新しい天と地
ペテロの手紙2 3章12〜18節
 おとつい、2012年12月28日(火)、一ヶ月以上、生駒のアトリアに行っていませんでした。妻と私は、この日久々にアトリエを訪ねました。農口靜子姉の葬儀、続いてクリスマスの諸行事が続いて、ゆっくり休める日がありませんでした。妻も眼科医、背骨の治療、家庭裁判所の調停などでスケジュールが詰まっていて、一杯だったのです。アトリエのある生駒市松美台は、なんといまだにトイレの下水水道が敷設されていない。40年ほどまえに開発された頃は、山を切り開いた最先端の豪壮な住宅団地だったことと思います。が、トイレはどうしていたのかと言うと浄化槽が一軒ずつに付いていて、汚水が三つの浄水装置を潜り抜けてきれいになる仕組みになっていて、年に二回汲み取るシステムなのです。想像つくでしょうか。上下水道施設が普及していない開発途上国からの見学が絶えないそうです。欧米からも、経済的で衛生的なこの施設を見学に来る機会が多いとのことです。
 が、時代は急速に変わりました。松美台も汚水専門の下水道施設を整えることになり、わがアトリアも共同で行うこの企画に加わることになった。もう日程の余裕がない。日帰り、とんぼ帰りの数時間の滞在でした。おとついは、生駒は朝から冷たい雨でした。全国的に低気圧、寒波が押し寄せて来て、冷蔵庫の中にいるような真っ昼間でした。アトリエの庭にある帝王ダリアは、いっぺんに霜枯れて、というより凍死状態、真っ黒でした。生駒山の天辺辺りには雪雲が覆っていて、ぞっとするほど寒いのです。下水道工事について班長さんにお伺いしてから駅に戻りました。この黒白の寒々しい光景は、東日本の三陸海岸地方の風景に似ていると思いました。あの大震災と福島原発の放射能事故は、あまりにもなまなましい現実です。総選挙が終わったら、原発問題などなかったかのように利害のみの醜い政党間のいがみ合いがまた始まりました。が、首相官邸前での、脱原発を叫ぶデモは少しも衰えていません。日本は、分裂してしまったのです。大震災を忘れてしまったかのように流れていく大きな流れと脱原発を目指して文明の質的変換を志すうねる流れとに。
 こんな無様な日本の中で、年の瀬に立たされた教会は何をしたらいいのか。はっきりしています。この東日本の現実を心に刻み込んで、荒廃した日本の大地に立ち尽くす地点から復興への歩みを続けることであります。この時の心の在りかを今日のテキストから少し学んでみましょう。
 では、今日のテキストをご覧ください。
 ペテロの手紙は、著者はペテロ、原始キリスト教の使徒たちの代表者のあのペテロとなっています。が、これは代表者ペテロの名前を借りた偽文書です。偽文書だから意味がないのではない。ペテロが書いたと記すことによって、この手紙に聞き従うことが求められているのです。おそらくペテロは65年ごろ殉教したという伝承が有力ですから、使徒たちは、この頃、もう、使徒たちは一人も生きていないでしょう。にもかかわらず使徒ペテロの手紙として読まれたのであります。名前とはそれほど重い。アジア(現在のトルコ)あたりのどこかで、ペテロを師と仰ぐ誰かが執筆したのです。
 主の身体である教会を受け入れ、主に繋がる葡萄の枝として信仰生活を押し勧めているにもかかわらず、教会の内部には信仰上の大きな揺れが生じてくる。この世から選ばれた聖徒でありながらも、この世の価値観に呑み込まれそうになる、あるいはのみ込まれている事実に気が付かないのが私どものあるがままの実体なのではないでしょうか。だからこそ再び使徒ペテロの名をもって警告する必要がある。忠告し、勧告し、立ち帰らせ、主の身元に、帰って来させなければならない。どの時代においても信仰に迷いが生じるきっかけがあります。けれども心の中の迷いを口に出して相談するならば、誰かがきっとその迷いに答えてくれるでしょう。そのために信仰共同体があり、共同の信仰告白があるのです。  
 と言えば、ひとまず安心してほっとするのですが、やっかいなことに、その信仰共同体の中に偽物の教師があるいは信仰を否定してくる邪悪なひんまがった偽信者が混じっていることがありうるのです。麦畑に侵入してきた毒麦です。 
 2章の小見出しは、「偽教師についての警告」とあります。冒頭第1節「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」。 2節「しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです」
