行動する言葉
ヨハネによる福音書1章1〜3節
 日本人の場合、一般的に、自分の家の庭にほしいものは何でしょうか。家、庭、と書いて家庭と発音します。それくらい庭には愛着があります。ここ土師の場合、旧家でなくても敷地に余裕がある家が多いのが目につきます。庭にプールや運動場がある家は例外でしょう。土師では、広い狭いに関係なく、ほとんどの家には、植物が植えられています。野菜、花、灌木など。植物に共通なのは、葉っぱがあることです。毎日花や木をじっくり見詰めている人はいないでしょう。が、何気なく何となく、台風などが来るときには、しっかり空と花木を見詰めるものです。空の走る雲の動きが気になるものです。そんな時、花木の枝にしがみついている葉っぱをじっと見詰めますね。とくに日照り、土砂降り、雨風、雪のときの葉っぱの表情は喜怒哀楽がじつに豊かであり、人間にそっくりだなあと思った時があるでしょう。そうです。葉っぱたちは、泣き笑い、叫び、怒り、悲しむのです。
 ということは、花木は言葉を持っているのではないでしょうか。
 言葉を漢字で書くと、言語の言と葉っぱの葉です。言語は葉っぱなのです。事柄の葉っぱが、「ことのは」すなわち言葉です。原始時代の日本人は、おそらく自然の中でのの草や木の葉っぱの動き(表情)を見ていて、言葉の概念を身に付けたに違いありません。
 やがて、中国で漢字が発明されたことは、世界文明を築いていく大きな原動力になったのです。そこから日本人は、大和言葉と漢字を両方生かしていく方法、訓読みと音読みの二本立て興行を覚えたのです。たとえば。誠実の「誠」とかいて「まこと」と読ませて。「言葉が成る、つまり言葉が現実になることを「まこと」と結びつけたのです。
 このことと、「創世記」は、遠く通いあっていると思いませんか。
 ついでに言うと、事故で重傷になった時、救助隊はみなさんを助けだして、まだ意識があれば必ずまっ先に名前を聴くでしょう。どこの誰であるのかがそこを手掛かりに分かっていくのです。名前は、一人ずつ付いています。受験番号などは、所詮一過性の記号にすぎません。名前は一人ずつの人格と結びついて生きている歴史なのです。かけがえのないオンリーワンの私ども一人一人なのです。
 さて、今日のテキストは、有名なヨハネ福音書の冒頭ですが、分かったような分からない謎々のような箇所ですが、どことなく分かるなあという気もしませんか。
 創世記の始まりは、まさに神の言葉通りに「光」をはじめ、宇宙から地球までが造られていきます。言葉は旧・新約聖書の主役ではないかと思われるくらい頻繁に登場しているのです。
 固有名詞の名前からお分かりのように、言葉は数限りのない経験を重ねて生きているのです。さらに数限りのない記憶を重ねて生きてもいるのです。高齢者であれば、たとえば「シベリア」という地名が単なる地名ではありません。文豪ドストエフスキーが流刑されて送りこまれた極寒の地、あるいは、ロシア革命の時に、ロマノフ王朝の最後の皇帝一家が虐殺された地名として、あるいは敗戦後、七〇万人の日本人兵士が抑留された暗黒の地として記憶されているのです。それは「シベリア」という言葉の経験と記憶なのです。
 ところで、私どもキリスト者には、「ガザ」や「ダマスカス」という聖書に登場してくる地名にも同じことが言えます。まさに言葉は、生きています。
 多くの文学者が、ヨハネによる福音書に魅了されて、共鳴していますが、問題もあります。文学者各自が勝手に「言」を解釈しているのです。それでは、聖書本来の意味が見えてはきません。
 聖書では、「言」 たった一文字の漢字のみです。そこにルビ「ことば」が振ってあるだけです。言語あるいは漢字二文字の言葉とは異なっています。これは、私どもの常識的な理解とは違うものを指しているのです。ギリシア語の原文では、「ロゴス」ですが、それで分かるわかるわけではありません。面倒ですが、いちおう某神学事典の説明を紹介しますと、「ロゴス」とは、「実体化されて世界を支配する理性」となっていました。
 要するに、この世界を支配している根源的な存在のことだと思えばいいらしいです。
 そこまで言われなくても分かるよ、つまりイエス・キリストがこの世に突入してくださったことだ、と、みなさんは正解するのです。
 その通りです。ギリシア哲学に多分に影響されているこの福音書記者は、なかなか味わい深い文体で、福音の本質を表現したのです。
 ルビ付き「言」は、ですから人格を伴って生きているイエス様のことなのです。
 人格を伴ったイエス様の行動すべてが言の経験と記憶であり、それらが聖書として私どもに提供されているわけです。しかも世界各地の言語に訳されているのであり、ありがたいことです。イスラム教では、正しい正典は、いまだにアラビヤ語しか認めていません。私どもキリスト者は、世界各地の言語それぞれの中に神のご意思と御心が宿っているという視点に立っている。これは大胆な視点なのです。
 文学的な視点に立てば、作品の翻訳は、本質的に不可能であるという意見の方が多数派なのですが、キリスト教は、そういう視点には立っていません。
 そうではなくて、全世界の主である神は、すべての言語と文化を貫いて臨在されておられる。キリスト教は、原始キリスト教の出発時、すでに多言語、多文化の中に入っていった。それを国際的普遍性といってよいはずです。
 冒頭の「初めに」とは、どういう意味でしょうか。「初めに」の前、すなわち初めの前はなんと表現すればいいのでしょうか。これは、1、2、3、4と続いていく初めではなくて、「初めに」の前を持たない初め、すなわち絶対的初めなのです。つまり神の永遠性と唯一性とにおいて始まっているとしか言い表せないものなのです。そこに言があったというよりは、言が神であったというのです。
 言葉が記号化して、意味さえ通じればそれでいいという言語道具説を真っ向から否定する立場がキリスト教なのです。何度も繰り返しますが、言が人格を伴っている、否、言が神の人格そのものなのです。そういう力ある言、人格である言を受け入れる時、信仰告白が真実性を持つのであり、そこに、「主の祈り」や「使徒信条」が成立したのであります。
 これらは、口に出して唱えて初めて祈りになり、信条になるのです。これらを通して、全能の神を信じる時、生きるのも死ぬるのも主のためであり、全存在を司る神への信従がほんものになるのです。その神への畏れと献身が立ち上がってくる。
 
