何を建てるのか
列王記上 5章27〜32節
 大晦日、紅白歌合戦をわいわい言いながら見なくなってから、もう三十年以上が過ぎただろうと思います。子供たちが大きくなったからです。目まぐるしく変わる唄についていけなくなったからでもあります。
 が、今度の大晦日は変りました。息子夫婦が初めて泊まりに来たからです。わたしの就任式で遭った方もいらっしゃることでしょう。自称相撲レスラーです。彼はもう45歳、映画・芸能界で活動しているので、紅白にも関心が大いにあるらしく、私たちと話していたかと思うと、さっと日本間に行って、テレビを見詰めては、「まあな」とか「少しはましになったな」とか言っていました。
 息子の映画論やマスコミ論が分からなくて過去十数年ずいぶんすれ違ってきました。今回は少し分かりました。日本や東アジアの若者たちのひ弱さを嘆いて、どうにかしてやりたい、自分にできることは何だろうと、彼が考えている極めて具体的な計画を教えてくれたりしました。例えば、日本、韓国、中国の若者たちを共同生活させて、暮らしの現場でいろいろしゃべらせるところからお互いが異質な存在であることに目覚めさせること。そこから共に生きるとはどういうことかと考える場所へ行きつかせることだ、と話してくれました。
 父であるわたしの思想的、政治的、芸術的立場をよく知っている息子ですから、戦後民主主義教育で育った私たちの限界、欠点、弱点がどこにあるかを鋭く指摘して、この体力を失っている現状をどう建て直していくのかを彼なりに情熱的にしゃべってくれました。世界全体の危機の乗り越え方を考え取り組んでいく大人になったのだ、と感慨深いものがありました。
 翌日の南海地区の元旦合同礼拝には、夫婦で出席してくれて、教会学校で育ったので云々と挨拶をして、キリスト教、もっとがんばれよと応援してくれました。
 彼は、青山学院大学に入学した一年生の前期、大学のチャペル礼拝を欠かさずに出席していましたが、夏休み前に出席しなくなりました。理由は、大いに期待していたが、大学の先生や牧師らが学生の問題意識を全く掴んでいない、噛み合うものが何もない、ということでした。結局彼は、体制に抵抗し反抗する映画を撮るようになりました。
 時代を担っていくそして切り開く、即ち時代を建てていくことは、私どもの永遠のテーマです。
 今日読んでいただいたテキストをご覧ください。ダビデに継ぐ、ソロモンは、イスラエル王国のもっともすぐれた王として記憶されています。そのソロモン王が建てた神殿(神の住まい)と宮殿と家族の住居について、それらの壮麗な建造物を、どのように建てたのかが五章から七章まで、事細く書かれています。宮殿だけでも十三年掛けているのです。
 5章27節をご覧ください。「ソロモン王はイスラエル全国に労役を課した。そのために徴用された男子は三万人であった」とあります。ダビデ王の願いであった神殿建造物をとうとう実現するのです。
 ただし、これはイスラエル史上初めてのイスラエル人の徴用であり、しかも強制労働なのであります。「徴用」とは、辞書によれば、「国家権力により、国民を強制的に」動員し、一定の業務に従事させること」であります。さらに、ここでの「労役」は、「石を切りだす」労働者が八万人と書いてあります。はたして人々は、王と国家のために喜んで奉仕したのでしょうか。書かれた当時の歴史的背景を考えるならば、これは過酷な強制であったと判断するのが妥当だろうと思うのです。いくら知恵にすぐれ、その統治力と国家の繁栄があったとはいえ、国民を強制労働へと駆り立ててまで、実現する神殿、宮殿、住居建設にはどういう意味があったのでしょうか。この住居がじつは問題です。列王記3章の冒頭531頁上段をご覧ください。「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ、宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待った」とあります。  
 548頁に飛びます、下段の11章1節から、「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した」。 2節、「これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、『あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らは必ずあなたたちのこころを迷わせ、彼らの神々に向かわせる』と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった」とあります。
 もともとイスラエル民族の歴史に於いて、唯一神教と多神教との争いは、深刻なものがあったのです。イスラエル民族が唯一神教を確立するまでは、たいへんな宗教的葛藤の積み重ねがあった。聖書は、このことを男女の結びつきの中に入り込んでくるものとして捉えています。人間が陥る誘惑の罠の一つです。その妻たちとの住宅の建設も労役の中に含まれていたのです。