3節「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします」
 ここまで真っ向から非難の言葉を重ねてくるのは、ただならないことです。気を付けるべきことは、彼らは、預言者や教師の仮面を被っているのです。教える側の者として私どもの中に混じっているのです。それらの偽者をどうしたら見破れるでしょうか。だれにでもできるノーハウ、撃墜法なんてあるはずがありません。執筆者は、パウロの偉大な手紙に付いてさえこう言っている。16節の2行目、「その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」と。
 では、ほんとうにどうしたらよいのでしょうか。「心の定まらない人」という言い方に注目しましょう。信仰はじっくり考えることを要求しますが、単なる知的好奇心を満足させようとするかぎり、なんらの信仰的深まりはなく、疑問はいっそう深くなっていくばかり、つまり「心定まらない」ままで、救いは訪れないでしょう。
 ここの二年間近く私は、論理的論理や知的好奇心だけでは絶対に信仰の確信を掴めないと強調してきたつもりです。そこを突破するものは何か、といえば、14節がヒントです。2行目、「きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」。 ここです。日常生活の中で一番苦しむのは他者との関係性から生じる心の歪みではないでしょうか。そこでは、きずや汚れから潔白であることは不可能なのであります。というよりもそれがあって当たり前なのです。イエスさまがおしゃっていることはそういうことではありません。この現実で傷付いていても、汚れていても問題ではない。たとえ刑法上の犯罪を犯しても関係はない。この世俗世界で犯罪者として裁かれてもなおかつ許されている、という次元で、あなたは赦されている。あなたは贖われているのだとおしゃっているのです。
 これはどういうことでしょうか。じつは単純なことなのです。まったくの無垢な信仰、ひたすらなイエスさまへの信頼、一切を神さまに委ねて生きるということなのです。
それが、「きずや汚れが何一つなく」なのです。見える世界と見えない世界という二つの世界に生きている私どもでありますが、この二重生活者の苦悩を一番理解して下さっているのがイエスさまなのです。続く「平和に過ごしている」もそうです。疑い、惑い、不安、不信、下心、あらゆる弱点を抱えた満身創痍のこの私どもが、他者と平和に過ごしているはずがありません。自分の力に頼っているかぎり死ぬまで平和を獲得することは出来ないでしょう。イエスさまが私の内部に宿ってくださり、赦してくださったから、私は、他者にもイエスさまの御名によって赦しますと言えるのです。そして少しずつ少しずつ前に進んでいることを、14節の3行目のように、「神に認めていただけるように励む」のであります。
 さあ、3章の前半に戻ります。10節「主の日は盗人のようにやってきます」、 それは何時か誰にも分からない。これは約束なのです。誰ひとり滅びることのないように忍耐をして人間の歴史を見詰めておられる神さまは、突然やってくる。遅延(すなわち遅刻)してわけではない。千年が一日のような神の時間感覚を私どもが分からないだけです。ということは、毎日毎日を聖なる信徒として過ごすことが喜ばしい義務なのです。いついらしても良いのです。主の日こそ、この世の欲望の一切が焼き払われ、天地が崩れ去る。それがどのようなものであるかは分かりません。私どもが分かる、描ける世界はみな崩壊するということなのです。そこから、まったく新しい天と地が開ける。その新しい天地は、13節2行目「義の宿る新しい天と地」なのです。
 一体どの哲学や思想や宗教に、このような表現や思想が表明されたことがあるでしょうか。ここで義とは何かと論じる必要はないでしょう。義こそイエスさまが打ち建てた最大のテーマなのであります。
 明日は、大晦日です。この暗い世界、ますます混沌としていく世界ですが、だからこそイエスさまが私どもの歴史の只中に突入してくださった事実に感謝せずにはいられないのです。神さまは、私ども一人一人がこの世界を委託された存在として、どう行動していくにかを忍耐しながら見守っていらっしゃるのです。
 最後に17節を読んでみましょう。
「愛する人達、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい」
 祈ります。
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