主を求めよ
アモス書5章4〜8節
 3月20日(水)の埼玉YMCA四〇周年記念式典は、午後一時受付開始です。私は、礼拝説教をするので、遅刻するわけにはいかない。総主事から前日に来るか否かと聞かれて、即座に多忙のため無理、当日早朝に出ますと答えた手前、五時起きとなりました。緊張のため、何度も目が覚めてしまって、熟睡できずに朝を迎えました。睡眠不足のまま新大阪駅であわてて頬張ったトーストの美味かったこと、ただし新幹線の発車時刻が気になってゆっくり食事できずに消化不良。車中、説教の最後のリハーサルを終える間もなく、うとうとしてしまいました。
 ターミナルの東京駅に近づいて品川に入ると、さすがは東京、またまた新しいビルがあちこちに建っています。どういうわけか、その活気に興奮を覚えました。まるで初めて東京に出てきた者みたいな興奮なのです。次々に入って来る、出てゆく、東海道線や山手線や新幹線やモノレールの大パノラマが鉄道博物館に見えて来て、小学生になったような気分で車窓にへばりついて見惚れていました。小学生の高学年の頃、秋葉原にあったレンガ造り鉄道博物館を時々訪れました。そうだ、今日のように興奮したっけ。あれから六〇年間が過ぎてしまったんだ。
 そういえば、去年は、たった一人の姉を年の瀬が押し迫った師走の二八日に失って、正月松の内の葬式だった。兄三人ももういない。妹三人だけが生きている。私が一番年上になってしまった。
 今日はお彼岸、が、墓参する余裕はない。一番下の妹の主人、義弟の体が急速に悪化しているという。今日弟は会場に来てくれるだろうか。覚束ない。
 埼玉YMCAは四〇周年を迎えました。出エジプトの荒野の旅の四〇年の苦難を想起させるような厳しい歴史を乗り越えてきた。そのうえでの今日の祝典。
 この歳になるといろいろある。喜びと悲しみが一緒にやってきたりする。
 式典とお茶の会が無事に終わった。初めて故郷の浦和でホテルに泊まることになった。
故郷なのにホテルで泊まるのも奇妙な体験である。静かな夜景を見ながら、戦後六八年よりも長く生きてきたわたしの人生を、あらためて振り返り、生きていることの喜びと生きているがゆえの悲しみとに襲われたのでした。またまた巡って来る四月二八日の日本の独立記念日は、同時に奄美、沖縄、小笠原を切り捨てた日なのです。その事実があるので、日本キリスト教団沖縄教区が再び脱退したのです。沖縄の屈辱の日なのです。
 歴史の事実と真実は、多角的に見ていかねば見えてきません。例えば家族の人生も、私だけでなく、肉親ひとりひとり視点には微妙な陰影があり、家族ならばいつもみな同じように考え感じているとは限りません。そういう複雑な立体的な人生をじっと見ているお方、つまりイエスさまを信じられるから、この複雑に入り組んだ人生を耐えられたのです。これからも耐えられると信じているのです。
 そんな切ない思いを新たに抱きしめ直した故郷での目覚めでした。
 さて、旧約の聖書の歴史記述は、神の民がどのように神との契約を捉えて生きてきたのかを描いています。宗教的、信仰的視点から記述されています。学問としての歴史学の記述とは全く異なっています。ですから歴史を捉える、理解すること一つを取り上げても、実は歴史とは何かという原点まで遡っていかなければならないのです。ということは、歴史を把握するとはどういうことか、という難問に立ち向かうことでもあるわけです。
 もちろんそんな時点までいくことは私どもにはできませんが、そういう幅広い視点をも持とうとする努力をしつづけなくてはなりません。その努力、つまり想像力を駆使することによって、アモスの時代も見えてくるのです。
 今日読んでいただいた冒頭の五章四節「わたしを求めよ、そして生きよ」は、凄い、ぐさりときます。こんな台詞、私ども人間同士では、決して言えません。いくら預言者の口を通して語られた神の言葉だといっても、こういう発想は日本の『古事記』や『日本書紀』には出てきません。真っ向切っての倫理的な励ましであり、命令なのです。
 では、アモスはどんな時代の人物だったのでしょうか。
 「アモス書」(1428頁)の序詞をご覧ください。「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉」とあります。
 アモスは、北イスラエル王国のヤロブアム王の末期に、疾風のように王国の聖所であるベテルや主都サマリアに現れて、しかも王国の滅亡を預言した経歴不明の人物です。容赦なく手厳しい預言をし続けたので、王国に対する反逆罪のかどで、ベテルの祭司長アマツヤに追放されました。アモスの預言活動後、二年経って大地震が起こります。このあたりは地震地帯ですが、この地震とアモスの預言とが重なりあって、アモスの預言が記録され保存されることになったのです。
