分かったらどうする
箴言 25章2節
 もう、1月最終の主日礼拝です。石津教会の元旦礼拝がつい先だってであったのに、という感じです。慌ただしいこと、限りありません。
 一度報告は致しましたが、宣教の中では、初めてになります。私事になって申し訳ありませんが、じつはクリスマスのあと、12月28日にわたしの実姉が埼玉で亡くなりました。真言宗長谷寺に属していますから、いくら私が司式者をしたくても、遠くにいるため不可能でした。次の大問題は、年末、葬儀場が空いてない。結局正月3日に通夜、四日に告別式とあわただしく過ごしました。人の死は、いつと予定を立てることはできません。覚悟はしていてもいざとなると、喪主でなくともいろいろとうろたえるものです。兄弟姉妹8名がいても、次々と欠けてきました。順番から言えば、次は私です。願わくば、もう少し、神さまの御心によって、みなさんのお役に立たせてください、と。切に祈っています。
 さて、20日の礼拝後、お茶のお菓子の一つ小林梅子さんからのお菓子は、「本銅鑼」でした。どら焼きはわたしの大好物です。「本銅鑼」という名前が気になっていたら、ビニールの半透明の包み紙に、こう書いてありました。
 「一説によれば、『銅鑼焼き』は、その形が銅鑼に似ていることからその名がついたとか、境の町に鳴り響いた南蛮船の銅鑼の音が、ふと聞こえてきそうです」と印刷されていて、右端には、南蛮船が描いてあるのです。
 この「一説によれば」が、どうも気になって、金曜日の午後、泉佐野市の老舗製造元の「向新」に問い合わせました。
 というのは、ヨーロッパの南蛮船に銅鑼があったなんて聞いたことがありません。夕方、電話が入りました。大仙公園の境市博物館に問い合わせたのですが、「歴史的根拠はない」そうです。おそらくそんなことだろうとは思ったのですが、一応電話だけはさせていただきました。楽しい想像が生み出した本銅鑼焼き物語ですが、ちょっと底が浅過ぎです。不勉強丸出しです。安土桃山時代の自由貿易国際都市・境については、このあたりの住民である私どもは、もう少し自覚的でありたいものです。これは仁徳天皇陵などのユネスコ遺産の保存についても言えることではないでしょうか。市も市民も境の文化財産とは何なのか、その保存、享受とはどういうことなのかを詰めてみる必要があります。
 さて、境が、かつて自由貿易都市として栄えていたあの時代は、たくさんの優れた人物たちが活躍しました。その一人がご存知の千利休(1522〜1591)であります。
 一方、私は、歴史上あまり目立ちませんが、薬種業を営んでいた小西家に深い関心があります。境区宿屋町東一丁には邸宅跡の石碑も残っているキリシタン・カトリック大名・小西行長(1555?〜1600)は、豊臣秀吉の重臣として活躍して、やがて文禄・慶長の役(朝鮮侵略戦争)では、熊本の加藤清正と先陣を争った好敵手でもあったことはご存知の通りであります。みなさんにとっては、遠藤周作の小説の方が馴染みが深いことでしょう。
 が、その遠藤が取り上げなかった当時の朝鮮人女性「おたあジュリア」と小西行長は、その人生の上であまりにも深く結びついているのです。境の歴史と関係がありますので、もう少し我慢してお聞きください。
 あの朝鮮侵略は、晩年の秀吉が東アジアの覇権の悪夢に囚われた破局の始まりであり終わりであります。皆さんは、佐賀県の名護屋城址を訪れたことがありますか。秀吉の欲望そのものの夢のあとです。玄界灘に突き出した広大な城址は、まさに地球は丸いを地で行く地政学的位置を占めていて、まっすぐ目の前に朝鮮がありありと見えそうな錯覚に陥りうです。現場に立ったら、うわああ、と絶叫しそうなほど、海と半島がありありと幻視されそうな、危ない誘惑に満ちたところなのです。いわば四十日間悪魔に誘惑されたあの曠野の山に立ったような所が名護屋城跡なのです。
 怒涛のごとく朝鮮に押し寄せた日本の軍隊は、李朝朝鮮を圧倒した。鉄砲の出現だった。
勢いに乗った秀吉軍が兵壌近郊で捕縛した朝鮮女性というよりは少女がいました。日本に捕虜として連行された結果、小西行長が手元においてカトリックで育てたのが、「おたあジュリア」です。朝鮮名は永久に知られていない。
 ご存知のように、小西行長は、1600年の関ヶ原の役で石田光成の側について捕縛され、京都の三条河原で斬首されました。キリシタンとして覚悟した上での最後であったようです。
 ジュリアは、その後家康の目に止まり、1604年、家康の奥方の御物仕えとして召し出されて、伏見、駿府の両城で仕えました。この時代にジュリアは、宣教師たちと連絡、交流を持っていた。やがて一九一七年、切支丹禁教令が出されると、ジュリアは棄教を拒んで、その結果伊豆七島の神津島に流刑となった。
 さて、1960年代以降は、ジュリアの神津島殉教伝承が盛んになって、ジュリアの墓という石塔まで特定されて、日韓のカトリックの合同ミサであるジュリア祭が毎年五月に催されるにまで至っている。
 が、一方では、イエズス会のバシェコ神父の書簡によれば、1619年、ジュリアはすでに同島を離れたらしく、大阪でイエズス会から経済的援助を受けていたらしく、1622年頃にはさらに長崎へと移ったようである。
 となれば神津島のジュリア祭は、資料的背景を失ってしまうのですが、その辺は、どのように受け取ればいいのでしょうか。キリシタン禁教令下の長崎での苛酷な苦しみを甘んじて隠れキリシタンとして歴史の海に消えていったと考えるのが妥当なのか、神津島の人々と共に暮らしの現場を築いていったと考えるのが自然なのか。みなさんは、どう思われますか。どちらの道であれ、厳しい現実であったことでしょう。
 さて、今日のテキストは、箴言25章2節のみです。

