世俗を越える音
エゼキエル37章7〜10節
 2月7日、木曜日。寒くて曇っていましたが、妻と私は、神戸の住吉へと急いでいました。住吉から六甲ライナーに乗り、アイランド北口で降りました。黄土色の高層マンションの七階の○○号室へ。最近の高層マンションは私どものような老骨にはどうも苦手です。
 ようやっと目的の家の前のベルを押しました。
 妻と私が会いに行ったのは、常田二郎牧師です。漢字で、「常に」の常、田は、田んぼの田、二郎は、一、二、三の二郎です。只今、百歳と十一カ月。来月三月には百一歳の誕生日を迎えられます。先月百歳の奥様を天国へ送ったばかりです。はたしてお元気だろうか。もし寝付いていらしたら、目は、耳は、と、あれこれ思い巡らしていたのですが、お会いしたとたん杞憂だったと知ってほっとし、同時に嬉しくなりました。
 先生は、私どもが同志社時代に通った京都御所の隣にある洛陽教会の牧師でした。洛陽教会は、「八重の桜」の新島襄・八重邸の隣にあります。
 私と握手した後、開口一番、「教会大変だろう」でした。古稀で伝道師になった私への労りであり、二十代前半から五十年間牧会を続けたご自分を顧みての感慨でもあると思いました。十七年前の神戸・淡路大阪大震災を経験された後、お見舞いしたとき、これは、黙示録が描いた終末だと思ったと話された日のことをありありと思い出しました。
 常田牧師は、73歳で引退しましたが、それ以降も年齢を自覚したことはない。マタイ福音書6章34節、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあるように、「み言葉通りに生きてきました」と言われました。凄い、こうでなくてはキリスト者とは言えないと思います。
 常田牧師は、二、三年前に胃癌の手術をしています。去年は肺炎で入院しています。普通ならばこんなに高齢であれば、体力的には手術は耐えられないはずですが、先生はまれにみる丈夫な体の持ち主なのです。そういえば先生は車の運転をしませんでした。「伝道は歩くことだ」というのです。若いころからひたすら歩いて伝道してきた事実が、神さまから祝福されて、強靭な体力を手に入れたのであります。まさに主に委ねた信仰であり、恵まれた晩年でもあるのです。先生を見ていると、高齢化社会を生き抜く希望が溢れ出てきます。現在70代に入ったばかりの私にも、あと30年が生き生き生きていく可能性の圏内にあるのです。嬉しい楽しい新老人の可能性なのです。
 さて、今日の宣教の題目は「世俗を越える音」であります。これは一体どういうことなのかと言われそうです。
 マイカーの便利な時代の中に私どもは暮らしていますが、先ほども紹介しましたが、先生は、「伝道は歩いてするもの」という確信のもとにひたすら伝道(宣教)してきたのであります。一歩一歩、道を踏みしめるその足の感触の確かさというものがあります。大地に繋がっているという感覚は、その地の文化や歴史を呼吸することに繋がっていく」ことである。もう亡くなった韓国からやってきたわたしの友人(詩人)は、埼玉県狭山に住みましたが、彼は毎日、裸足になって埼玉の丘陵地を歩きました。そうやってかつての渡来人のように日本と韓国を結びつける訓練をしたのであります。彼はのちに日本語で詩を書く独特な国際人になりました。この人を思い出すたびに私は、連鎖的にパウロの国際的な宣教活動を想起するのです。土師の辺りでは、草の生えている道を歩いている人は安産する、と、聴いたことがありませんか。これはたしかに真実であります。草地を歩いていると、大地の息遣いが足裏に伝わってくる。そうすると空も近づいてくる。風も雲も友達になってくる。これって、何でしょうか。その土地に根付くこと、その土地を呼吸することではないでしょうか。そこにあるのは、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という命のつながりの実感のことではないでしょうか。そこの地に根付きながら、同時に、大地と宇宙に繋がっていくという普遍的なつながりの可能性へと招かれていることだろうと思います。イエスさまという不思議な魅力的な人格が、私ども共通のキリスト(救い主)であるという共同告白が成立する恵みと通い合うものがあるのです。
 視点は、少しずれますが、地上の具体的な国家(私どもの場合、ほとんど日本ですが)に属する国民ですが、ほんとうは神の国の住民である事実とどこか通い合っております。
 さらに言えば、アッシリア、バビロニア、エジプトに挟まれて血を流し続けてきたイスラエルとユダ王国が、ほんものの救い主を求め続けていった歴史とも通い合うものがあります。エゼキエル書が語りかけるものは、全イスラエルの復活の約束なのです。
 今日のテキストをもう一度開いてください。エゼキエル書37章2節(上の段です)。「見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」と。
 ここは、エゼキエル書の中でももっとも知られている有名な箇所です。捕囚にされたイスラエルの民に入った情報、それはエルサレムの陥落です。神殿も民もことごとく滅び去った凄惨な情景は、幻としてエゼキエルの眼前に映し出された。息を?まずにはいられない光景である。「また見ると、それらは甚だしく枯れていた」。 これは白骨化した光景です。徹底的な死です。捕囚の民は絶望する。
 その時、神が語られたのです。
 4節、「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5節、これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」と。
