一人の女が
マタイによる福音書26章6〜13節
 木曜から土曜日まで二泊三日、福岡市の福岡女学院大学教員修養会の講師として招かれましたので行ってまいりました。福岡女学院は、博多の中心街、あるいは玄界灘を見渡す高台にあると思い込んでいました。と言いますのは、北海道から長崎まで、ほとんどの女子ミッションスクールは、港が見渡せる岡の上にあるからです。欧米の宣教師たちが祖国とまっすぐに繋がる海の見える港の岡の上に学校を創ったのは、かれらの望郷の念のなせる業です。長崎の活水、神戸の神戸女学院、横浜のフェリス、みなそうです。
 さて、福岡女学院と言えば、セーラー服の制服を一番最初に採用した学校としても知られています。もっとも諸説がありまして歴史的事実は私には分かりません。興味があるのは、何故、海軍の船乗り姿、しかも男の制服が、女子ミッションスクールの制服になったのか、その理由です。みなさんは、この疑問を解く鍵を持っていますか。
 さて、肝心の福岡女学院は、福岡市の南部の平野にありました。緩やかで柔らかい山並みが見えていました。中学から高校、短大、大学の建物が、まっすぐ200メートルもある廊下で連結されているのでびっくりしました、中央に本部と宗教センターが、が集中していました。
 ところで、この土師教会で活躍してくださっている安村聡子姉と福岡女学院には、深い関係があることをごく最近知りました。うら若き安村(旧制松尾)聡子先生が、ここで教鞭を執っていらっしゃったのです。中学校は、ちょうど学校祭の前日でした。聖降誕祭などのカッテング絵のボードなどが立ち並んでいました。明るいすがすがしい挨拶が返ってきます。聡子さんはここの短大の助手でした。宗教センターの聖書研究会を通してイエスさまと出会い、その後大阪で受洗されたとのことです。中学校の校舎の奥に、シイの木がびっしりと林をなしていて、緑陰の読書や語らいの絶好の場を提供しています。樹齢二百年くらいでしょうか。青春の目覚めの舞台です。
 本部の近くの樅の木は、樹齢五十数年、校舎の三階に届く高さを誇り、堂々とした枝振りです。もともと、やや寒い場所の木ですから、南国でここまで育っているのは稀のようです。クリスマスツリーとしては、大きくなりすぎて、毎年喜びの悲鳴を上げながら飾り立てるのだそうです。
 タクシーの運転士さんに言わせると、博多の運転マナーの荒っぽさは、日本一。通勤時間の自転車のマナーもひどい。
 博多っ子の気の強さ、お節介焼きは、大阪とよく似ているそうです。対岸の釜山とも似ているそうです。なるほど宿泊したホテルのヴァイキング朝食会場の三分の一くらいは韓国人でした。
 アジア美術館もあり、今週は、アジア映画祭も開催されるとのことでした。アジアを代表する国際都市でもあります。
 そんな九州の玄関口で、キリスト教はどんな根を下ろしているのでしょうか。いないのでしょうか。この都市を代表する某教会の伝道師になっている神学校の同級生Hの姿を思い描いてみました。
 『信徒の友』の詩の選者でもあった島崎光正の記念コーナーのある福岡女学院大学で、9月7日、金曜日の夕方、教員の修養会の講師をようやっとやりおおせました。元ハンセン病の詩人・桜井哲夫への関心が集中しました。ハンセン病とキリスト教と詩の関係が衝撃だったようです。私にとっても研究の新たな課題が与えられました。
 さて、今日のテキストもハンセン病と関わっています。すでに宣教で一回取り上げた背景ですが、今日は少し視点を変えます。
 26章,イエスは、いよいよ迫って来た最後を十分に頭に入れて、大切なことをことごとく語り終えた後、弟子たちに言った。2節,「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」と。祭司長たちのイエス殺害の計略はすみやかに進められていたのです。そんな危機的状況を背景にして、ベタニアが舞台としてせり上がってくる。そして、6節、「さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた」。 
 ベタニア、原語の意味は、「貧しい者の家」であります。ここはエルサレムの東約三キロ、オリーブ山の麓にあった村で、現在パレスチナ自治区であるエル・アザリエだと言われている。が、聖書の中への位置付けを考えるとき、もっと重要なことは、この村がハンセン病の村であったらしい、おそらくまちがいないという点である。そしてその後数日のうちにイエスの処刑がなされたゴルゴダ(頭蓋骨)の岡もこの近くであったという点である。つまりイエスさまの死への一歩手前の地点でもあるのです。
 この香油の場面は、マルコ、ヨハネにも登場します。マタイによる福音書は、マルコに基づいていますが、ヨハネは、もっと劇的に書き加えられています。
