互いの向上に
ローマの信徒への手紙15章1〜6節
 今年の冬は、列島全体が寒波に何度も見舞われて、北海道、東北、北陸などは、記録的な大雪になっています。温暖化とはどういう関係になっているのか分かりません。まことに自然の力は測りがたいものです。牧師館の庭には、ヒヨドリ、山鳩、烏、セキレイ、ムクドリ、メジロなど、さすがに冬、鳥たちが食べものを探しにやってきて、なにやらしきりにつついています。こんな平和な光景に接していると、人間の勝手で地球環境を壊すことは傲岸なことだと痛感せずにはいられません。どうしたら地球の管理権を委ねられているこの重い責任を果たせるのか、みんなで真剣に取り組まなければならないと毎日思い知らされています。神さまが宇宙を地球を創ってくださったことを深く感じることが多くなりました。省みれば、「泥鰌っこだの鮒っこだの、春が来たなと思うべな」と歌っていた餓鬼の頃が嘘みたいに、自然が遠くなってしまいました。
 一九七八年、もう三十五年も前であります。
 私は、韓国で暮らしていました。今度初めての女性大統領、パク・クネが就任したばかりですが、彼女のお父さんのパク・チョンヒ大統領の時代であり、軍人出身大統領による独裁時代の最中でした。が、自然はまだまだ圧倒的に豊かに残っていて、夏などバスや汽車の車窓から素っ裸のまま川遊びしている子供たちの弾けるような笑顔がいっぱい見られました。
 町外れの丘の上の教会には赤牛たちが首に鈴をぶら下げていて、のどかなキリスト教的農村風景が至る所に見られました。線路の脇道から雉が飛び立ったりしました。私は三六歳でした。
 韓国人も自然が好きですが、景観全体の雄大さが好きで、その中にいる小さな存在である人間との組み合わせが醸し出すパノラマが好きです。ある時、そんなパノラマの中を学生たちと訪れた時、日本文学専攻の学生の一人が、「この素晴らしさを、先生は今、ここで、詩に創ってください」と要求したのです。「ああ、これは漢詩の感覚なんだ」と思いました。私の答え。「日本人はね、こんな山道に咲いていた一本のスミレに目を止めて喜ぶんだ。『山路来て何やらゆかしスミレ草』」。その学生は、明らかに私の答えが不満でした。日本人はスケールが小さいと言いたかったのでしょう。
 ところで、旧新約聖書を通して、自然そのものを対象にして、「美しい」と表現した聖句は一つもありません。被造物を創造した主への賛美だけなのです。日本人である私が、聖書を開いていて、一つだけ物足りないのは、自然に対する観点が違っていることを感じる時です。
 しかし、韓国もすっかり変わってしまいました。日本よりも激しい原発反対デモが繰り広げられています。原発問題は、今や避けて通れない世界の緊急問題なのです。
 こんな状況の中でキリスト教世界はどうなっているのでしょうか。カトリックも日本キリスト教団を代表とするプロテスタント主流もこぞって反原発、脱原発と旗幟鮮明ですが、信徒一人一人はどうでしょうか。私ども一人一人の日常生活の中で、できることを具体的に行動で示さなければ、隣人には何も伝わりません。信仰に基づいた表現がどんなにささやかであっても、外部に表すことが大切であり、それは伝道と同じなのです。伝道しなない信徒は、自己満足をして成長を止めてしまった者であります。 
 それでは、隣人との関係について、パウロはどんなことを、言っているのでしょうか。
 今日のテキストは、ローマの信徒への手紙15章1〜6節です。キリスト者の倫理について丁寧に語っています。小見出しは、「自分ではなく隣人を喜ばせる」なのです。パウロの視点は、いつもはっきりしています。これはいわゆる個人主義ではない。私の信仰、私のキリスト教理解、私の倫理など、個人の生き方に中心を合わせた近代的個人倫理ではない。あくまでも共通の信条に立つ信仰共同体の倫理を主張しています。つまり教会論なのです。「キリスト者である私」という掛け替えのない存在である私の重さは、実はそのままそっくり「あなたという他者であるキリスト者」の掛け替えのない存在の重さなのです。そういう他者と共に生きることを自分の根源に据える時に、共に生きることの深さが見えてくる。その深さを実感する時、初めて生きる喜びが迫る。それは自画自賛や手前味噌という自分勝手に振る舞うこととは縁遠い、喜びの倍増なのです。
  では、一節をご覧ください。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」。 うん、そうだ、その通り。すぐに同意できそうですが、ここが落とし穴。
 大体「わたしたち強い者」とは、どういう人のことでしょうか。経済的に富める者、学歴が高くて社会的地位がある者、健康かつ自慢できる家族と共にある者のことでしょうか。いいえ、まったく関係ありません。「わたしたち強い者」とは、イエスさまこそキリストであると確信して告白したキリスト者の群れのことです。
 ならば「強くない者の弱さ」とは、告白したものの常に揺れ動いていて不信と疑惑と不安の暗い震えの中にいる群れのことです。