 ことを隠すのは神の誉れ
 ことを極めるのは王の誉れ

 これだけです。箴言とは漢字の字ずらから、想像できるように、あの刺すと痛い針という文字を想像します。
 箴言は、旧約の中では、知恵文学といわれるグループで括られています。すなわちヨブ記、コヘレト(伝道の書)、箴言であります。この三つの書の名前を聞いただけで、うん、そうか、と何か思い付く人もあるでしょう。何かとは何か。暗いなという気分的な反応もあるでしょう。そうです。苦悩について、と言えばいいでしょう。人生には、なぜ苦悩が付きまとうのか。私だけになぜ、こんなに苦しみが、なぜ、となりやすい。
 私という個人に降りかかった問題はそれだけで100パーセントの出来事になってしまうのです。
 「私だけがなぜ」は、じつは客観的普遍性がありません。そしてこの苦悩は、どんな分析に対しても納得しようとしない。精神科の医師の分析であっても受け入れたくない。ということは処方箋なし、です。
 東日本の悲惨な地震災害に対して、「なぜ神は」と問うジャ―ナリズムに対して、あの気仙語の山浦玄嗣医師は、「なぜと問うな」と答えました。味わい深い答です。神に問えば答えてくれる、そんな自動発条仕掛けの神なんて、私どもには不要です。
 もう一度、読んでみます。

 ことを隠すのは神の誉れ

 理路整然と追及して、ものの本質をそこから導き出すのが、一般的に学問的道筋というものです。これは優れた王の政治学でもあります。すなわち「ことを極めるのは王の誉れ」なのです。そのためには多くの学者にも協力してもらう。 

 さて、神はひとりひとり人間の苦悩を知らないはずはありません。義人ヨブの苦悩がなぜ書かれたのでしょうか。義人ヨブが、最後に突然、塵、芥でしかない自分を認めたことを思い出してください。あるいはコヘレトの「太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう」を、思い出してください。
 「なぜ私がこんな苦悩を」は、貴重な問いではあります。が、答えは帰ってきません。
 神は、とうにご存知なのです。私ども一人ひとりの苦悩を。ただし、その問い「なぜ」には直接答えてはくれません。見ておられるのです。事の本質を隠しておられるのです。それこそ「なぜでしょうか」。 それは、人が自分の人生をどれほど深く把握できるかを見ているのです。そして、いつかは分かりませんが、自分の存在が塵・芥に過ぎないと心の底から自覚した時、初めて神の偉大さの前に顔を押し付けて、懺悔できるのです。それが義人となることでしょう。そして人生の奥深さ、神の支配の凄さを実感するのです。
 話を戻します。これは、資料がないので私の想像に過ぎません。おたあジュリアは、きっと長崎の隠れ切支丹に迎えられて、どこかの小さな島に逃れ住んだことでしょう。その間、ジュリアは、自分の人生を嘆いて絶望的になったことはない。あらゆる苦悩を乗り越えて、神の恩寵に包まれ、切支丹弾圧のなかで、そこに生きる喜びを常に見出していただろうと思うのです。その人生を文字に残して記録する必要も感じていなかった。それでいいのです。あの長崎のどこかにおたあジュリアの祈りは、いまも聞こえているのかもしれません。
 王のようにことが分かったら、すべては解決するでしょうか。個と個、集団と集団、国家と国家の間の利害と調和を図る政治で、世界の現実は解決するでしょうか。答えは、「はい」そして「いいえ」であります。政治的視点だけでは、人間の苦悩は解決しないのであります。そこに神と関わる信仰の領域があるのです。
 神の支配は、戦争や平和を含んで、そのうえで全宇宙の支配と運航を司っているのです。
そうでなければ、「天にまします神さま」という呼びかけは意味をなしません。
 私どもの苦悩は続くでしょう。明日も。にもかかわらず、元ハンセン病者が今日も瀬戸内海の島で祈りを奉げています。
 私どもは、もう一度、ていねいに旧約の中の知恵文学を読み直してみましょう。
 私どもの人生は、私中心に動いているのではありません。他者との関係性の中に展開しているのです。最大の他者が神さまなのです。
その事実を認めた時から、生きていることの意味が異なってくる。一番驚くべきことには、知恵文学が立体的に迫ってきて、そこから、

 ことを隠すのは神の誉れ

という聖句が飛び込んでくるのです。
おたあジュリア信仰を貫いて生き抜いたように、あるいは気仙沼の山浦玄嗣医師がおっしゃったように、苦悩の中にあっても「なぜ」と問うことなく、今なすべきことを社会的であれ個人的であれ、大胆に実行していくべきなのです。苦悩は私が忘れようとしてもぴったりと張り付いてくる、そんな苦悩を抱えながらも、なすべきことをなしていく。そんな動いている私どもを神さまはご覧になっているのです。

 ことを隠すのは神の誉れ

 とは、そんな厳粛なカッコいい神様なのです。
 大胆に動き、大胆に働く土師教会になりましょう。
 祈ります。
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