食事をした
サムエル記下 12章10〜23節
 もう師走に入ってしまいました。ゆったりと落ち着いて歩くはずの先生(師)さえ走る12月です。が、私どもキリスト者にとっては、待ちに待った待降節(アドヴェント)です。全宇宙を創造され、人間を創られた唯一の神さまが、罪に塗れてしまった人間を救うために一人子のイエスさまをこの世の時間の中に送ってくださった記念すべき誕生日がやってくるのです。
 どうして、いつまでも、繰り返し繰り返し、人間は罪に塗れてしまうのでしょうか。
 唐突なのか仕組まれたのか総選挙が面前です。原発をめぐって世論も政党も二分され、この問題と増税、福祉、外交、国防、憲法改正までが絡みついて、日本はどこへ向かおうとしているのか、ことに大阪府に居住している私どもにとっては、我が身に突きつけられた大問題であります。福島原発の事故に対する責任を取ろうとしない政府、電力会社、大企業の無責任さは呆れるばかりです。被災者の顔を見ようともしない、この傲岸を、これ以上、許すわけにはいきません。隣人とは何かを謙虚に考えたことのない政治屋に、貴い一票を投ずるわけにはいきません。
 先週11月26日(月)、堺市民会館で上演した「普天間」を観劇しました、本土(ヤマト)の都合で併合され、切り捨てられ、振り回されてきた沖縄の悲劇を、普天間基地を取り上げて問い直してくるリアリズム演劇でした。
 「基地問題って、福島原発と似ているのよね」って言う台詞に深く頷いて帰ってきました。
 同じ日本でありながら、引き裂かれているこの現実は、まさに根を同じくしています。そこにありありと罪が息づいています。これは被差別部落、ハンセン病、いじめ。みんな繋がっています。
 この暗い現実をどうしたらいいのか。寒さが日毎に増してくる戸外で、朝八時過ぎから牧師館を修繕してくれた若者を見ながら、考え込んでいました。どう立ち向かうのかを。
 自己本位の強欲な政治屋、電力会社、企業は、具体的な重い責任を取らねばなりません。一方、一般の国民である私たちにも責任があります。あえて一言で言えば、もう一歩突っ込んで知ろうとしない罪、考えようとしない罪です。
 さて、現在の日本が抱えている問題にも関わってくると思いますが、人間個人が犯す重大な罪が社会や国家にも深刻な影響を与えた事件を真っ正面から取り上げた物語が旧約にあります。あまりにも有名なダビデ王のスキャンダルです。スキャンダルというと、醜くてみっともないお話、でも他人事なので、覗き趣味を満たしてくれる、となりがちですが、そういう低レベルの問題ではありません。私ども誰にも襲いかかってくる、深刻な罪の問題なのです。
 みなさんは、すでによくご存知ではありますが、一応復習してみます。アンモン人との戦争の最前線に残された武将ウリヤが戦死する。が、これはダビデ王の陰謀であった。ウリアの妻、バト・シェバが夏の夕暮れ、沐浴している姿を見たダビデは、懸想したのであります。高まる激情を抑えきれずに美しいバト・シェバを獲得すべく、企てた陰謀が、優れた武人である夫ウリヤを抹殺することであった。アンモン人の手を借りて間接的な人殺しを実行したのです。それを知った預言者、神の代理人ナタンは、比喩を使ってダビデ王に迫ります。その話は、こうだった。「二人の男がいた。一人は豊かだった。もう一人は貧しかった。貧しい男は、一匹の雌の子羊を買ってきて娘のように可愛がっていた。ある日、豊かな男のところに客人が訪れた。豊かな男は、貧しい男の子羊を取り上げて、自分の客人に振る舞った」。 ダビデは、激怒して言った。「そんなことをした男は死罪だ」。 すかさずナタンは答えた。「その男はあなただ。ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした」。 主は、ダビデの家の中に悲劇が起こると断言された。
 ダビデは、13節「わたしは主に罪を犯した」と告白した。ナタンは、「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」。 この上ない厳しい裁きが下ったのです。15節をよく見て下さい。「ウリヤの妻が産んだダビデの子」と書かれています。依然としてウリヤの妻なのです。おそらくこの物語を纏めあげたのは申命記的編集者であったことでしょう。彼の目は、二人を正式な夫婦として認めていない。神の目で見つめている。死罪は免れても、苛酷な運命からは逃げられない。自分の良心をかけて尽くさねばならない。「その子は弱っていった」。 16節「ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした/略/彼らと共に食事を取ろうともしなかった」。 
 ダビデは主が下した裁きの苛酷さに震え上がった。私に死を与えて下さいと祈っただろうと思います。それが不可能と分かったとき、この子の命を助けて下さいと切願したに違いありません。食を絶ち、地面に横たわって、我が身を打ち叩いて七日間を過ごした。が、18節「その子は死んだ」。 
