思い出してください
ルカによる福音書23章39〜43節
 「来週は、待ちに待った遠足です。みんなで良い思い出を作りましょう」。 今時こんな陳腐な言い方をする先生は、いないと思いますが、ときどきにこにこ顔でこういうセリフを口に出す先生がいます。
 私は、「思い出を作る」という言い方が嫌いです。「後で思い出すために、良い思い出を作りたい」というのは、へんな発想ではないでしょうか。どうもふだんの生活が充実していない人の言い訳のような気がして不愉快です。
 そもそも「思い出」というのは、ずっと後になって、ふと思い出して懐かしむという状況の中でのある行為をいうのであって、人工的に前もって作り出すのは本末転倒であり、邪道だと思うのです。「思い出づくり」のための家族旅行、イベントは、ちょっとずれた貧しい発想ではないでしょうか。
 とはいえ、ふだんの私どもは、「何か面白いことはありませんか」、 「何か楽しいことはありませんか」と、安易に口に出しています。が、ほんとうに毎日が面白くて楽しいことばかりだったら、きっと飽きてしまうのではないでしょうか。何が面白くて楽しいことなのかが分からなくなってしまうのではありませんか。
 六〇代以上の方なら、「浦島太郎」という文部省唱歌を覚えていらっしゃるでしょう。
  昔々浦島は 助けた亀に連れられて
  竜宮城に来て見れば 絵にもかけない美しさ
 そして二番
  乙姫様のご馳走に 鯛や比目魚の舞踊
  ただ珍しく面白く 月日のたつのも夢の中
 三番は
  遊びにあきて気がついて
  お暇乞もそこそこに 帰る途中の楽しみは
  土産に貰った玉手箱
 その結果は、ご存知の通り、たちまち太郎はお爺さんになってしまうのです。小学生の頃は学芸会で演じたりもしましたが、あの頃、面白くてやがてかなしい人生の無常を感じて歌っていたでしょうか。今思うと何という恐ろしい人生の無常観を教わっていたことか、ということになります。が、あの歌を教えてくれた先生は、無常な人生をかなしみながら泣きながら教えてくれたでしょうか。先生も子どもたちも竜宮城しか思い浮かばなかった。
 それでよかった。
 今、人生の半ばに差し掛かった、あるいは終わりが見えてきた私どもは、玉手箱をどう思っているのでしょうか。邪悪なものしか入っていないパンドラの箱にしても浦島太郎の玉手箱にしても、人生ってこんなものだよって語りかけてきます。
 が、私どもは、この二つの箱を、今どこに持っているのでしょう。それともこんな昔話はナンセンスだよと放り投げてしまった、でしょうか。
 そもそも「面白い」とか「楽しい」の基準はどこにあるのでしょうか。ひとりひとりのしっかりした人生観が改めて問われているのです。放っておいても必ず老年期は来ます。いつか必ず最後が来る。生きるとは、死に近づく一歩一歩である。その通りです。
 では、それをどう受け止めたらいいのか、を今日は少し考えてみましょう。
 先週、不覚にも本格的な風邪をひいてしまいました。河内ご夫妻と競い合うかのように、寝込んでいました。予防注射をしていたのに、こんなはずではなかった、でもこんなものなのです。いつ病気になるのかも分かりません。誰々さんは寝込んでいる。誰々さんは入院した。
 そんな状況の中で、今日のテキストを読み直していました。筋書きは明瞭。中身も明瞭な箇所です。
 死刑囚としてしゃれこうべの丘の十字架に磔にされたイエスさまの左右にも二人の囚人が磔にされているのです。この二人については、いろいろな伝承があり、正典以外の福音書の記事もあります
。有名な伝説は、エジプトに逃れたイエスさまの家族をかくまって親身にお世話をしたエジプトの家族の物語があります。その家族の一人が、やがて盗賊になって捕まり、今イエスさまの隣にいる。かつてあなたをお世話をさせていただいた家族のことを「思い出してください。そして私を救ってください」というお願いです。
 これは、がっかりする因縁話ですね。イエスさまの愛を知らなすぎる。聖書はそんな浅はかなものではないので、ここまでにします。
 イエスさまと同じ現場で十字架に架けられているとなれば、考えられるのは、ローマ帝国への反逆罪、反乱もしくは武力解放戦線のユダヤ愛国者の一味、つまり熱心党員であったことでしょう。23章では、すでに暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバがイエスと天秤に掛けられて解放されています。
 ユダヤ人支配者たちは何があってもイエスを殺したかった。その力の前では、総督ピラトも対抗できなかった。が、そのピラトが、イエスさまの頭の上に「これはユダヤ人の王」と書いた札を掲げさせたのです。人々はくじを引いてイエスさまの服を分け合った。兵士たちは、イエスさまに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と。
 これは、ローマの兵士たちの無意識によるユダヤ人支配者たちへの皮肉でもあったと解せないこともないのです。ローマ皇帝そしてヘロデ王による二重支配下にある当時のイスラエルの苦境が目に浮かぶようです。
