騒ぐな
使徒言行録20章1〜12節
 14日(日)の聖日礼拝は秋晴れでした。
 お茶が終ってから、河内吉明・敦子長老夫妻の車に乗せていただいて奈良の生駒のアトリエを目指しました。車を持っている人の地図感覚は空間を大きく捉えていて、あの山の向こうには何々町、あの川を渡ると何々古墳、あのトンネルを抜けると、何々県といった具具合です。あの日は、大阪府を越えて奈良県へと入りました。車で国境を越えるときは、いつもドキドキします。この日も、ああと叫んでしまいました。コスモスの丘を上って行ったら、なんと万葉集に登場するあの大和三山が見えたのです。背の低い、緩やかな、かわいい姿は、童話の世界でした。「この丘を散歩するのが好きです」と敦子長老が楽しそうに言いました。健脚なんだ、さすがは山岳部出身だと感心しながらも、私にとっては日常の風景ではないので、ここで散歩なぞまったく考えられません。
 おや、車が停まりました。山の中腹らしく緑に囲まれた建物の門には、「第二慈母園」と書かれていました。生駒郡斑鳩町法隆寺2091―1番地、そうだ、森イワノ姉の老人ホームだ。ここでCDの宣教を聴いていらっしゃるのだ。
 土師教会に赴任して信徒の中に、法隆寺にある仏教の老人ホームにいる盲人の森イワノ姉がいらっしゃることを知って以来、その名前を頭に刻んでいます。今日その現場に案内されたのです。
 なぜ仏教老人ホームなのかは、歌舞伎や文楽好きな人は、ここの地理的な位置から、おそらく「壷阪寺霊験記」を思い浮かべるでしょう。
 ここから近い奈良県高取町壷阪にある壷阪寺にまつわるお話です。時は江戸時代、寛文(1661〜73年)の頃、盲目の沢市は、お里と壷阪寺の近くに所帯を持った。三年経った頃、沢市は、毎晩外に出る妻に不信を抱くようになっていた。きっと男ができたに違いない。そう思うと居ても立ってもおられず、疾妬と怒りのあまり、お里を詰ったのです。が、違っていた、お里は沢市の目が開くようにと祈り続けてきたのでした。恥ずかしさと自責のあまり、沢市は谷間に身を投げて死んでしまった。それを知ったお里も後を追った。しばらくして二人は意識を取り戻した。なんと沢一の目が開いていたのである。本尊十一面観音の慈悲を称えよ。
 この壷阪寺が盲人をも含む老人ホーム慈母園を経営しているのです。その結果、森ユワノ姉がここにいらっしゃるわけです。
 キリスト教も、例えば、ヨハネによる福音書九章にあるように、イエス様によって目が開いた盲人がファリサイ派エリートを相手に、「見えるとはどういうことか」をめぐって論争、イエス様の愛に導かれて勝利するという物語です。その救いの出来事に立って、盲人のための点字打ち、朗読、自立支援のための盲学校などの活動が行われています。森ユワノ姉が慈母園にいらっしゃる理由は、壷阪寺盲人伝説とご家族の地理的な条件が大きかったのでしょう。
 さて、今日のテキストは、沢市、お里の盲目物語とは直接的な結び付きはありません。が、死を扱っているという共通点があります。人間生きるのも死ぬるのも他者との関わりの中での出来事なのです。他者との関わりがなければ生きる喜びも死への準備も受け入れもありえません。家族であれ、知人、友人であれ、それらの他者との関係性の中に生き死にの真実の姿があるのです。
 十二年前、釜山に住んでいた時、妻と私は、もう大きな孫もいる、ある八〇代の日本人のお婆さんから、釜山の坂道の傍らの墓地を教えられました。それは、植民地時代に韓国人と結婚した日本人女性たちの墓地なのです。「あそこの墓地は、みな南の日本に向かって建っているのです」と。
 翻って、私たちが死ぬる時に、その死を支えてくれるものは、何でしょうか。それは言うまでもなく、復活信仰の確信であります。 
 さて、今日のテキストは、ちょっと解釈に戸惑う箇所です。というのは、書き手が医師のルカだからです。ギリシア語が堪能で冷静、歴史家でもあるルカが筆者なのです。
 使徒言行録20章1節からです。ユダヤ人のユダヤ教から自分たちさえ気がつかずに飛びだしていた新興宗教、ユダヤ教の異端、キリスト野郎たちと蔑まれたキリスト者の群れがイエス様の死後生まれたのです。教会の成立です。その野郎たちを弾圧した実行最高幹部であったパウロのキリスト教への回心と、その後の命がけの伝道物語が使徒言行録です。使徒とは、狭い意味では、イエス様から直接に伝道者たれと命じられた特任を委託された十二弟子たちのことです。が、パウロは聖霊の直接的な導きによって使徒となったのであります。
 自分もユダヤ人である使徒パウロは、ユダヤ教が待ち望んできた救世主(メシア)がイエスさまであると証言したのです。どこへ行っても、まずは世界中に散らされたユダヤ人に伝道しています。その後に異邦人に向かって証言した。異邦人への伝道は、イスラエル、シリア、アジア、ギリシアへと広がり、残りはローマとイスパニアのみとなって、ローマの信徒への手紙を書き送っている。そんなパウロの苦難と喜びを活写、生き生きと描写しているのが使徒言行録なのです。三回に亘る世界伝道の旅は、地中海を行く船旅を伴っていましたが、しばしば苦難を経験したのでもあり、世界最古の本格的海洋文学でもあります。イスパニアの先にアメリカそして日本です。日本は、いわば世界のさいはての異邦人の世界であり。最後の伝道地なのです。
 話を戻します。今日の箇所は、ギリシア中心の異邦人キリスト者たちがエルサレムで苦闘している貧しいユダヤ人キリスト者教会を助けるための献金を代表者たちが集団で届けに行くときの様子を報告しています。
