霊に燃えて
ローマ信徒への手紙12章9〜21
 1970年(昭45)三月下旬、もう四二年も前の春、四国は香川県善通寺、弘法大師の生誕地。私は28歳。実は、四月から善通寺の陸軍騎馬聯隊馬場跡にある四国学院大学の教師として働くことになったのです。東京から新幹線で岡山へ、宇野線で宇野港へ、本土と四国を結ぶ宇高連絡船で高松へ、土讃線に乗り換え、多度津、金蔵寺、善通寺へ。
 その日、東京から来た父を高松まで出迎えに行き、ようやっと善通寺に辿り着き、門前町の山本屋旅館に宿を取りました。父のたっての願いで、すぐ寺の本堂を訪れました。その夕暮れも巡礼で賑わっていました。木造の階段を昇ると、父は突然大声を挙げました。
 「わたしは罪人です。お許しください」
 悲痛な叫び声でした。あたりの人々は驚いて父の顔をまじまじと見詰めていました。父はたじろぎもせずに南無遍照金剛を繰り返し、涙声で祈り続けます。父が、「私は罪人」と告白する現場に出っくわしたのは初めてでした。「罪人」という言葉が肉体を絞り上げて零れこぼれ出たのは感動的でさえあった。
 思い当たることがありました。父が新婚時代に、高熱のため脳障害を背負ってしまった赤ん坊の長男と新妻との暮らしに耐え切れず、横浜から上海へ密航逃亡を試みて逮捕された暗い秘密がある。そうせざるをえなかった必然性があるにせよ、密航をしたのは、拭いがたい事実として父の生涯に覆い被さっていた。
 その夜、父は赤提灯の暖簾を潜り、店の大将に、「これはせがれです。四国学院にお世話になりますのでよろしくお願いします」と上機嫌で挨拶していました。が、大将は、私を見て、五、六年は浪人したに違いないと思い、「人生何歳から出直してもいい」と気の毒がって慰めてくれたのです。が、父は酔っぱらっているのでできの良い息子だと誉められたのだと思い込んで、「異議なし。大将、どんどん呑んでくれ」になってしまった。
 改革派の最高学府である四国学院で、その後、正下敏明兄に出会うことになりました。
 大音声の「罪人」という父の声と共に、わたしの大学教員生活が始まった、のです。
 罪からの解放こそキリスト教の救いの神髄であることは、みなさんが十分にご存知のことであります。
 が、罪とは何か、と、改めて問われるとどぎまぎしてしまいます。ぐさりと答えれば、罪とは、束縛です。私を自由にさせてくれないものです。ここから解放された存在が、私どもキリスト者であります。すなわち聖なる信徒、聖徒なのです。
 今日のテキストは、その聖徒達、ローマの信徒への手紙12章9〜21節です。キリストの十字架の贖罪によって、救われて聖徒とならせていただいた私どもキリスト者は、どう生きて行くべきかをパウロが懇ろに語りかけています。その生き方は、この章で三角形の視点から捉えられています。一つ、生き方の変革とその表現としての献身。二つ、共同体の信仰告白の一員としての個人。三つ、その実践としての愛の実現である社会。
 一節から見てみましょう。「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」とあります。
異邦人のための使徒としての召命観に固く立っているパウロでありますが、同時にイエスさまに従う一人の聖徒として、「神の憐れみ」を常に実感しているので、あくまでも謙虚に語りかけています。
 この場合の「勧めます」は、勧告というよりは、懇ろな、お願いであります。続く「自分の体を」の「体」とは、ギリシア的な肉体と魂とを切り離した二元論ではなくて、「丸ごとの自分の存在」という意味です。「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」と言うのです。傷のない動物を燃え尽くす当時の燔祭の儀式に、真っ向から挑戦することが礼拝だといっています。なんという革新的な考え方でしょうか。燃やされて死んではいけない、のです、いわば、殉教しない殉教という生き方です。生きていくいけにえ、が礼拝なのです。
 ところで、礼拝は、英語では、サービスと言います。喫茶店のモーニング・サービスは、お客さまに安く奉仕するという意味です。が、教会でモーニング・サービスと言う場合は、朝の礼拝、つまり、朝、神さまに奉仕することなのです。文字通り、神さまによって生き方を変革させていただいた私どもが、全存在をかけて仕え奉ることです。主に仕え、隣人に仕えることです。これが、献身です。
 2節、「この世に倣ってはなりません」とある、「この世」とは、今現在の過ぎて行く時代のことです。方丈記の言葉を借りるならば、「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて止まりたる例無し」。 無常の世界です。
 ここには生きる基準はありません。私どもは神に選ばれた聖徒なのです。世俗に身を置きながらも神の国に招かれているのです、基準は明らかにイエスさまが与えてくださった。「自分を変えていただいた」のです。自己変革は、神さまにしていただいたのであって、自分の側には、根拠も基準もありません。それぞれに与えられた賜物をいかに活用するのか、しているのかだけが宿題なのです。殆どの人間が死ぬまで大脳の二lも使っていないそうです。神さまが与えてくださった賜物はまだ無尽蔵に残されている。