 ここで使われるマタイの[極めて高価な香油]は、マルコでは、「純粋で非常に高価なナルドの香油」となっています。ヨハネも「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を」となっています。 もしナルドであるとすれば、この香油は、たしかに珍重された高価なものであったのです。サンスクリット語の「ナラダー(香しい)」なのです。インド北部のヒマラヤ山地に産する「甘松香」の根っこから採る香油なのです・イエスの頭に注ぎかけられた時、「弟子たち」(マタイ)、「そこにいた人の何人かが」(マルコ)、 ヨハネは、「イスカリオのユダ」とまで言っている。かれらは憤慨(マタイ、マルコ)しました。
 舞台は、ベタニア村なのですから、シモンとマルタとマリアは、肉親の兄弟姉妹です。となれば、最後に書かれたヨハネが、美しいドラマチックな物語にまで仕上げられたのは理解しやすいことです。
 が、マルコとマタイでは、この香油を注いだのは、あくまでも「一人の女」なのです。シモンの同胞なのであれば、ヨハネのように、その女が「マリア」を指しているのはごく自然です。しかもヨハネは、頭ではなく、足に塗って、髪で拭うのです。
 ヨハネの美しい物語は、191頁の上段の終わりからです。3節、「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(約326グラム)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の薫りでいっぱいになった」。 四節、「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカオリテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか』と。
 まるで小説か、お芝居のようではありませんか。が、これはどこまでもヨハネの手が入りすぎています。
 いいですか。マタイもマルコも、「一人の女が」なのです。
 それこそ、なぜ、「一人の女が」なのでしょう。歴史的事実はマリアであった可能性が高いでしょう。しかし。「一人の女が」なのです。
 もう少し、テキストを追ってみましょう。マタイでは、イエスさまは、こう答えています。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と。マルコでは、「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と。ヨハネでは、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と。どの福音書も「この人」と客観視した言い方だと思いませんか。たとえマリアであったにしても、マリアという固有名詞を突き抜けて、「この人」なのです。
 お分かりでしょうか。誰でも名前は持っています。が、ときには、固有名詞の名前を捨てさせて、あるいはその名前を消させて、その人物の行為そのものに焦点を合わせることが必要なってくるのです。名前を消しても、その行為そのものがその人物の人格を伝えてくる、そういう、存在の不思議な力というものがあるのです。
 「一人の女」とはあえて無名化された女のことです。無名化されることによって、その人格そのものを代行する行為が浮かび上がるという仕組みが見えて来る。それは普遍化ということです。さらに言い換えれば、「わたしも、あなたも、女でなくても、この一人に人になる」という可能性の中に招かれている。つまり、誰でも、イエスさまのみ前で「この人」になるだろうということなのです。「名無しの権兵衛」は、私もあなたもなのだ。誰でもなれる可能性なのです。
 聖書的に云えば、「私の名前を捨てることによって世界中に記憶されていく私」になるのだという逆説の論理がここにあるのです。
 ヨハネ福音書の、このマリアとイエスの場面は、文学的に美しい。と同時に二人に焦点が絞られてしまって、強い官能性を覚えるのは、女の命とも言われる自分の髪の毛でみ足を拭うからではないでしょうか。
 香油を頭に注ぐというマタイとマルコ福音書には、じつは、もうひとつ、神学的な意味があります。それは王の即位を表す油注がれる者を意味しているのです。王の即位がそのまま葬りの準備であるという、それこそ言うに言えない劇的なドラマのクライマックスの舞台がベタニアなのです。そこは、いうまでもなく、ハンセン病からの解放、死からの甦りを経験したラザロの家だったのです。
 「この人」のひたむきな行為、忠誠、献身がナルドの香油だったのです。
 ひるがえって、私どもは、主のみ前に献げるべきものを持っているでしょうか。私ども一人一人のナルドは何なのでしょうか。私どもが捨てられないと思っているこの固有名詞としての名前を捨てる、捨てること、無名化することによって普遍性の中に招かれるというこの逆説の下に、さあ、出発しましょう。おそらくこれこそが、東日本大災害のみなさんの心に接近する想像力であると確信していす。
 祈ります。

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