あなたと共に
ヨシュア記1章5〜9節
 土師町の道には、私ども夫婦はいまだに十分慣れてはいません。先日乗ったタクシーの運転士さんの住まいは泉北で、苗字は、土師さんでした。驚いたことに住まいの周囲はほとんど同じ苗字なのだそうです。「かつては陵の土木工事に携わっていた氏族ですよ」と説明してくれました。運転士さんは、言わば地元出身、この辺りの道路はお手の物。「ただし、この道が近道だと思ったら、たいていの場合、遠回りする羽目に陥ってしまいますね」と言った。ほんとうにそうだと思います。なぜなのか、一年余り疑問を抱いていましたが、その理由が磯野十次さんの説明で分かりました。戦後まで純農村だった土師村は、そのご急速に住宅地に変わっていきました。そして先祖伝来の田んぼの上に住宅を建てたのです。田んぼは、もともとそれぞれへこんだ丸や菱形だったので、その住宅を囲んでできた道路も変形型が多くて、ややこしく、行き止まりもある。あとは農道と旧高野山街道の裏道ですから、新参者の私ども夫婦には、迷路ごっこなのです。
 でもいかに迷路であっても、道は貴い。戦後、小学校低学年の頃の私には、遠足と言えばいつも歩くものでした。荒川まで歩く、弘法大師が訪れたという伝説がある寺まで歩くという具合でした。自家用車がほとんどなかったので安全でした。「お手手つないで野道を行けば」そのままでした。子供の私はいつもわくわくしていました。あの道の奥には、きっと何かがある。
 小学校高学年になると、教科書にカール・ブッセの詩が載っていました。

  山のあなたの空遠く 
  幸い住むと人の言う
  ああ 我人と尋め行きて
  涙さしぐみ帰り来ぬ
  山のあなたになお遠く
  幸い住むと人の言う
  終わることのない幸い探しの道が始まったのでした。