 現在の私どもが批判するのは、たやすいことです。なぜなら痛くもかゆくもないからです。そうではなくて、あの偉大なソロモンが持っていたもうひとつの顔(弱点)をどう受け取るかという問題なのであります。
 それよりもずっと前、モーセが神の幕屋を建てようした時はどうだったでしょうか。出エジプト記35章、開かなくて結構です。その4節以下の小見出しは、「幕屋建設の準備」です。20節、「イスラエルの人々の共同体全体はモーセの前を去った。心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えてきた」とあります。その結果については皆さんもご存知です。この二つの記事の共通点は、神の住まいの建設でありますが、大きな違いは、幕屋の場合は、人々が進んで捧げていますが、ソロモンの神殿建設は、強制労働であり。住居建設も含んでいます。これがのちの王国分裂の遠因(遠い原因)にもなっていくのです。
 またしても繰り返される神の選民による罪、すなわち背信の始まりなのです。人間の弱さと愚かさが見事なくらい正確に描写されているのが、旧約聖書なのです。
 しかし、神殿が完成した後のソロモンは、立派です。8章22節を紐解けば、「主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、祈った」。27節、「神は果たして地上にお住いになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。/略/どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください」と祈っているのです。ソロモン王は、神がどこに住まわれているのかを十分に分かっているのです。政治的宗教的権威を見せつけるために神殿を宮殿を住居を建てたのです。これほど人間の本質をむき出しにするのが地上の王たちであり、皇帝たちであります。
 それを見抜いているイエスさまは、だからこそ、「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と神殿の崩壊を予告されたのです。ということは、神殿という建造物が究極の目的ではないことの宣言であります。あるいは、ソロモンに対しても、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と。神殿の目的は、神と人間との直接的な交流の場なのであります。
 ですからかならずしも壮麗な建造物である必要はない。プロテスタント教会が総じてシンプルで厳粛な建築であることはこういう意味合いがあるのです。新島襄は、同志社の建造物がしだいに立派になっていくことを警戒して、設備ではなく、良心が全身に充満した丈夫が起こり来たらんことをと書き記しています。
 壮麗な建造物を建てるのかが目的であってはならない。土師教会もそろそろ教会堂の全面的改築を考えなければならなくなりそうです。が、それが目的であってはならない。
 あらためて考えてください。教会とは、建造物のことでもありますが、それが究極の意味ではありません。あくまでも信仰共同体のことなのであります。それもイエス・キリストの体であると告白する信仰共同体を意味しているのであります。神さまとの直接交流をする現場なのです。私どもの場合は、この土師教会の建物がその現場でありますが、土師教会は、日本キリスト教団という教会の枝の一つなのです。ですから伝道師や牧師は日本キリスト教団教会の教職であって、土師教会という個別教会の会員ではありません。さらに、付け加えますと、世界中の個別教会は、イエス・キリストがお建てになった見えない唯一の教会の枝なのであります。この事実を受け入れれば、全被造物の管理を委ねられた私どもの、地球と宇宙に対する責任がはっきりと見えてくるのです。
 神殿を建てる、教会を建てるというほんとうの意味は、見えない唯一の教会に連なって、イエス様を救い主であるという信仰告白をする共同体になるということであります。
 だから、私どもは、日本や韓国、米国などという地上の国籍ではなく、国籍は天にあると確信しているのです。
 教会を建てるのは、目に見える次元では、私どもですが、ほんとうの施工者は神さまなのです。神さまを愛し、神さまに愛されて生きる喜びを打ち建てるのが教会であります。
 土師教会が83年の歴史を生きてきたほんとうの目的は、この地に神と人間を結ぶ垂直軸と人間社会の水平軸が交わる十字架の救いを伝えることであります。言うは易し、行うは至難の業ですが、この至難の業に身を投じなければ、伝道しているとは言えず、イエスさまの証人とは言えない。教会に十字架が建てられている意味は、ここにあるのです。
 最後にもう一度言わせてください。伝道しつづけることが教会を建てることであるのです。
 祈ります。
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