「わたしの信仰はまだまだです」、 その通り。まるごと自分を献げていないから賜物が見つからない。8節をご覧ください。「慈善を行う人は快く行いなさい」とあります。「快く」とはどういう意味でしょうか。「やってやった」という気持ち良さでしょうか。そんなはずはありません。心から奉仕しなさい。見返りを求める下心は受け付けないよ、と言うのです。
 ここからパウロは社会的倫理を展開するのです。九節「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」とあります。私どもは、不断自分は善悪どちらも理解しているので、どちらかを選べと言うなら善だ、とすぐに答えを出す、そんな中立的な公平な自分であると思っていますが、果たしてそうでしょうか。原発をどうするか、何が神さまの御心か。日本キリスト教団は原発の廃止を叫ぶ声明を出しました。それだけでは足りない。「善から離れず」とパウロは書いている。どうしたら実際、廃炉まで持ち込み、子供達孫達が安心して暮らせる地球を手渡せるか、そのためにどう実践しているか、などなど、「善から離れず」はたいへんな事業なのです。
 10節、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。 一世を風靡した落語家、露の五郎さんなら、「こんな少女趣味的な歯が浮くようなことを書かれたら、真面目に読む気がしなくなってしまう」と照れ臭さそうに皮肉を言うことでしょう。ごもっとも、と言いたくなります。が、こんなあまりにも当たり前なことを実行できないのが人の世の現実なのです。
 ちょっと立ち止まってみます。「兄弟愛」、この言葉は、教会の中では、しばしば使われます。アメリカにフィラデルフィアという有名な大都市がありますが、あれはギリシア語です。その意味はなんと「兄弟愛」なのです。もともとはユダヤ民族の身内中での肉親愛という意味でしたが、パウロがイエス・キリストに結ばれた兄弟姉妹愛という次元に練り直した新しいイメージなのです。肉親の強固な絆は同時に、骨肉であるが故の憎悪と柵をも引き摺っています。キリスト教の兄弟愛は、そこを突き破った愛なのです。私どもは神の家族を生きている聖徒なのです。11節、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」とあります。愛は思い付きや気まぐれ、自己満足とは正反対です。愛を可能にするものは持続力です。家庭での子育て、学校や社会での人育てを思い浮かべれば頷いていただけるでしょう。さらにパウロは、「霊に燃えて」を強調して挿し入んでいます。
 この霊という言葉は、パウロがしばしば用いる言葉です。霊とは、目に見える雲のように空に漂いあるいは流れていくものではありません。神の前に立たされた人間が人間として生きて行く時に宿った生命の基盤なのです。私どもがキリスト者として選ばれた時に、体内に宿った霊の贈り物が、愛と分別のエネルギーです。つまり物を見抜く洞察と意志の源泉です。ここから、持続力が湧き溢れてくる。この目覚めを通して、初めて「主に仕える」ことの尊さと重さが分かってくる。霊は燃え続けます。霊に燃えることのないがむしゃらの奉仕や労働は疲労するだけです。私ども自身が霊の人にならなければならない。それは、じつは簡単なことです。束縛から解き放たれた自由の人として振る舞うことです。そうであるならば、12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈」れるはずです。祈りは、身体が効かなくなった人間に残される最後の可能性です。
 ここからパウロは、社会への奉仕を命じています。13節「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなしなさい」と。当時のエルサレムのユダヤ人キリスト者は、差別のなかで苦しんでくるしんでいました。地中海社会には、膨大な奴隷階層がいました。このような社会的弱者を受け入れて援助していくことが肝心要の仕事だった。それと同様に、当時の旅は危険を伴うリスクにいつも晒されていました。伝道者パウロの日常的な現実でもあったのです。が、根底には、地上の旅人であるキリスト者という自覚もあったのです。この発想の延長上に、14節、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」が来るのです。敵を愛するという不可能な宗教的愛をどのように手に入れるのか。実は、祈るという切々たる行為をせよと命じられているのです。この不可能なることを実践しようとする時に、18節、「せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と畳み掛けています。ここから「復讐は我にあり」という神みずから究極的責任を負う言葉が出現しているのです。
 ローマの信徒への手紙の背景には、党派を頼んで分裂する諸教会の現実も見えてきます。この惨状の中で希望に生きる力を語ったパウロの忍耐強い取り組みの中にこそ、現代世界の危うさを克服するヒントが詰まっている。私どもキリスト者に与えられた賜物を活用して、霊に燃えて、祈りながら、行動しましょう。
 祈ります。
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