活とダブルイメージになって私の目の前いっぱいに広がってくるのが十字架に袈裟掛けされた太い満開の桜なのです。十字架と桜というミスマッチが、そうではなくて、ぴったしカンカンのイースターのスクーリンなのです。
 みなさんの目の前にあるカードの中にある使徒信条の「陰府にくだり」って何でしょうか。何千回も唇にのぼせてきたのに、その漢字表現を忘れていた人もあることでしょう。日本の『古事記』に出てくる「よみ」の漢字表現は、「黄泉」です。旧約聖書の「陰府」の「府」は大阪府、京都府の府と同じで、中心という意味です。ですから暗い中心地、死者の世界と言う意味です。この「陰府」という漢字は、広辞苑にも登場してきません。でっかい漢和辞典にようやっと出てきます。この漢字表記を翻訳委員会が採用した理由は、おそらく古事記的神道的な黄泉のイメージと区別したいからであったはずです。
 要するに、死後の世界であります。その死者の国から初めて起き上がり立ち上がったのが主イエス・キリストさまなのです。ですから「三日目に死人のうちよりよみがえり」と表現されているのです。おどけて言えば、文字通り「黄泉からの帰還」すなわち「よみがえり」なのです。
 では、墓ですが、これも以前お話ししましたが、単位(長さ、重さ)をはかるという動詞から来た名詞の「秤」に通じています。その人の歩んだ生涯の重さ、長さを愛惜する記念物が墓です。墓が庶民のものになったのは、江戸時代になってようやくです。それまでは、「野ざらし」という言葉が指し示すように道端や橋の下、草原などに捨てられていたのです。下級僧侶でさえ野ざらしにされたのです。じつは、この野ざらしは、ごく最近までのハンセン病の施設の一部に公然と残されていた風習です。
 ところで、私どもは、二千年前のイエスさまが葬られた墓のイメージもうっかり忘れているのではないでしょうか。どんな墓であったのか、思い描けるでしょうか。スサノオノミコトが次々引き起暴力行為を怒ったアマテラスオオミカミがお隠れになった天の岩屋戸を思い描けばわりあい正確なイメージになります。荒っぽく言えば、クリスマスも復活も、北半球の冬至をめぐる神話に共通するものがあるのです。すなわち暗い冬と夜から光が回復される筋書きであり、神と光のよみがえりなのです。天の岩戸が開く(開ける)場面とイエスさまの復活の朝の場面には共通点があるのです。
 しかし、使徒信条の信仰告白は、「天にのぼり、全能の神の右に座したまえり」であります。人間最大の恐怖である死の克服、死に打ち勝ったのであります。ここからキリスト教が始まったのであり、復活の後、主が再びこの歴史の中に突入して来るという救済史の完成が成立するのです。
 あの十字架の死刑の場面を見届けることなく、十二人の男の使徒たちは、皆逃げ出してしまった。その処刑を最後まで見届けていたのは、女たちであった、という聖書の証言は何を語っているのでしょうか。どこをどう割り引いても使徒たちの英雄物語にはならない。こんなみっともない情けない弟子たちの集団裏切り物語がなぜ聖書になったのでしょうか。裏切った弟子たちに現れた復活のイエスさまについて、なぜどうしてイエスさまが救い主だという証人として立ち上がった、起き上がることが可能になったのでしょうか。裏切って逃げて身を隠した弟子たちに何が起こったのか。それが復活という二千年間の謎であり、かつキリスト教の凄さなのです。
 みなさんは、この一週間特別な思いで過ごされたことと思います。食事も質素にして、身の清潔を守り、主の受難に少しでも近づくようにと努力なさった人も多かったことでしょう。その上で本日教会の玄関に入った後、「おめでとうございます」と言えば、「おめでとうございます」という答えがすぐに返ってきたことと思います。しかし、軽い挨拶代わりの「おめでとうございます」であったなら、神さまに大変失礼なことです。イスター(復活節)は、そんな軽い出来事ではありません。キリスト教の成立は、この復活が原点であり、出発点なのです。クリスマスとイースターは、キリスト教のもっとも大切な祭りなのです。私どもキリスト者は、イースター(復活節)に馴染み過ぎてしまって、復活の朝と墓のイメージも十分に分かっているつもりになっているのですが、じつは歴史上初めての衝撃的な出来事であったのです。
 では、今日のテキストをもう一度読んでみましょう。16章1節、「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」。 2節、「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」。
