ダビデとゴリアト
サムエル記上17章40〜51節
 木曜日の夕方から雨が降って、急に秋冷えになりました。雨の中で金木犀が芳しい香りを漂わせていました。妻と私は、ようやっと手に入れた生駒のアトリエを訪れました。初めて一泊するつもりで張り切っていました。 けれども、じつは冷蔵庫、テレビ、洗濯機はおろか、スプーン、バターナイフがない。野菜も卵もない。布きんもハタキもない。日暮れ前にようやっと布団が届きましたが、毛布がない。あれこれ、ないもの尽くし。あるのはキャンバスと油と絵の具と筆でした。仕方ないので外食しました。
 ぐっすりと眠れました。目が覚めると、生駒の中腹から山上まで一面の霧、しかもゆっくりと流れていました。昼食後、初めて日本最古というケーブルカーに乗って山上の遊園地まで行ってみましたが、風と寒さにびっくり。ただし、眼下には大阪市が広がっていて、遙か西方に神戸、淡路島が横たわっています。堺市はどのあたりかなあ。
 12月から3月まで毎年、遊園地も閉じるそうです。水道が凍ってしまうからなのだそうです。
 早々と引き上げて、ケーブルを途中下車、宝山寺を訪れました。一億円と五千万円喜捨の石柱がほんとうにありました。頭が象、首から下は人間の、男女合体の聖天歓喜像へのお参りが主な目的なのです。ここは神仏習合がそのまま残っていて、巨大な石の鳥居そして青銅の鳥居もありました。
 付近には、断食の共同体の道場が三棟もありました。自然食を掲げた宗教施設らしい建物もありました。瀧の修験場への道しるべもありました。
 近鉄で鶴橋まで戻ると一陣の風が焼肉の臭いを、電車のドアーまで運びこんできました。 石切の占い街道も含めて、これらの諸宗教の賑わう博覧会は、わたしどもキリスト教とはほとんど接触点を持ち得ない。
 決定的な違いは、徹底的なご利益信仰に尽きてしまっていて、そこには教義(思想)体系がない。
 土師教会のホームページの中で、私は、「一日一生の実感の中を歩んでいる」と書きました。70から伝道者の道を歩み出した私は、じつは並々ならぬ思いで一日一日を過ごしています。イエス様こそこの世界の救い主であるという確信に立って、イエスさまの愛の事業をどうにかして人々に伝えたいと願って、宣教をしております。いつ死んでもいいとは思いませんが、その覚悟を持って、「一日が一生涯である」を貫く実感です。宣教は、もちろん私個人だけでできることではありません。イエス様が先を歩いていらっしゃるのであり、私どもは従っているだけです。この「従う」という行為、営みが現代人には分からない。私の能力、私の教養を誇ることは、何ほどのことでしょうか、と言っても聞く耳を持っていない。個人でできること、私でなければできないことはもちろんあります。ありますが、自慢にはならない。
 私どもの人生に於いて一番肝心なことは、生きている喜びを実感していることであります。が、それは生かされているという感謝から沸き起こってくるのです。誰に、何によってか。その根拠は、自分の内部にあるのではなく、外部から訪れてくるのです。この生きている根拠について、今日のテキスト「サムエル記」から考えてみましょう。
 「サムエル記」という題名は、サムエルについての伝記もしくは報告と考えがちですが、ご存知のように、もっともっと長い時間と人々と王国についての物語なのです。すなわちイスラエル王国の成立と分裂そして崩壊の歴史が、語られています。いつも申し上げていますように、これは今日の学問的歴史書ではなく、あくまでも神に選ばれたユダヤ民族の興亡を救済史的観点に立って描きだしている書なのです。
 今日のテキストは、部族連合を生きてきたイスラエル民族が王国を望んだ結果、成立したイスラエル国家の最初の王サウルとダビデの運命的出会いから、サウルが一方的に敵意を抱くようになる辺りが背景です。二人のその後の運命は、ご存知の通りです。
 旧約聖書の裏にある地図の5をご覧ください。南北王朝時代です。その下の部分、ユダとペリシテを分ける点線上にガトがあります。このあたりが17章「ダビデとゴリアト」の冒頭の戦場付近だと思ってください。その点線のすぐ下にエルサレムがあります。
 地中海沿岸のペリシテ軍が、内陸のユダに侵入してきたので、王サウルは、軍隊を率いて対峙したその戦陣の辺り、エラの谷を挟んでイスラエル軍とペリシテ軍とがにらみ合っている。エルサレムの西南30キロ弱。すると、四節「ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半」、 五節「頭に青銅の兜をかぶり、身には五千シュケルの重さのあるうろことじの鎧を着」、6節「足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。」7節「槍の柄は機織りの巻き 棒のように太く、穂先は鉄六百シュケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。」