 4節の主の台詞、「これらの骨に向かって預言し」と明らかに死んで物質と化してしまった「これらの骨」と言っていますが、続けて、「彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と。人格を持った骨なので、「彼らに言いなさい」と命じた。彼らは祖国のために戦った兵士たちであったはずです。だから5節でも、「お前たちの中に霊を吹き込む」と約束なさったのです。「お前たち」と二人称で呼びかけてくださったのです。こうして主なる神と死者たちの間に交わりが回復されて、復活が成立するのです。
 さて、私どものこの地球は、ますますの混迷の中にあります。イスラエルとシリア、アルジェリアのテロ、中国の大気汚染、日本と周辺諸国との領土問題、ソロモン群島での地震と津波、福島原発を巡る偽の報告書、スポーツ界の暴力肯定体質など、目を覆うような現実です。
 金曜日の朝日新聞の「天声人語」は、私自身抵抗を感じずにはいられない書き出しです。
 こんな書き出しです。
「命に軽重はないけれど、喪失感の大きい訃報が続いた。才を惜しむ言葉を連ねつつ、神も仏もあるものかと嘆くばかりの小欄だが、ようやく神仏の存在を感じている。この子を死なせるわけにはいかない」として、マララ・ユスフザイさん(15)について書いています。「女性にも教育を」と訴えたため、武装集団に襲われたパキスタンのあの少女のことです。「天声人語」の引用を続けます。「ユスフザイさん(15)が、肉声のコメントを出すまでに回復した。銃撃から四カ月。砕けた頭蓋骨の穴はチタンの板で覆われ、耳には聴力を取り戻す器具が埋め込まれた。心にも鉄の衣を着せ、命がけで闘う決意とみえる。生死の境をさまよって、なお「神に授かった新たな命は、人助けに奉げたい」と気丈に語る姿は胸をうつ。ノーベル平和賞の候補とされるのも道理だろう」と。
 このことが、「ようやく神仏の存在を感じている」と第一段落の結論とどうやって結び付くのか私にはよく分からない。この筆者の宗教感覚に素直には納得できないのは、私がキリスト者だからです。マララさんの回復を心から喜んでいるのですが、その結論がなぜ宗教に結び付くのか、しかも「ようやく神仏の存在を感じている」になるのかが分かりません。世界の悲惨な光景を見ているとは神仏が信じられないということでしょうか。東日本の大震災は、神仏の不在の証明に果たしてなるのでしょうか。私どもキリスト者は、もっともっと根源的な所で神を実感しているのではないでしょうか。みなさんは、どう思いますか。
 今の日本人は、生きること自体に喜びを感じなくなっているようです。若者は就活に苦労し、年金の行方が心配です。お年寄りは、終活(人生の終わり方)を心配しています。
 テキストに戻りましょう。7節、「見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた」
 そんなことはあり得ない、と、すぐ答えが出せる人は、考え直してください。世俗的な判断しか持てない、出せない世俗的な人間が自分なのではないかと考えることが時には必要なのです。世俗的判断しかできない人には、マララさんの頭蓋骨に打ち込まれたチタンの板の音は響いて来ないでしょう。もちろん誰にも聞こえるはずはありません。手術に当たった医師たちには、ひとつひとつ確実に響いていたはずです。マララさんの生還を願った一人一人の胸にも響いていたと思います。それは命の復活に携わった霊の音なのです。
 宣教の前に司会者が読んでくださった使徒行伝2章の2節には、「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。これも、そんなことはあり得ないと否定してしまえるでしょうか。否定したらキリスト教会の成立は、歴史上あり得なくなってしまうのです。
 しっかりしなくてはなりません。私どもは、あまりにも地上的な、世俗的な判断に浸かりすぎているのです。ときには常識的、良心的、学問的という言葉で正当化しすぎています。
 そうではなく、もういちど信仰者の目と心で世界の現実の奥のほうを、というよりは現実そのものを見詰めなおしてみましょう。
 聞こえませんか。チタンの板を埋め込む音が、絶望の底にいる人々に語りかける主の呼びかけの音が。エゼキエル書三七章九節、「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。
 原始キリスト教会は、聖霊に満たされて成立したのです。イスラエルの復活は、主の霊によって、また主の言葉に聴くところから成立したのです。
 今日、私どもに必要なのは、世俗的判断や価値を越えて聞こえてくる音に耳を傾け、霊によって雄々しく立ち上がることです。
 キリスト者であることは、世俗を越える音を受信する敏感な装置を身に着けていることです。そんな私どもを見て、「クリスチャンって、凄いなあ。私も教会に行こう」と言ってくれる人が増えなくては、私どもが信仰者であることの意味は半減するでしょう。
 今こそ、心を空っぽにして、主よ、ここに来てください。あなたの言葉をいっぱい注いでくださいと乞い願わなくてはいけません。
 「見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」
 キリスト者の道は前に進むことだけなのであります。祈ります。
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