 この場面から分かることは、女性たちのイエスさまへのひたむきな愛情の深さであります。死者に触れるのを避けるのがユダヤ教の教えであるにも関わらず、死者の体を腐敗から守ろうとするこの女性たちの行為。死体を恐れず、さらに守ろうとする純粋な行為。ただし、女性たちは、イエスさまのよみがえりを想像することは全くなかった。なぜなら陰府が人生のターミナルだったからです。これがユダヤ教の理解だったのです。だから3節、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた」のです。
 4節、「ところが、目を上げてみると」とあります。これは墓が丘のどこかにあったことを示しています。なんと、「石は既にわきへ転がしてあった」のです。岩のような大きな石だったのです。5節、びっくりして恐る恐る「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」のです。
 この場合の「座って」は、胡坐をかいていたのか、石の上に腰掛けていたのか不明ですが、どちらでもいいでしょう。この一人の若者は明らかに天使です。女性たちは嘆き悲しみました。ああ、イエスさまのご遺体がない。巻いてあった亜麻布だけが、棺の上にきちんとそろえて置いてある、というのはある神学者の解釈です。女性たちは驚き唖然として、しばらく判断力を失っていた。もしかしたら誰かがイエスさまのご遺体を秘かに運びさったのかも知れない。まさか、そんなことができるはずがない。番兵がずっと見張っていたのだから、何が何だか分からなくなっていた女性たちに、天使が語った。6節、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。 7節、「さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。
 六節で天使は、「イエスを」と敬称なしで言われた直後、続けて「あの方」と言い換えています。女性たちにとって何者にも代えがたい先生イエスさまは、「あの方」という不思議な敬称で指し示されたのです。「あの方はここにはおられない」とはどういうことなのだろう。「あの方は復活なさって」と言われても、咄嗟に言われても、えっ、復活、それってもしかしたら、陰府からの陰府帰りだろうか。そんな、いくらイエスさまでも、死の国からの復活なんてあり得ないと思った瞬間マリアはあっと声を上げてしまった。そうだ、イエスさまは、三日後に甦るとはっきり宣言なさったではないか。まさか、しかし、そうかもしれない。女性たちは真っ青になった。天使は、言ったではないか。「あの方は」と。その言い方は何かとんでもない凄い存在を指し示しているようだ。ひょっとしたら「神」という言葉が口にこぼれ出てきたとき、マリアは金縛りにされて、身動きができなくなった。イエスさまは神かも知れないという認識が頭を掠めた瞬間、恐れと戦きが襲ってきて、恐怖で体中がこわばってしまった。
 「そこでお目にかかれる」とは、懐かしいガリラヤで再会できるということだ。喜びの声を上げようとしたが口をついて言葉が出てこない。どうなったか。8節、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 
 イエスさまが確かに預言なさった出来事が、目の前で起こったのかも、と思うと圧倒的な真理が迫ってきて、もはや言葉が役立たないのです。滅多には起こらないが、私どもも人生のあそこで体験したことなのです。私どもの言葉はいざという時には、役立たずなのです。
 この後、婦人たちに何が起こったのかは、聖書が語ってくれています。復活したイエスさまは、あの方としか言いようのない尊いお方に変貌していたのです。変貌することによって、いっそう身近な存在になってくださり、どこへいっても一緒に歩いてくださる方になったのです。私どもはいつでもどこでも主イエスさまと共にいるのです。そればかりか、死んだ後もイエスさまと一緒なのです。
 ハナモモとオキザリスに負けじとばかりモッコウバラまでが頬笑み始めたこの土師教会は、今、復活された主イエスさまのみ翼の中で、喜びに震えております。
 本日の招詞ヨハネによる福音書11章25、26節をもう一度一緒に朗読しましょう。新訳聖書189頁下段です。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 祈ります。
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