 4節以降に登場してくる人物たちは、ギリシアとアジア各地からの献金を運ぶ代表者たちであります。この箇所だけでは、献金運びは表面には出ていませんが、言行録やローマ人への手紙を読んでいれば、旅の目的ははっきりしています。六節には、「わたしたち」が出てきます。時折出てくるこの「わたしたち」の一人がルカであります。わたしたちは、トロアスに七日間滞在したのであります。
トロアスとは、トロイの近くという意味です。あの有名なトロイ遺跡から約20キロの地です。トロイのヘレンの大恋愛物語が伝わっています。現在は、兵士たちが潜んでいたあの木馬の模型が建てられています。現在のトルコの地中海側です。
 そのトロアスの建物の中でパウロの福音集会が開催されたのです。現在の教会の整った礼拝の形式はまだ確立していません。まして奴隷のキリスト者たちは、昼間の集会に出られる余地は全くありません。ですから集会は夜にまで及んでいたのです。時間の制約もなかったようです。パウロはご存知のように弁舌爽やかであり、熱意も飛びぬけていました。建物は聖書によれば三階建てらしいのですが、現在のものよりは低かったことでしょう。一階などは、半地下の場合も多かったようです。いずれにせよ、パウロは熱情に燃えて喋りつづけていたのです。エウティコという青年の年齢も職業も出身も何もわかりませんが、おそらく昼間の労働で疲れていたのでしょう。奴隷であったようです。彼は、もうすぐ出発してしまうパウロとの別れを惜しみ、また福音の真髄にもっともっと触れたくて、急いでやってきたはずです。が、疲れていた。「窓に腰を掛けていたが」、「ひどく眠気を催し、眠りこけて、三階から下に落ちてしまった」。青年が落下したので大騒ぎになった。たちまち混乱した。たくさんの灯が揺れ動いた。
 ルカは医師でしたから、すぐに駆けつけてエウティカを抱き抱えたに違いありません。人々は青年と医師ルカを取り囲み、騒ぎ出したのでいっそう混乱してしまった。みんなの視線がルカの診察の結果の答えを待っていた。ルカは、「死んでいる」と言った。「ああ、どうしてこんなことになってしまったのだ」、「あんまりもかわいそうだ」、「神さま、助けてください」などと喚き泣き叫んだことでしょう。
 その時、パウロは、話しを中断して、壇上から、10節「降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。『騒ぐな。まだ生きている。』 
 ここをどのように理解したらいいでしょいか。医師ルカは 「死んでいる」と言った。しかも言行録の筆者なのです。ルカが嘘を言うはずがないでしょう。それともひょっとして慌て過ぎて誤診したのでしょうか。ではない。間違いなく、死んだのです。
 ならばパウロはなぜ、「まだ生きている」と言ったのでしょうか。いろいろな注解があります。が、私は、こう考えています。パウロの判断も間違っていない、と。どういうことか。パウロは、落下したエウティカにまっすぐに近寄って行き、「かがみ込んで」と記述されています。これは旧約の死者を復活させた場面と同じやり方です。つまり咄嗟の応急処置、現在の人口呼吸なのです。パウロは、喚き立てる人々に向かって、「騒ぐな」と叱り飛ばした。パウロにもどうしようもなかったのです。無念だった。せっかく集会に来てくれた奴隷の若者エウティカが死んでしまった。その絶望の底で、使徒パウロの顔になった。一か八か、のるかそるか、若者の生きる顔に命を賭けた。そして、「まだ生きている」と重い沈着な声で断言したのです。これがパウロの絶望からの叫びだったのです。静まり返った人々は、はっと我に返って、行動を開始した。覚えのある者が人口呼吸を続行した。手伝う者も現れた。介護が始まった。
 ルカが甲斐甲斐しくてきぱきと指示した。
 するとエウティカの目が開いたのです。パウロは、キリストを称えた。
 そして、ゆっくりと壇上に戻り、11節「パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した」とあります。目を開いたエウティコを看護しながら人々は聖餐式にあずかったのであります。パウロ自身、賛美せずにはいられなかった。全員の必死な祈りに応えてくださった主に胸震わせながらの聖餐式を味わったのであります。その感動がルカによって書かれたのであります。こうして、12節「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」とあります」。これは、パウロの夜を徹した言葉から励まされたという意味です。心が一つに合された夜を経て、神がまっすぐにみ腕を伸ばされて癒してくださった事実によって力付けられたのであります。
 そして献金をも運んで先に港で待っていた代表者たちと合流したのでした。ここまでが今日のテキストです。
 さて、みなさんは、壷阪寺霊験記の救いの物語とテキストの若者の救いの物語との決定的な違いが見えるでしょうか。
 そうです。キリスト教信仰は、慈悲だけに留まらない。死の現場にあって、なお神の救いを信じているのです。死をも越える希望の根拠に立って、再臨を待っているのです。
 私どもは、神の体である教会の枝なのです。祈ります。

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