 ガトのあたりには、巨人伝説があって、サムエル記下には、両手の指が6本ずつ、両足の指も6本ずつ、計24本の指を持った巨人の一族がいたと記してあります。今日のテキストに出てきたゴリアトは身長約3メートル、鎧は28キログラム、鱗綴じとは、魚の鱗の形を模った鎧なので、動作が身軽で自在にできるようになっているのです。投げ槍は、四キロ弱もあります。辺りを威圧する堂々としたジャイアントです。こうした巨人伝説は、世界中で見受けられます。おそらくそう見えたでっかい人間たちがいたのでありましょう。八節、この「ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。」 9節「その者に私と戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」 
 ゴリアトは続けてこう言った。10節「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」11節「サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。」
 えっつ、一騎打ちだって。イスラエルに一騎打ちってあったっけ? 日本の戦国時代にはあったなあ。でも、たしかにイスラエルの戦い方にこういう伝統はなかったはずです。おそらく海辺の民族ペリシテ人にはこういう伝統があったのかもしれません。戦いの決着は、この一騎打ちでつくことになっているのですが、応じるものはいませんでした。ゴリアトは、無敵であったのです。
 さて、肝心のダビデ少年はどこにいるのでしょう。このダビデとサウルの出会いが混乱しています。いつ初めて出会ったのかという部分がサムエル記の中でさえ矛盾しているのですが、詮索するのは止めましょう。おそらく編集者が二つの異なった伝承記事を参考にしたせいでしょう。どちらであれ、このゴリアトを前にしてダビデがま向かって行くのであります。
 ダビデは、12節「ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。」 ダビデは、名門の出でも富裕階層の出でもありませんが、エッサイという名前を見れば、やがてここからイエス様に繋がっていく系譜が見えてくるのです。しかもダビデは、羊飼いであった。ここからも私どもは、少年ダビデがなにか凄いことをするだろうと期待で胸がときめいてくるのです。
 16節「かのペリシテ人は、40日の間朝な夕なやって来て、同じ所に立った」とあります。私どもは、イスラエル民族の出エジプトの四十年間の荒野の苦難の旅あるいはイエスさまの四十日間の誘惑の試練を想起します。そしてこの四十という数字が現れたあとに、必ず問題解決の糸口が見えたのでした。
 そうです、ダビデの驚くべき目覚ましい戦いが始まるのです。サウルは言った。33節「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」34節を注意して読んでください。「しかし、ダビデは言った。『僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから』と。古代のイスラエルでは、実際、ライオンも熊も出没していたのです。サウルは、この少年の信仰に驚いたのです。神の選民であることを信じているからと言っても、なかなかここまでまっすぐには確信できないのが人間の愚かなところです。
 驚き、感激したサウルは自分の武具を与えています。イスラエル軍の中で、ダントツの攻撃力防衛力に満ちた武具だったのです。が、ダビデは、結局脱いでしまいました。羊飼は羊飼いのままであるのが一番自由であることを十分知っていたのです。
 40節「自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った」のです。ゴリアトは、42節「姿が美しい少年だったので、侮った。」 ダビデは、宣言します。45節「万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」 47節「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」
 続く48節からが、戦いのクライマックスであり、先ほど読んでいただいた箇所です。
 日本なら一寸法師と鬼、牛若丸と弁慶でしょうか。美女と野獣ならぬ美少年と怪獣の戦いであります。
 が、決定的に異なっているのは、主人公の信仰なのです。楽しいこども向け活劇ではない。万軍の主と主の戦いを確信した少年のひたすらな信仰こそが、この物語のほんとうのテーマなのです。49節「ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。」 丸腰のダビデは、剣を持っていなかった、鎧も着けていなかった。しかし、勝利したのです。
 絶対的な唯一の神によって立つこと、立たせられていることを感謝して受け入れている時、私どもは、生きているという実感を持ってゆったりと呼吸していられる。
 毎日忙しくあわただしく暮らしている私どもですが、何も武装する必要はない。
 非武装によって、平和を作りあげるのが、キリスト者の義務です。
 そして、私どもの足腰と魂をしゃんと立たせてくださっている方に、本気でお仕えする生活を、打ち建てていかなければなりません。
 祈ります。

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