存在しなかった者
オバデヤ書15〜18節
 この麗しい聖日の午前、今ここの会場に出席されている方の中で、自分の生年月日を知らない方はいらっしゃらないでしょう。もっとも生まれた時間(時刻)を知らない方はいるかもしれません。隣の韓国人は誰でも生まれた時刻を知っています。なぜなら占いをしてもらう時の前提だからです。
 中国からの帰還を希望する日本人孤児の多くの悲劇は、生年月日が分からないことです。ということは、父母の名前が分からない。自分の素姓が分からないということです。自分が日本人であると知った時から、その時から自分が誰なのかを探す旅が始まったのであります。自分の名前を探すことは、自分が誰であるのかを探す旅です。それも今や時間切れになりつつあります。
 さて、私は、大学に入るまで自分が日本人であるということは、父母が日本人であるのだから、自動的に国籍は日本なのだと思っていました。つまりあまりにも当たり前なこととして疑ったことがなかったのです。だから、ほんとうに日本人であるかどうかと疑問を抱いたうえで確信したわけではなかった。自分の生年月日が歴史的事実か否かと考えたことがなかった。
 1960年(昭和35)、 安保闘争で日本中が揺れ動いているあの時に同志社大学に入学した私は、学生YMCAに入りました。会員の一人神学部のA君は、沖縄からの留学生でした。えっ、日本人なのになぜ留学生なの、とっさに疑問を抱いた。当時沖縄はまだアメリカの統治下にあることは知っていましたが、日本人がなぜ、だったのです。そのくらい、政治音痴であったというより、無知そのものでした。A君は、私と同じく1941年(昭和16)生まれ、真珠湾襲撃の年生まれです。戦争の結果はご存知の通り。沖縄は唯一の地上肉弾戦の地獄になり、私どもの身代わりを強いられたのであります。彼も家族を失い孤児になってしまった。やがてアメリカ人宣教師に拾われ養子として育てられた。やがて高等教育の機会を与えられた。グアムかハワイか、アメリカ本土か、どこかを選びなさいと三か所を薦められたが、Aは、日本人として京都の同志社大学神学部を希望しました。私は、彼の来歴を聞いて驚いた。ついに彼の国籍を聞くことができなかった。一番衝撃だったのは、彼の体が小さいことだった。その体は彼の少年時代を語って余りがあった。
 1964年春、私は早稲田大学に学士入学をしました。そこでも沖縄からの留学生に出会いました。彼は沖縄に伝わった「おもろ草子」と取り組んでいた。おもろをご存知でしょうか。アイヌの「ユーカラ」と同様に、沖縄・奄美諸島で語り伝えられてきた古代歌謡です。二つとも、叙事詩です。この時も沖縄はまだアメリカの統治下にあったのです。
 この1964年の10月1日の東京・大阪間を新幹線が開通しました。私はその実況放映をテレビにかぶりついて見ていました。外国人の目に触れたら恥だというので大阪の釜が崎が一斉に手入れされ、名古屋駅南側の赤線と市場も片づけられたのです、その9日後に東京オリンピックが開催されて、首都圏高速道路の網の目に圧倒されました。早稲田大学の体育館は、バレーボール会場になり、臨時休校、もちろん学生たちは反対しました。
 8年後、1972年5月15日、沖縄はようやっと日本に帰ってきたのです。戦争の傷のまま、モノレールを例外として沖縄はいまだに鉄道が破壊されたままなのです。その後、全国高校野球選手権、つまり甲子園大会に沖縄代表が姿を表し、テレビが入場式を映し出した時、沖縄の選手たちの体格がひと回り明らかに小さかった。すぐに神学部のA君を想起したのでした。
 当時、大学の教師になったばかりの私のもっとも親しい同僚のY先生は、満州からの引き上げてきたのですが、彼もひと回り小さかったのです。米屋の倅として育った自分を複雑な思いで見つめ直さずにはいられませんでした。
 これが、日本の敗戦を間接的に体験した私の報告です。
 ようやっとオバデヤ書に辿り着きました。どうして序曲がそんなに長いのかと問う方がいらっしゃることでしょう。国が敗れる体験は、次の世代には伝えにくいからです。だから私は、間接的な体験と述べたのです。間接的ではあっても私には、抜きがたい記憶であり、まさに体験なのです。
 名前を奪われた人々は、日本の国内にもいました。今、日曜日の夜の大河ドラマ「八重の桜」が出だし好調です。幕末の日本がどのように開国していったのか、その間の夥しい犠牲者の運命はどのようなものだったのか、その歴史を生き抜いたキリスト者・新島八重の生涯がどのように描き出されるのかわくわくして見ています。じつは私の妹のご主人の故郷は、福島県の二本松市です。会津若松に向かう入口にある城下町です。反幕府維新派を迎え撃って全滅した幕府側雄藩の一つです。明治政府成立と同時に旧幕府側の武家の落人狩りが徹底的に実行されました。家系を守るために旧武士たちは他国へ逃亡した。逃亡せずに二本松に残った者たちは氏名を変えて生き延びたのであります。名前を変えた上で秘かに先祖の墓参りをして血筋を守ったのです。その生き延びた家系の出身です。二本松落城と同時に名前を捨てざるをえなかった。これも歴史です。