 「弱さを担う」とは、その暗い震えを背負って運ぶことです。それが強い者の義務なのです。弱い者と共に歩むこと、これは容易にできることではありません。しかし、この必死で懸命に背負って運んでくれる行動に衝撃を受け、感動して「強くない者」が目覚める。そして少し少しずつ、強くなっていく。「強い者」は、背負って運ぶ行動を通して自分の信仰が鍛えられて、共に歩んでいく喜びを改めて自覚する。強くない者の弱さを背負って歩むことによって、イエスさまの十字架の出来事があらたに迫って来る。その時、「自分の満足を求める」ことなぞありえない。余裕もないのが本当です。しかし、主の眼差しはたしかに注がれているのです。
 くどいようですが、「わたしたち強い者は」という言い方に抵抗を覚える人がいるかも知れません。正直言って、「私はそんなに強い者ではありません。むしろ弱いのです」という言い方のほうが自分に正直だと思う時、心の奥の方にちょっと隙がありそうです。一見謙虚に見える逃げが、ありそうです。
 聖書は、「わたしたち強い者は」と複数形です。「わたし」と単数形で言っていません。
「わたしたち強い者は」は、明らかに教会に属するキリスト者たち」のことであり、この事実を認めなければなりません。私どもは、十分背負って運ぶ資格があるばかりではなく、義務です。背負って、さらに強い信徒になる。これが受洗した者が取るべき道なのです。
 キリスト者であることを承認すること、そして社会の現場でキリスト者であることを公言する、これが今日からの出発点です。
 私どもの主ご自身が自己満足の道を歩んだことはないのです。あの呪われた木に掛けられた、あるいはおのずからその処刑をお選びになったイエスさまを思い描いてください。
 さて、ここまでで、ようやっと一節が終わります。
 では、2節へ行きます。「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」。 これも単純な個人の判断による善を実行するという意味ではない。隣人の立場にわが身を置いて、隣人と私とがキリストによる一致へと辿りつくことを目指す。そのためになす善の内実を吟味してから実行すべきです。単なる個人的な行動なのではない。教会共同体に連なる一員としての責任と義務を果たすことを命じられている。この時、信仰が、他者に対する愛の配慮として働いてくれると確信できなければ教会共同体の一員とは言えません。
 その結果、「隣人を喜ばす」とはどういうことでしょうか。聖徒の交わりにおける善を行って、その結果、お互いの徳が高まらねばなりません。どのくらい他者のために時間を費やすか、これは一つのバロメーターなのです。他者が困っている時に、笑顔を絶やさずに益になることを確信してすること、これが教会の徳の建設であり、成長なのです。
 3節、「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」。 あの十字架への道を想起せずにはいられません。じつは、イエスさまご自身が、私どもを背負ってくださっておられる。
 4節、「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。 
 みなさん、人生を振り返ってみて、楽しかったことを指を折って数えてみてください。改めて数えると案外少ないものです。
 それとは別に、心の奥深くに刻まれている出来事は、忘れようにも忘れることができない辛く悲しいことがあります。
 さて、ここからが、分かれ道なのです。それらの辛く悲しい出来事を通して何を学んだのか。恨みでしょうか、怒りでしょうか、復讐でしょうか。いいえ、私ども教会に連なるものは、そこから「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。 
 なぜなら、続いて5節、「忍耐と慰めの源である神」という表現が登場します。人生を豊かにする源は、神から湧き出してくる。それも忍耐と慰めの源である神から。じつは、私どもは、忍耐と慰めをプレゼントされて、キリストこそその源であったことを実感するのです。これこそキリスト者が手に入れるいぶし銀の人生なのです。忍耐と慰めを知った時、キリストによって一致を創り出せる。六節、「心を合わせ声をそろえて」とは、私どもが一つの心、一つの声になって、「わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」と締め括られています。教会の礼拝で讃美歌を歌うのは、じつは賛美こそ最大の栄光だからです。キリスト者は個人主義者ではない。兄弟姉妹と共に賛美する時、個人主義は克服されるのです。そして、キリスト者の倫理とは、人格を持った神さに責任を持って応答することなのです。
 神さまから与えられた平和を、隣人との平和へと広げ、地球全体の平和を実現するために、希望を持ち続けて前進していきましょう。
 祈ります。
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