サマリアに残る塵
列王記上 20章8〜12節
 春隣りという時候の挨拶が好きです。今年は殊の外寒いのですが、さいたま市の妹は、「堺は、暖かいでしょう」と電話で切り出したりします。内心「とんでもはっぷん」と言いたいところですが、「それほどでもないよ」と何を言っているのかよく分からないまま、「もうすぐ春だね。今年は紅梅が殊の外きれいだね」なんて言って、「ところで何の用?」ってなことになります。本題に入る前に季節に合う挨拶を探して、お互いに楽しむのが日本人の庶民の伝統でした。
 が、最近は様変わり、携帯やパソコンや手紙も時候の挨拶抜き、用件ずばりなので、私のような老人は、味気ない思いをしています。
 日々の他愛無い、小さな喜びというのも暮らしを支える喜びの一つだったはずです。カラスがごみ袋を突っついて、お菓子を加えて飛んで行くのも、小型四輪車の運送屋さんが、仕事を一時放りだして知り合いとだべり込んでいるのも許容範囲のご愛嬌なのです。
 いまなお戦争状態と深刻なテロに怯えている中近東の女性たちが、「ハイヒールをはいて、花束を抱えて、町を闊歩したい」と言っているのをテレビで見ていてそう思いました。
 かつて六〇数年前の戦後、貰ってきたサツマイモのつるを叩いて甘みを取り出して、お汁粉変わりにしていたこと、紙芝居を見ながら、筍の皮に挟んだ梅干しからしみだしてくる味を吸い出しながら味わっていたこと、などが遠い記憶になってしまった現在です。これらは、忘れても許される記憶であり、すべてを覚えていた辛く悲しい出来事も思い出してしまうでしょう。九割を忘れて、一割しか思い出せないので人間は生きられるとも言われています。
 が、決して忘れてはならない出来事や体験というものがあります。
 二年前の3月11日です。あの日に起こった東日本の想像を絶する津波と原発の爆発を忘れてはなりません。あと15日で、あの日がやってきます。あんなに晴れていた春の日の午後2時26分、突然襲ってきた。
 旧約時代の人々は、地震を神の裁きと受け取っていました。現在の私どもは、自然災害と人災とを区別しますが、神の裁きと受け取るほどの宗教性はほとんど持っていません。これはいいことなのかどうか、一度真面目に考える必要があります。
 さて、人災そのものである福島原発の事故の原因究明をめぐって、情報が混乱しています。地震があろうが、なかろうが、人間がコントロールできない原子力に頼って、あくまでも経済優先主義を突っ走ろう、文明を享楽しようとする傲慢な態度こそ、神の領域への許し難い挑戦なのです。バベルの塔から学ぼうとしない者らの行く先ははっきりと見えています。
 さて、今日のテキストは戦争、人災そのものを繰り返した、紀元前からの人間世界の姿を描き出しています。
 旧約聖書の申命記以降は、神の民イスラエルが王国を建ててからの栄光の日々から始まり、やがて王国の分裂、神への果てしない裏切り、背信、そして強国バビロニアによる半世紀近くに及ぶ屈辱の捕囚体験、そこからの回復後の衰退の歴史の中での、ひたすらなメシア待望という誇れない現実を描いています。神に背を向けた民族の苦しみと徹底的な懺悔にもかかわらず続く苦悩を通して見えてくるのは、神と人間の関係性であります。義とは、平和とは、信仰とは、など、あえて一言でいえば、生きるとはどういうことなのかを問い詰めずにはいられなくなる問いと救いについて書かれた壮大なドラマが展開されている書物なのです。その最後のメシア待望に応えたのがイエスさまの愛と救いを伝える新約聖書なのです。
 とは言っても、キリスト者でも旧約聖書をどのくらい読みこんでいるでしょうか。私も誇れません。まして部族連合時代、王国時代、王国分裂時代の戦争場面だけでも、残虐すぎて、一体何をいいたいのか理解に苦しむことが多い。神さまのメッセージを読み取るためには、本気で取り組まなければ、なかなかメッセージを捕まえられないのです。
 今日のテキストは比較的分かりやすいので、メッセージは何であるかを一緒に引き出してみましょう。
 それこそ、なかなか決着つかないアラムとイスラエル王国との果てしない戦争の一場面です。アラムの王ベン・ハダドは、強大な戦力を誇って、イスラエルの王アハブに使者を送って脅かします。6節、「明日のこの時刻に、わたしは家臣をあなたに遣わす。彼らはあなたの家、あなたの家臣の家の中を探し、あなたの目が喜びとしているものをすべて手に入れ、奪い取る」。 王の妻子をも求めてきたのです。八節「長老と民は皆、王に言った。「求めを聞き入れないでください」。 そして王はこの度の要求を拒否したのです。大軍を率いるハダトは、高飛車にこう言います。「もしサマリアに残る塵がわたしと行を共にするすべての民の手のひらを満たすことができるなら、神神が幾重にもわたしを罰してくださるように」。 この台詞はちょと分かりづらい。「サマリアの塵」とは、当時の北イスラエル王国があった地の塵・芥という意味です。ですからイスラエルの軍隊という意味ですが、「塵」と比喩を使うことによってイスラエルの軍隊を侮蔑している、価値がないものと一蹴しているのです。蹴りを入れて、はねつけている。全体の意味は、「おまえらが、わしが差し向ける強大な軍隊の力を圧倒できたら、わたしは神神に罰せられていいぞ。そんなことできっこない。わっはっは」と言うのです。現実の戦争は命懸けであり、これくらいの台詞も必要でしょう。が、油断大敵です。大軍を率いているハダドはイスラエルを見下し見くびった。彼らによれば、ヘブライ人の神は、元来山の神だから、平原での戦争には弱い、だったのです。指がまだなめらかに動く方は、聖書の終わりにある地図の5 南北王国時代をご覧ください。イスラエル王国の都は、サマリアです。そして北東部にキネレト湖があります。新約聖書以後のイエスさまの根拠地、あのガリラヤ湖です。おそらく今回の戦争の舞台は、ガリラヤ湖の東であったことでしょう。ただし聖書的根拠はありません。平原の戦争は我らのものという思い上がりがハダド王側にはあったのです。
