もう行きなさい
ダニエル書17章7〜13
 先週12月2日、待降節第一主日礼拝の後、
 河内吉明・敦子ご夫妻のご案内で、壺阪寺が経営する第二慈母園、特別養護老人ホームを訪れました。奈良県斑鳩町の藤木古墳の近くです。寒くなりそうでした。
 森ユワノ姉は、わたしどもに会えるというので手ぐすね引いて、待っておられたようでした。枕元の左側に教会が贈ったラジカセが置かれていて宣教のCDを聴いていらっしゃるのが分かりました。堰を切ったようにいろいろな話があふれて来ました。関東育ちの彼女が大阪府下に嫁入りしてからの様々の苦労話から始まって、生まれた子こどもたちとのやりとり、ご主人の家の家風や慣習、その中での葛藤、やがてどんなきっかけで信仰に導かれたのか、田中通世牧師夫人が土師バス停留所まで迎えに来てくださったクリスマス・イヴが教会に初めて足を踏み入れた日だったそうです。そして教会の近況に触れて、中島髑セ長老の、会計をはじめとする献身的なお働きに感謝していると述べられて、病院での経過を聴いてくださり、気遣ってくださいました。ほとんど一人で喋り続けて一時間半、さぞお疲れになったことでしょう。それとともに私どもの教会の兄弟姉妹のつながりを固く信じて、お喜びになっているのがありありと感じられました。CDで、礼拝で全員が歌っている声が聞きたいという意味がよく分かりました。礼拝での一体感を味わいたいのです。クリスマス礼拝での録音ができたらどんなに喜ぶことでしょう。
 もうひとつ教わったことがあります。人里離れたホームの中にいるとコミニケーションが限られてしまうので、ちょっとしたことが針小膨大な話になって、思わぬやっかいな災いの元になりやすいようです。ユワノ姉は、賢明ですからそんな付き合いを避けておられます。その代償として孤独を強いられてもいるようです。しかし、キリスト者としての深い自覚を抱いていますから、教会の信仰共同体の枝として祈りつつ生活していますので、みごと、己を失わず、神さまの言葉を頂きながら暮らしているのが分かりました。感謝です。
 さて、そもそも孤独に耐えるには強靱な意志が必要です。孤独が孤立化と結びつくと大変なことが起こります。
 人間誰でも衝撃的な出来事に巻き込まれると、絶望して、真っ暗になります。あるいは頭がまっ白になってしまうこともあります。そこからなんとか脱出しようとするうちに、幻覚、幻聴が始まったりもします。
 聖書にしばしば登場する夢と幻は、幻覚、幻聴と、危うい関係にあります。幻は、本来は、神さまが与えてくださる、未来を見通す透視図なのですが、現在の幻覚、妄想に近いものもあり、厳密な区別ができませんが、そこから神さまのメッセージを読み取る賜に恵まれたのが預言者です。旧約の預言者の中には、今日の医学でいう統合失調症に当て嵌る人もいたようです。この幻を理解する鍵をどうやって手に入れるかが、今日の課題です。
 ダニエル書は、紀元前六世紀、バビロン捕囚の時代にダニエルというユダヤ人捕虜によって書かれたことになっています。が、実際には、紀元前二世紀の半ば頃に書かれたようです。依然として厳しい状況に置かれていたユダヤ人たちの苦難を捕囚期の苦難のイメージになぞらえて、そこにさまざまな幻が描き出されているのです。
 それらの幻は、やがて旧約聖書の終わりの方の黙示文学として纏められていったのです。が、ダニエル書は、まだ纏め切っていない生な生ましいワイルドなイメージが自在に展開されているので、その解釈も様々なのであります。今日は、その解釈を目指すのではなくて、その奥に一貫している問題があるのか、ないのか、そこに神さまからのメッセージを探ってみたいのであります。
 捕囚期にダニエルという人物がいたことは知られていますが、そのダニエルがこの書を書いたという証拠はどこにもありません。ただし、この書は、ヘブライ語とアラム語で書かれています。つまりこの書が捕囚期の作物だと思わせるための偽名を使った作物なのです。
 事実は、依然として続いていたユダヤ人の苦難の中での神を信じる信仰告白の文学であります。その表現方法の主役が夢と幻であるかぎり、謎解きは終わらないでしょう。
 この文学作品の筋書きは、荒っぽくなりますが、あえて纏めてみましょう。
 バビロンの都に捕虜として捉えられていたユダヤの優秀な四名の少年たちが、バビロニア帝国に仕えながらも、ユダヤ人としての誇りを失うこと無く、自分たちの信仰を守り抜き、神さまが見せてくれる幻の意味を説き明かすべく挑戦し続けるが、意識を失う時点まで行って、なお解明できない、という物語です。
 そこにしばしば奇怪な幻想的なイメージが出現してきます。最初は第二章、ネブカドネツアルが見た巨大な像の夢の解釈をするものがいなかったが、ダニエルが的確に解き明かした。これは、バビロニア帝国の権威と一層の繁栄である、と。夢の秘密を解き明かされた王は、喜び、ダニエルにバビロンの全州を治めさせた。
 第三章、その後、王は、金の像を造って、諸国の人々に、像の前にひれ伏して拝むように命じた。
 ユダヤの三名の若者が命令を無視して拝もうとしていないと進言する者が現れました。王は怒りに燃えて、この三名を縛り上げて、燃え盛る炉の中に投げ込んでしまいます。
 が、まもなく王は驚きの声をあげた。
 なんと、三名ではない。四名が燃え盛る炉の中で、自由に歩いているのを見たからです。「それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と王は言った。王が呼び掛けると無傷のまま三名の若者は燃えさかる炉から出てきたのでした。王は続けてこう言いました。「この僕たちを、神は御使いを送って救われた。/略/まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはいない」。 こうして王はかれらを高い位につけた。
