朽ちない種から
ペテロ手紙1 1章17〜25節
 皆さん、おはようございます。晩秋の紅葉の季節、今日は教団の永眠者の日です。83年目を迎えた土師教会は、たくさんの信仰の友に囲まれています。それらの人々を想起する記念日であります。
 ですから、メッセージは短くなります。
 今日のテキストは、「ペテロの手紙」という題名ですが、使徒ペテロが執筆したわけではなく、ペテロの権威を借りて、1節の冒頭、「ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」を対象にして送られた手紙であります。現在のトルコだと思えば良いでしょう。特にカパドキアは、奇岩が立ち並ぶ、キリスト教徒たちの地下四階建ての洞窟修道院の跡です。世界遺産として有名です。ぜひ一度は訪れてください。
 なぜユダヤ人が離散しているのかは、皆さんがご存知のように、50年以上に亘るあのバビロン捕囚の結果なのです。そして「選ばれた人たち」すなわち、キリスト教に改宗したユダヤ人キリスト教徒が、この手紙の対象なのです。現在の私どももまた地上の旅人です。
 一世紀の終わり頃、異教徒による、新興宗教のキリスト教徒への日常的な迫害があちこちで散発的に起こっています。それらの苦難と迫害の中での兄弟姉妹を、励まし、慰め、どのように聖徒としての信仰を貫いていくのかを、ていねいに教え、勧告しているのです。そのために代表的な使徒ペテロの名前を借りた。
 ですから冒頭から、イエス・キリストの到来の意味を明確にして、書き送ったのであります。3節の後半から9節まで、ちょっと長いですが、読んでみます。
 「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
 この1章には、「朽ちる」「朽ちない」という単語が何回も登場します。「朽ちる、朽ちない」という単語は、とても日常的な単語であり、誰にもわかりやすい単語です。そこをうまく取り入れてペテロは、朽ちないもの、それがイエス・キリストであることを強調するのであります。9節の「魂の救い」は、肉体と精神というギリシア的な二元論ではありません。ここの「魂」は、一人の人間の全体的存在を言い表しています。つまり「一人の人間の丸ごとの救い」という意味です。
 戻って、3節の「生き生きとした希望」という言葉がありますが、これも単なる挨拶代わりの、あるいはせいぜい道徳的倫理的な人生への応援スローガンとしての「希望と夢を持って生きろ」という励まし言葉ではありません。注意深く読めば、「わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」とあるように、復活の出来事を通して与えられた確固とした揺るぎないものなのです。
 こういう前提の再確認に拠って、聖なる生活をするように勧告している。イエス様が再び到来する時、それはこの世界の終わりであると同時に、決定的な救いが出現する時です。復活によって与えられた希望によって、私どもキリスト者が待望している再臨の確信があるから今日一日を生きられるのです。苦難と迫害をも喜ぶのです。
 まさに、17節の後半、「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべき」です。「畏れて」の「畏れる」は、敬意を抱いて接することです。これがキリスト者のイエス様との交わりです。なぜなら神は私どもを解放してくださったからです。続く18節には、「先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは」とありますが、これはイエスさまが命を掛けて贖ってくださった結果なのです。この贖いは、ローマの法律から来ています。高い代金を支払って弁償することです。その代金がイエスさまの命なのです。あのゴルゴダの十字架を思い描くのは容易なことではない。身震いせずにはいられない恐怖に満ちた場面なのです。あの十字架と運命を共にした弟子は誰もいなかった。みなイエスさまを見捨てて逃げてしまったのです。私どもも同じです。にもかかわらず私どもは許され、解放されたのです。この事実を喜ばずにはいられない。踊り出したい。
 そして、22節が、究極的な勧告です。
 「清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と。
 この「あなたがた」という複数形は、教会のことです。キリスト教は、個人倫理ではない。つねに教会を前提にした共同の生き方を問うているのです。「兄弟愛」です。生かされた者、言うまでもない、聖徒としての兄弟愛は、共に喜び、共に苦しむことなのです。
 これが、「深く愛し合いなさい」です。
 私が救われることは、家族が救われることへと向かいます。そした私ども家族の記憶に登場してくる先祖の救いの保証へと向かっていく。これは、民間信仰の先祖崇拝とはまったく異なって、私の側から始まる救いの出来事なのです。私から家族、そして共通の先祖へと向かう。確固とした確信に立つ希望の信仰なのです。
 この召天者記念礼拝の今日、教会で共にたくさんの人々を想起できる喜びを噛みしめましょう。祈ります。
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