 アモスの住所は、エルサレムの南方約二五キロ離れた村です。彼は牧者であった。これは社会的に差別されていた弱者としての羊飼いではなく、牧畜者として財産である膨大な数の羊を飼育して管理している者です。つまり牧場主であった。そしてルカ伝に登場するあのザアカイがイエスさまを見たくて登った背の高いイチジク桑の栽培農場をも経営していました。王宮にも入り込んで預言が出来たということは、相当の実力者であるはずです。もしかしたら王宮から牧畜と栽培を委託されていたのではないかとも言われています。でなければ、サマリアから遥かに離れている田舎者がどうして王宮まで出かけて預言ができたのか、理解が難しくなります。しかも、プロの預言者集団に属していたわけではなく、活動期間も長くて二年だったと言われています。
 アモスが、神の言葉を語ったのは、ヤロブアム二世の治世の下(前787〜747)です。この時代は、イスラエル王国が最終的な栄光を誇っていた時期であった。前九世紀の後半にイスラエルさんざん苦しめたアラムは、アッシリアに襲撃されましたが、そのアッシリアもまた勢力を失っていたのです。
 しかし、イスラエル王国の支配層は、その繁栄のゆえに貧しい人々を搾取していたのです。アモスはそんな支配層の堕落を厳しく諫めて、王国の滅亡をも預言したのですから、祭司長を始め、支配層から憎まれたのですが、その二年後に大地震に見舞われたのであります。アモスが預言活動をしたのは、前七五五年頃です。その後アッシリアは帝国を築き上げ、七二二年にイスラエル王国は滅亡して、残されたユダ王国も前七〇一年以後、アッシリア帝国の属国となったのです。
 アモスが語った言葉は、預言書として纏められ、記述預言者と呼ばれています。聖所と祭儀の堕落は、歴史上しばしば糾弾されてきました。アモスは、それよりも社会的正義が実行することが肝心だと力説したのであります。支配総による社会的不正義と民族主義的傲岸を一貫した倫理性をもって、預言を展開したのであります。
 今日の中心は、五章です。祭義に参加している人々は、突然始まったアモスの嘆きの歌に驚きます。が、そこに止まらず、神の言葉の礫を人々に投げつけたのであります。
神からの真正面からの呼びかけの言葉は、四節、「わたしを求めよ、そして生きよ」であります。続いて、「ベテルに助けを求めるな。ギルガルに行くな ベエル・シェバに赴くな」に念を押すように、禁止の助動詞「な」で畳みかける「な」は、やがてベテルの聖所は破壊され、ギルガルの人々は、捕囚として連行されてしまうとの言葉であったのです。あちらに行くな、私を求めよ、と、正面切って命じている。私、すなわち主に帰れ、主を求めよ、そこにだけおまえたちの生きる道が残されているのだと強調しているのです。繰り返される六節の、「主を求めよ、そして生きよ」のなんという力強さでしょうか。飛んで十四節、「善を求めよ、悪を求めるな」、十五節、「悪を憎み、善を愛せよ」などを追っていくと、アモスのまっしぐらな倫理観が高く立ち上がって迫ってくるのです。追い打ちをかけるように、七節、「裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ」は、そのあとに「災いだ」が省略されているのです。ここだけからもアモスの傲慢な支配層たちへの呪詛(呪い)を十分に読み取れるのです。
 やがて追放されたアモスは歴史から消え去りますが、イスラエル王国は滅亡するのです。アモスはおそらく再び牧畜者として農場経営者として暮らしていったことでしょう。
 翻って私どもはどうでしょうか。
 世界中が不況で苦しんでいます。それを克服するには何がなんでも経済的復興が先決だと金塗れに目がくらんだ政策から抜け出せていません。
 お金は大事なものです。しかし、金で命は買えません。幸福も買えません。信仰も買えません。と言い切ってきたのですが、世界は、この頃怪しくなって、金の存在が化け物のように膨らんできています。文明の危機です。生きることの喜びや幸福は、お金で決定されないという当たり前の不動の価値観が揺らいでいるような気がします。
 こういう時こそアモスの言葉が、否、アモスの口を通して語る神の言葉に心して耳を傾けようと思います。
 「わたしを求めよ、そして生きよ」は、堕落した現代文明を根底から問い直し、反省しなければ、お前たちは生きられない、のだ、と教えてくださっているのです。
 経済的、政治的繁栄を貪る文明に対して、まっ正面から突き刺さってくる神の言葉にもう一度心を開いて、この地球の曲がり角で、どうして行くべきなのかを心して考え、行動するミニ・アモスになりましょう。
 祈ります。
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