 そしてハンセン病の患者は、ハンセン病療養所に入所第一夜から本名を捨てすてさせられたのです。50年以上仮名で生きた患者は、本名に戻った日から誰が誰だか分からなくなり、混乱し続けて今なお混乱しているのです。
 翻って、ここにいる私どもは、どうでしょうか。自分の名前で生きているのが当たり前、生きているのが当たり前、納税するのが当たり前、移動制限なし、集会の自由、信教の自由、なんという恵まれた暮らしをしていることか。生まれて以来の越し方を時には懐かしむ。何か隠し続けねばならないこともない。生かされている喜びでいっぱいなのです。この世界に生を与えられた事実だけで、もう十分ではありませんか。せめて今悲しんでいる、苦しんでいる人たちのために見える形で支援しなければなりません。
 オバデアは、神に仕える僕という意味ですが、歴史的に実在したか否か、全く分かっていません。いたとしてもおそらくナービーと呼ばれた預言者集団の一人だったと思います。彼らが伝えた預言がこうして残されたのでしょう。
 旧約聖書の12の小預言書の中でも、もっとも短い。どんなにゆっくり朗読しても十分も掛かりません。が、歴史的背景をある程度知らないと分からないかもしれません。
 オバデヤ書の構成は、1節は、序文である。
2〜9節は、エドム滅亡の預言であり、10〜14、15節節前半までは、エドムがエルサレム陥落の時に、敵側にまわったことが記されている。エサウの後裔がエドムなのです。
 15節後半から21節までは、その後、再びユダが力を回復する日が来て、エサウは滅亡するという預言なのです。前半ではまだエルサレムが陥落していないので、587年の陥落から割合近い頃の執筆であろうと推測されています。19から21節では王国の復興が語られて、終末論的な主の日が来ると預言される。つまり結論的には、宗教的な基礎づけによる終末論的な神の支配が語られて、イスラエルの預言的特質を色濃く表しています。
 今日のテキストの冒頭は15節「主の日はすべての国に近づいている」と言いきっています。表面的にはエドムへの復讐が語られているのですが、その復讐を越えて、すべての国に主の日が近づいている。つまり歴史の終わりとしての神の裁きが迫ったのだ、と言いきっている。十六節をご覧ください。「お前たちが、わたしの聖なる山で飲んだように/すべての国の民も飲み続ける」。 この場合の「飲む」とは何を飲むのでしょうか。ここの意味は、イスラエルが苛酷なバビロン捕囚を体験したように、すべての国民もみな辛く悲しい体験をする、否、今からする、と言っているのです。そして彼らもまた十六節後半が言うように、「彼らは存在しなかった者のようになる」と。
 私どもは、日常の暮らしの現場でともすれば、不平ばかり言いがちです。愚痴もストレス発散の内ならいいのですが、深みに陥ってしまうとその人の体質に沁み込んで元に戻れなくなってしまいます。明るい愚痴で楽しく遊びましょう。
 聖書が言う「存在しなかった者」とは、生まれてこなかった者という意味です。父母の顔も兄弟姉妹の顔も知らない。思い出もない。遊ぶ喜びも働く喜びもない。生まれなかったら、神さまを賛美することもできません。生きてきたからこそ墓も必要なのです。墓は生きていた証拠なのです。
 17節、「しかし、シオンの山には逃れた者がいて/そこは聖なる所」と。主を信じて従い、生かされている喜びを感謝して、悲しむ者、苦しむ者と共に生きていくならば、聖なる山に逃れることができるのです。これが審判です。
 18節は、エサウへの復讐そのものです。旧約そのもの「目には目を」です。このむき出しな復讐を預言するオバデヤはとても偉大な預言者とは言えないでしょう。
 そうではなくて、17節が言っているように、「シオンの山に逃れた者がいることが重要なのです。ですから十九節以下が語っているように、エドムに対するユダの憎しみの復讐を越えて、神の民であるイスラエル全体の救いを預言しているのです。歴史全体を導いている神の支配がもっとも大切な出来事なのです。
 私どもは、「存在しなかった者のように」なってはならない。生きて悲しみや苦しみを体験していても、必ず逃れる聖なる所があって、招かれているのです。
 名前があることを、何よりもこの世界を愛せることを感謝し、神さまを賛美する喜びをもって、力強く前進していきましょう。
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