 みなさんが知っているキリスト教詩人の八木重吉のあまり知られていない詩に、全身を投げ打って信じる、主への深い畏れをうたった詩があるので、紹介します。

    断章
  あるときは
  神はやさしいまなざしにみえて
  わたしをわたしのわがままのまんま
  だきかかえてくれそうにかんぜらるるけれど
  またときとしては
  もっともっときびしい方のようにおもわれてくる
  どうしてもわたしをころそうとなさるようにおもえて
  かなしくてかなしくてたえられなくなる

 こういうぎりぎりの地点での信仰表現にして、初めて、信仰について考え直そうとする契機が生じてくるのです。八木重吉という詩人は、無垢の信仰を貫きながら、同時に、この詩にも出てくるように、「かなしみ」を実感している。ここがキリスト教世界を超えて多くの日本人に読まれている理由の一つなのです。「かなしみ」を恐れてはならない。
 神への畏敬と信従、それと共に襲ってくるが「かなしみ」です。重吉の「かなしみ」は、例外を除いてほとんどの場合、平仮名表記の「かなしみ」です。しかも八木重吉の場合、かなしみには、「愛しみ」があります。平仮名のニュアンスは、繊細で奥深い。大和言葉の曖昧さを同時に語っていますが、その辺りの微妙さが大切なのです。
 さて、八木重吉の詩は、弱弱しく見えていながら、強靭な意志で貫かれています。
 大和言葉の微妙な陰影を、使いこなしているのが八木重吉の詩だろうと確信します。それは、一見弱弱しくみえながら激しいのです。この詩の山は後半ですが、「どうしてもわたしをころそうとなさる」、なんと物騒な過激な詩でしょうか。が、この激しさが前面に出てくることによって、八木重吉という詩人の信仰がまっすぐに迫ってくる。重吉の信仰の本質は、その過激さにあるのです。
 私どもキリスト者は、信仰を口にのぼせて、確認するのです。だから信仰は、言葉である。それはなにも着飾った言葉である必要は、ない。とつとつとしていて、心が籠っている。これに尽きるのです。もう一度、八木重吉の断章を読んでみましょう。

  あるときは
  神はやさしいまなざしにみえて
  わたしをわたしのわがままのまんま
  だきかかえてくれそうにかんぜられるけれど
  またときとしては
  もっともきびしい方のようにもおもわれてくる
  どうしてもわたしをころそうとなさるように思えて
  かなしくてかなしくて耐えられなくなる

 今日の題目は、なんと「行動する言葉」です。が、それは何も格好よく振る舞うことではありません。言葉そのものが、深々と呼吸しながら、周囲の共感を集めて立ち上がることなのです。
 さあ、自分に出来ることから始めようではありませんか。具体的には、どのようなことをすることでしょうか。堺市の土師町の土師教会に連なる会員として、主のみ心に従って行動を始めなくてはなりません。それは差別と人権に関わる領域の諸問題であります。具体的には、一、被差別部落の問題であり、二、在日の問題であり、三、釜ケ崎の問題であります。これらが抱えている諸問題と、福音に照らされて、取り組んでいくべきです。
 さあ、一歩もう一歩、前へ前へ進んで行きましょう。 祈ります。
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