 23章26節のキレネ人シモンが十字架を背負わされて歩んでいく姿は、その後の教会の成立と使命を思い描かせてくれます。十字架を背負うことは、私どもキリスト者の二千年間の姿なのです。
土師教会もどうにかして人目に付く所に十字架を建てたいと長老会で何度も話し合っています。
 しゃれこうべが現在のどこにあったのかは、特定されていません。はっきりしていることは、ここが刑場であったこと、焼けつく熱風と太陽の下、死はじわりじわりと苦痛と共にやってくる惨い死に場所であったという事実です。処刑は二四時間を超えることも珍しくなかったようです。その死後は、禿鷹や野犬がその死体に食らいついたとも言われています。「自分を救ってみろ」というセリフは、あの荒野での悪魔の声と同じなのです。かれらは、メシアの使命を何も考えていない。じつに浅薄なメシア観しか持ち合わせていない。
 では、この二人の犯罪者はなにを考えていたのでしょうか。おそらくイエスさまについての噂を二人は知っていただろう。会ったことはなくても、関心は抱いていただろう。
 偶然三人は、十字架上の犯罪者として出会う。口をきいたことも見つめあったこともない。そんな三人の、最後のそして最初の出会いがしゃれこうべの十字架上だった。
 イエスさまの右側か左側か、どちらであってもいいだろう。三九節、犯罪人の一人が、イエスさまをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身を救ってみろ」と。
 40節、すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」 。41節「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 この男はバラバが解放された事実を知っていたかもしれない。知っていなかったかも知れない。どちらであってもいいだろう。この男は、イエスさまが何も悪いことをしていない、潔白であることを知っている。そのイエスさまが自分らと同罪として十字架に架けられている事実に耐えられないのである。そのイエスさまが体制への反逆者、神の冒涜者として殺されていくことがどうしても良く分からない、釈然としないのである。もしかしたら、否、間違いなくこの方はメシアなのだ。私どものような罪人をも救ってくださるかも知れない。が、私どもにはそんな資格はないだろう。でも、もしかしたら、こんなどうにもならない罪人をこそお見捨てにならずに心のどこかに覚えてくださるかも知れない、と、そう思った時、この罪人の心は激しく騒ぐのであった。気が付いたら男は、哀願するかのように祈るかのように声を振り絞っていた。42節、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。初めて口をきいたとき、そのとき、この男は罪人として惨めな姿で十字架上に晒し者にされていた。が、男はイエスさまがメシアであることを確信したのであります。一体何を証拠に、と、問うべきではないでしょう。この罪人は、イエスさまの潔白を信じたとき、同時にメシアであることを信じたのであります。
 現代の私どもも同じであります。これこれこういう理由でイエスさまが救い主であることを信じたのでしょうか。いいえ「、論理的説明は説明として理解しましたが、キリストとしてのイエスさまを否応なく直感的に受け入れたとしか言いようがないのです。
 「御国にお出でになるときには、私を思い出してください」。 初めてお会いして初めて口から迸り出た言葉が、「思い出してください」でした。「思い出を作る」などという薄っぺらな言葉はどこかにすっ飛んで行ってしまったことでしょう。「思い出してください」という言葉には、「あなたと共に行きたい」という切なる願望が込められているのです。行く(ゴー)であると同時に生きたい(リヴ)が込められているのです。強い願望とともに謙遜な表現でもあります。「せめて思い出してください。あなたの記憶の底に生かしてください」と祈るように語りかけているのです。明らかにイエスさまが復活することを確信しているのです。ならばこの「思い出してください」は、十分に信仰告白なのです。
 だから、43節、「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われたのです。
 ここの「今日」とは、「今からあなたは永遠にわたしと共にいる」という永遠の今日なのです。これはイエスさまからの祝福であり、救いの約束であります。
 私どもにとっては、単に面白く楽しいこととは、ほとんど何の喜びでもありません。永遠の今日を生きることこそほんとうの人生の喜びなのであります。
 イエスさまは、こう言っておられます。
 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。 (マタイによる福音書6章34節)
 私どもキリスト者の人生は、一日一日が主と共にあると確信し、感謝しているか否かだけなのです。 祈ります。
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