 しかし、主は両軍の動きをじっと見守っておられたのです。イスラエルの王は、ハダト王の一方的な発言に対して、次のように答えています。11節「こう伝えよ。『武具を帯びようとする者が、武具を解く者と同じように勝ち誇ることはできない』と。この意味は、「これから戦争を始めようとする者が、武装して戦争を始める前から、勝った後の武装解除まで考えるなんてなっていないぞ。まるで獲らぬ狸の皮算用ではないか。ナンセンス、おっほほ」と返しています。これは直球のお返しです。その通り、まだ闘っていないものは勝利者ではない。闘わない者は、勝利した後について語るべきではない。虚しい空想に酔っぱらっているかぎり、現実を切り開く可能性は近づいて来ない。
 私どもの信仰も同じ。信仰を持つことまではできる。しかし、信仰を生きることは戦いであり、この戦いは目標を目指してひたすら走らなければならない。
 勝利は、歓喜の中でこそ味わわなければならないのです。私どもは、神の力にすがることを通してのみ、信仰が守られる。自分の力を奢り、他者を見くびっている者は、必ず崩壊する。
 その証拠に、12節、逆上せ上ったハダト王は、「ほかの王侯たちと共に仮小屋で酒盛りをしている」のです。それを聞いたイスラエル王は、「この言葉を聞いて」、 家臣たちに、『配置につけ』と命令した。彼らは町に向かって戦闘配置についた」。 
 ドキドキします。こういう話筋の進め方は小説や映画そっくりです。その後の展開はどうなったか。ところが、そこが聖書、小説や映画とちと違うのです。
 13節「見よ、一人の預言者がアハブに近づいてこう言った。主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』 
 そこで、アハブは、232名の若者を出陣させた。が、ハダドはまさに見くびった。その結果、ついに彼らは「騎兵を伴って逃げ去」るしかなかった。アハブは「彼らに大損害を与えた」。 こうしてイスラエルの神が単に山の神ではなく、平地の神でもある、というよりは、全宇宙の創造者、支配者であることが証明されるのです。もともとイスラエル民族は多神教であったようです。それがどのように一神教へと変貌していったのかは、十分には解明されていませんが、まさに啓示であったとしか言いようがありません。啓示と契約の宗教として成熟していったのであり、その救済史の完成がイエス・キリストの十字架と復活の出来事であったのです。
 テキストに戻りましょう。じつは今日のテキストの22節以後を読みますと、えっ、そんな筋書きなのとびっくりする展開が、さらに待っているのですが、そこはみなさんが帰宅してから、お読みください。
 おとついの金曜日、妻と私の共通の友人である同志社大学の教授・宇治郷毅さんが三月で定年退職なので、とくに親しい方々とのお別れ会が南禅寺の菊水という料亭で開かれました。18名。湯豆腐の昼食です。彼らは学生YM・YWCAの仲間です。キリスト教を中軸にした友達というのはありがたいものです。六〇代以上、八〇代まで。ほとんどが日本キリスト教団の信徒であり、積極的なボランティア活動に打ち込んでいます。生き生きしている。地球の平和のために頑張っていると言えます。初めてお会いした先輩もいました。菊水の社長も挨拶に見えました。彼も先輩なのです。
 ところが、現実の世界は、あいかわらず、不信と疑惑、テロと暴力の中にあります。
 考えてみれば、世界史の現実はいつも同じです。しかし、戦争に反対して、平和を造り上げるために全力投球してきた人々の働きがあって、ここまで世界は支えられてきたのも事実なのです。イエス・キリストに出会った私どもは、私どもの平凡な日常を守り、楽しむためには、非人間的なものに反対しつづけなければなりません。神はお創りになったすべてのものをご覧になった時、
 「見よ、それは極めて良かった」のです。
 それなのに、バベルの塔を建てて、神に反逆した愚かな人間は、またしてもその愚かさ繰り返しています。これ以上地球を破壊することは赦されません。私どもは、他者を見くびってはならない。何よりも神ならぬものを神としてはならない。最大の悪は、人間が人間を神としている事実なのです。
 梅一輪一輪ごとの暖かさ、メジロがサザンカや梅の枝に毎日やってきます。春隣りの日々、これ以上地球を破壊することは神への裏切りです。
 私どもは「サマリアに残る塵」ではない。イエス・キリストによって救われた新しい人間、正真正銘の弟子、ぶどうの枝として、なすべき多くの仕事を与えれていることを感謝し、神さまを賛美しながら進んで行きましょう。
 祈ります。
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