 家臣たちは、「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか」。 家臣たちもまた心労していたのであります。最後の「何かよくないこと」とは、もしお子様の死を知ったら、自害なさりはしまいかという不安を指しています。宮廷中がダビデ王を慮んばかっているのです。彼らの様子から察して、王は悟ったのです。我が子は死んだのだ、と。ダビデの罪を神さまがお許しになられたということは、その後に起こる苛酷な運命に耐える惠みをお与えになられたということしかありません。 旧約時代の人々は、ヨブ記にあるように、「密雲も薄れ、やがて消え去る。そのように、人も陰府に下れば もう、上って来ることはない」という徹底的な暗黒の死を覚悟することであったのです。
 さらにやがては、親子骨肉の争いの果てに息子アブサロムの訃報に接して、「わたしの息子アブサロム、わたしの息子」と大声で叫ぶ悲劇が引き起こされるのも、皆さんはご存知です。
 聖書に戻りましょう。この赤児の死去を知ったあとのダビデの行動が不可解であると幾つかの注解書は記しています。たしかに不可解です。こんなに素早く転換できるのだろうかとも思うのです。が、私ども現在のキリスト者は、死者の復活を信じているので、ダビデの行動に戸惑うのです。旧約が伝える人間の死は、陰府から帰還することはない、という絶望を意味している。それとまさに対照的に、週報に印刷されている使徒信条の五行目には、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」、 その後です。「三日目に死人のうちよりよみがえり」とあります。復活。ここが旧約との決定的な違いなのです。
 絶対に戻らない我が子を認めた時、残された生き方とは何か、を考えた時、ダビデは、29節「地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した」のです。
 人間が罪から解放されるとは、じつはダビデのような行動となって現れるのが本当ではないでしょうか。いつまでもぐにゃぐにゃ、うじうじしていては、人生の次の段階に入っていけません。決定的な悲劇から立ち直るには、思い切った大転換が必要なのです。私ども一人ひとり人生の途上でこれに近い経験をしてきたはずです。その時、どうしましたか。ダビデはあの王位に就いた時のように、「身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に入って礼拝したのです」。 これがダビデの立ち直りの儀式であったのです。
 私どももみな罪を犯します。大きな欲望を抑えがたく耐えきれずに大きな罪を犯すか、小さな欲望なのでで他人には見えなくて済むかの違いはあれ、みな罪人なのです。にもかかわらず主は許してくださったのです。ならばつねに出発し直さなければなりません。
 20節の後半をご覧ください。「王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした」のです。21節、「家臣は尋ねた。『どうしてこのように振る舞われるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上げって食事をなさいます。』」 と。意味は少し違いますが、日本の武士たちは、時には「武士は食わねど高楊枝」と言い、時には、「腹が減っては戦さができぬ」と言います。また神道の祭りがあると、共食といって神々と人間たちの飲み食いが始まります。また帰って行く日常の現実の中で、懸命に生き抜く決意の儀式なのです。その鍵が「食事」なのです。マザーテレサの現場にボランティアとして参加した日本人女性が、昼食が豪華であったので、「なぜこんな豊かな食事をなさるのですか。死んでいく方々が目の前にいらっしゃるのに」と言うと、マザーテレサの答えはこうでした。「だからこそいっぱい食べるのよ。私たちを待っている人々の前でへたばったらどう言い訳するの。私たちは働くためにここで食べているのです」でした。
 食事することが嫌いな人は誰もいません。毎日祈るではありませんか。「日毎の糧を今日も与えたまえ」と。
 私どもは、朝食を食べてから働きます。あるいは働きに出かけます。
 ダビデは、まず神さまの言葉を食べてから、食事をしたのです。言葉とパンとに支えられてこそ世界に奉仕できるのです。
 今日は、人間の罪について少し考えました。私どもは、罪を許された存在です。にもかかわらず新たな罪を重ねて行く愚かな存在でもあります。私どもに出来ることは罪を認め、告白して許して頂くことのみです。許された私どもの再出発を神さまはいつも見守って下さっています。私どもが、どうやって世界のために立ち上がって、何をしていくのかを期待して下さっているのです。
 日本の総選挙、中近東の悲惨、アフリカの内戦の危機、東アジアの海も騒がしくなっています。
 ダビデ王が優れていたのは、個人的なスキャンダルに蓋を被せて逃亡したのではなく、罪を認め、いのち掛けで神に祈り、与えられた苛酷な運命から逃げること無く、どんなことが待ち構えていても、立ち上がって直面していったその人生が、現在の私どもを奮い立たせてくれるのです。「立てよ いざ立て、主の強者」と、応援してくれるのです。神さまの言葉をまずおし頂き、そしてパンをしっかり食べて、世界のために奉仕せよという声が聞こえています。そんな強いダビデに生まれ変われたのは、ダビデ自身の力によってではありません。立ち上がる力を与えたのは、神様であり、神さまの惠みによって立ち上がったのです。祈ります。
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