 第5章、時代は移り、その息子のベルシャツアル王は、千人の貴族を招いて、大宴会を開き、エルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具を使って酒を飲み始めた。
 「その時、人の子の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた」。王は恐怖にかられて顔色が変わった。ダニエルは、その文字を解読した。父の深い反省を無視して、へりくだろうとしない新しい王にダニエルは、「あなたの王国は二分される」と断言する。
 第6章、ダニエルの権勢を嫉妬する勢力が彼を陥れて、獅子の洞窟に投げ込んでしまう。が、神が送った天使が獅子の口を押さえ込んだので一命を取り留めるのです。
 第7章、さらには、四頭の獣(けもの)の幻。それらは獅子のようであったが鷲の翼が生えていて、人間の心が与えられている。あるいは、熊のように横ざまに寝ていて三本の肋骨をくわえている。あるいは、というように異様なけだものたちの争いが報告される。
 第8章では、雄羊と雄山羊の戦いの幻が写し出されます。ダニエルの顔色が変わり、苦しめられ、病気にもなりますが、まだ終わりの時は来ていません。
 第9章、「ダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように70年という年数のあることを悟った。わたしは主なる神を仰いで断食し。粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した」。 そしてダニエルダニエルは、民族の神に対する背反の罪を告白した。
 が、第10章、終わりの時についての神の幻は展開し続けるのです。
 やがて、チグリス川の岸に立っているダニエルが見上げると、「見よ、「一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。身体は宝石のようで、顔は稲妻のように、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった」
 「その壮大な幻を眺めていたが、力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった」。
 ここまでダニエルが見た、聴いた幻の、その表面だけ追っかけてきました。あまりにも突拍子もないイメージの連続です。謎解きの名手ダニエルでさえ、ついには疲れ果て意識を失ってしまうのですが、なお、「わたしがおまえに語ろうとする言葉をよく理解せよ」と遣わされた者に命じられるのでした。その後に起こる最後の時の場面について語るのですが、ダニエルは辛うじて受け止めていきます。
 そして、最終の12章に入るのです。ここからが今日のテキストですが、なんと、その言葉は、4節、「ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう」。 ダニエルが、なお眺め続けていましたが、8節「こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と。その答えは、9節、「ダニエルよ、もう行きなさい」でした。
 みなさんは、ダニエル書を紐どいたことがあるでしょう。が、何のことか殆ど分からなかったのではないでしょうか。ダニエルがくたくたになるまで見続け、考え、意識を失ったほどの難問を、平平凡凡な私どもに分かる可能性は殆どないでしょう。
 総選挙を目の前にして、政党乱立、どこに争点があるのかさえ、見えにくくなっている現在、一方ではエジプト、シリアの危機があり、東アジアでは北朝鮮のミサイル発射が近づいているこの危うい時、じつはダニエル書は、沢山の謎解きの鍵を与えてくれているのに気が付くのです。ぜひ自分で紐どいてください。大国、周辺国の間の、戦争や権力抗争、駆け引きが書かれているのでびっくりします。
 
 ダニエル書は、じつは私どもが考える世界の終末のイメージであることが分かります。
 だからこそ主は言われるのです。「その時まで、封じて置きなさい」と。13節「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。/略/お前は立ち上がるであろう」。
 この最後の言葉をどのように受け止めるのかが、私どもに投げかけられた緊急の課題なのです。
 
 ダニエルは、世界の現在の不条理、そして将来を見通そうとして、くたくたになりました。私どもには、世界の本質とは何か、そもそも歴史とは何かをすべて見抜くことはできない。けれども、全力集中して夢と幻の意味を説き明かすことが必要な時があるのです。
 
 そんな私どもの必死な姿を見ていらっしゃる神さまが、「もう行きなさい」と言われる時、それは、「あなたはあなたのなすべきことに集中しなさい。そこで全力投球して、13節、「『終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい』」と言われるのです。これは間違いなく私どもの死を指し示しているのですが、安らかな最後を保証してくださっています。
あとは、任せなさい、と。
 
 13節の最後の「お前は立ち上がるであろう」は、あきらかに復活なのです。
 これは予言であり、命令です。
  
 主は言われます。
 「安心して行きなさい。
  そして前進しなさい」と。
 祈ります。
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