 そもそも道とは何でしょうか。
 聖書には、創世記から黙示録まで「道」という言葉が沢山登場します。私どもが一番早く想起するのは、もちろんヨハネによる福音書14章6節のイエスさまの御言です。「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」です。これは唯一の真理の道と解釈すべきでしょう。
 お待たせしました。第一の問いです。日本語には、「道」に関するたくさんの言葉があります。次に挙げるものたちの共通点を探してください。
 茶道、武道、剣道、武士道、人道主義(ヒューマニズム)、 道徳。
 第二の問い、神道、仏道、修験道、これらは、いかがですか。
 第三の問い、花道はいかがでしょう。歌舞伎座の俳優の通り道ですが、人生の華々しい場面のことでしょう。
 このぐらいで、お遊びは、お仕舞い。
 私の少年時代の道は、憧れを増大させてくれるもの。あるいは、目的地と私の現在を結ぶ手段と方法でした。
 さて、聖書の裏の地図の 二「出エジプトの道」をご覧ください。モーセに率いられたイスラエルの民が葦の海を渡ってカナンの約束の地に辿り着くまでの足取りです。
 なんと四十年間を費やしているのです。現在なら、飛行機でエジプトからイスラエルまで一時間余りです。神の約束が実現する寸前まで、四十年間、曠野を放浪できるでしょうか。信仰とは希望に支えられた忍耐だと教えられても、言葉だけではとても耐えられない。当時の平均寿命は、四十年を切っていたでしょう。つまり曠野の中で生涯を終えた人々も多かったのです。カナンまでの道程を支えた信仰の実体は、出エジプト記をじっくり読み込んで分かってくるものなのです。空腹、信仰的危機、指導者への不信などもあったのです。
 その四十年間の道を想像する強靱な想像力が欲しいとは思いませんか。あの旅の日々を率いたモーセは、ヨルダン川を越えさせていただけなかった、墓も分からない。にもかかわらず神が呼び出した旧約最大の預言者であったという根拠は何だったのでしょうか。それは、神への徹底した信頼と忠実であったのです。
 そのモーセが呼び出して自らの後継者として指名したのが、ヨシュアです。ヨシュアとは、神の救いという意味であり。ギリシア語でイエスであります。モーセが越えることができなかったヨルダン川は、流れる川という意味です。このヨルダン川は、パレスチナを北から南へと縦に流れていますが、ヘルモン山の水量豊かな水源から海抜下のガリラヤ湖を経て、さらに海抜下三九七メートルの死海へと注いでいます。約220キロです。
 が、イスラエルの川のほとんどは、雨期を除けば枯れ川なのです。日本ではほとんど見られない光景。今、イスラエル民族の眼前に広がった流れる川・ヨルダンは、出エジプトのあの紅海のように目の前に立ちはだかっていたのでしょう。この川を越えた所が、約束の地なのです。
 新しい指導者ヨシュアの下に、部族連合のイスラエルは集結しました。そして、流れるヨルダン川を越えて行ったヨシュア軍団のパレスチナ侵攻成功物語の展開が、ヨシュア記(上)なのです。
 では、今日のテキストに入ります。三節「わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる」。 気が遠くなるよう広大な光景、ユーフラテスから太陽の沈む地中海まで、かつてのヒッタイト王国を思い描いてしまいます。これが古代イスラエル人が想像できた世界のイメージなのでしょう。
 続く5節以下が、先ほど読んでいただいた今日のテキストです。主はヨシュアに言われました。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見離すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である」
 ここまで言われると、だれでも嬉しくなって大声で喜びの勝ち鬨を上げたくなります。が、次の主の言葉が重要なのです。
 7節「ただ、強く、雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法を全て忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く、雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。
 ヨシュア記の1章だけで、「強く、雄々しくあれ」という台詞は、三回も繰り返されます。実はこの台詞は、出エジプト記で、すでに主がモーセに言われた言葉であり、さらに申命記でモーセがイスラエルの前で言った台詞でもあるのです。
 モーセは出エジプトを前にして神の前に呼び出された時、じつは不安と緊張で一杯になっていました。イスラエルの今後に対して、はたして自分が責任を取れるだろうかと苦しみ悩んでいたのです。その時、主は、「強く、雄々しくあれ」と言われて激励されたのであります。どのようなすぐれたリーダーシップに恵まれた人物であっても、民族の今後に対して責任は取れない。それは自明です。
 「人事を尽くして天命を待て」、 これは日本の優れた諺です。が、私どものキリスト教の世界は、さらに突っ込んだ視点で考えているのです。絶対なる神は、ご存知のように、世界を創造された方であります。今日の招詞コロサイの信徒への手紙にあるように、その御子であるイエス・キリストは子なる神であり、「万物は御子において造られた」のであります。その神が、「強く、雄々しくあれと命じたではないか」と念を押して襲い掛かっているのです。
 なんという力強い念押しでしょう。
 世界の創造以来一貫しているのは、歴史を導く主体は神であるという事実です。ヒューマニズムの人間主体主義とは真っ向からぶつかっています。人間が抱え込んでいる悪と罪の問題を包んで解決して突き進む歴史観なのです。
 不安であった預言者モーセが、そして預言者ヨシュアが果敢にイスラエルの民を率いて、自分たちの前にある道を歩んで行った物語から、現在の私どもは学ばなければならないのです。
 ここでちょっと脱線しましょう。
 みなさんは、高村光太郎という彫刻家をご存知でしょう。お父さんも、高村光雲という明治時代を代表する彫刻家で上野の杜の西郷隆盛像の作者です。
 光太郎の第一詩集は、有名な『道程』(1914年、大正3)です。代表作「道程」は、青年が人生に立ち向かって行くときの心境を歌っています。

  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ 自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守ることをせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

 暗唱している人もいるでしょう。
三、四行目に注目してみてください。平均的日本人としては、意外な自然観です。「ああ 自然よ/父よ」と、自然を父と呼んでいます。母なる大地という言い方は抵抗感がありませんが、父なる自然、という言い方には違和感があることでしょう。さらに注意深く読んでいますと、人格的な関係を結んでいる父なる自然に対して、見守ってほしいと祈る心で切実に呼び掛けているのです。
高村光太郎が欧米留学を通してキリスト教の影響を受けたことが、この一篇の詩を通して証明できるのです。光太郎は、イエスさまの誕生を祝った作品さえ書いているのです。
 今日は、道についても考えてみました。私どもの道も一人一人別々です。が、同時に、教会という共同体としての共同の信仰告白を確認しながら、人格的な神に生かされて、共同の道を歩んでもいるのです。
 お年を召した信徒も、壮年期の信徒も、小学生も含めて、土師教会共同体の全会衆に対して、主なる神は、今日も念を押してくださっています。
 
「強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と。
 祈りましょう。
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