地上でつなぐことは
マタイ福音書16章13〜20節
 百舌鳥八幡神社の蒲団太鼓祭りが近づいています。ニサンザイの広大な共同墓地のバス通りの両側にも、土師青年団の幟が立ち、夜ともなると、光る龍のような長い提灯の列が日常の風景のように町に馴染んできました。この牧師館の周辺の家々でも、中・高校生たちが夕方になるとそわそわし始めて、やがて誘い合うように公民館隣りの太鼓練習場に、向かって行きます。ドドド―ッドウードンドン。あの音は、おそらく土師人(びと)には、血と肉に食い込んでいる官能的な音楽なのでしょう。
 わたしの内部にはそういう音楽はありません。あえて言えば岩手県の南部牛追い唄であり、埼玉県の秩父音頭なのかも知れません。
 この周辺の方々は、殆ど天使幼稚園出身だったと聞いています。直接聞いた方もあります。が、それ以上の混み入ったことは聞いたことはありません。1度聞いてみたいのは、土師教会をどう思っておられるのか。あなたにとって祭りと宗教はどういう関係なのかということです。七五三は神社で、結婚式はどこかのホテルのチャペルで、葬式は寺で、といういわゆる日本教に包囲されたまま、私どもプロテスタント・キリスト教徒は、この「堺」という現場で、どう折り合っていくのか、(いけるのか)、あるいは、いかないのか(いけないのか)、常に考えざるをえません。
 先先週は、お盆という背景もあって、さらに、教会員からの要望もあって、仏壇、位牌、葬式、墓などについて、みなさんと一緒に考える機会を与えられて、土師教会が取り組むべき緊急の課題についても考えることができて感謝です。私は幼子二人の小さな骨壺を持ったまま、ここに赴任しました。教会墓地がない教会は、どうしたらよいのか、今、考えつつあります。
 もうすぐ秋、満月の夜の蒲団太鼓の大祭は9月29日になりました。旧暦の8月15日に合わせた土、日が祭りなので、毎年日が移動するのです。
 旧暦で誕生日を考える中年以上の韓国人の誕生日も毎年日が動きます。誕生日祝いをするのも大変です。土師にも旧暦がこうして残っているのです。
 さて、振り返って見ますと、8月5日からのこの一ヶ月間の宣教は、みなマタイによる福音書でした。マタイという強烈な福音書記者が書いた強烈な信仰告白、イエスはメシアである論が展開されていました。
 今日は、その最後です。マタイによる福音書16章13から20節、小見出し、「ペテロ、信仰を言い表す」。
 マルコ、ルカにも並行記事があります。ありますが、マタイ福音書独自の部分が今回も登場します。
 聖書の後ろの地図6「新約時代のパレスチナ」をご覧ください。南の死海、細いヨルダン川を遡って行くとガリラヤ湖がありますね。さらに遡って行くと、イスラエルの北端のシリアとの国境線近くに 
 フィリポ・カイサリアがあります。ここが今日のテキストの舞台です。ここはガリラヤ湖北東四十キロの地点です。ガリラヤ湖の水源地であり、水が滔々と溢れ流れる緑濃い土地であります。妻と私たちが訪ねたときも、あゝ、イスラエルにもこんな自然豊かな行楽地があるんだと嬉しく思ったものです。
 しかし、二千年前、この場所には、ローマ皇帝のための神殿やギリシアの神々の彫像が立ち並んでいました。いわば異教の神々の祭壇の地でもあったのです。イエスさまは、少なくても一度は、弟子たちを連れてここを訪れている。なぜでしょうか。
 エルサレムの支配者たちから絶えず付け狙われていたイエス様は、かれらから遠離って、この地方まで来る必要があった。マタイでは、13節、「フィリポ・カイサリア地方に行ったとき」と書いてある。マルコでは、「フィリポ。カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」。 ルカでは、場所については何も書いてありません。あえて、この異教の神々の祭壇を前にして、さらにこれから迫って来る危機的状況を前にして、イエス様は、弟子たちの信仰を確認しようとなさったのであり、
異教の神々との対決を新たに誓ったはずです。
 テキストは、その内容からすると、前半(13〜16節)と後半(17〜20節)に区分できます。その前半では、イエス様は、14節、「人の子は、何者か」と問う。これが主題です。後半の主題は、教会の基礎と権威の確認であります。この二つの部分を結び付けているのがペテロの信仰告白なのです。
 この前半の「人の子は何者か」という問いは、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちにお尋ねになったのです。弟子たちの直接の答えを要求していません。すると旧約聖書で育っているユダヤ人は、「洗礼者ヨハネだ」、 「エリヤだ」、 「エレミアだ」、「預言者の一人だ」と言ったと弟子たちが答えている。それぞれなるほどなあと思うものがあります。21世紀の日本人一般の人なら、どう答えるでしょうか。おそらく「イエス・キリスト」は、人名だと答えるでしょう。岸田一郎と変わらない、と。そして、「親鸞、マザー・テレサ、釈迦などのような宗教的に傑出した人物」、 あるいは、かなりイエスさまに関心を持っている人なら、「愛を貫いて生きた最高の人間」とヒューマニズムの観点から尊敬と敬意を込めて頌えるでしょう。みなさんの近所の方に同じ質問をしたらどんな答えが飛び出すでしょうか。
 テキストに戻ります。15節、イエスさまは、今度は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いは、あなたがたはわたしが直接に選んだ十二弟子だ。しかも寝起きをこうして共にして一緒に宣教もしてきた.各地へ派遣もした。あなたがた一人一人にとって私は、誰なのだろうか、と回答を迫ったのである。十二人の弟子の意味はすでに語っている。ではあるがかれらの信仰を確認しようとしたのです。すると筆頭格のシモンが答えた。
 すなわち、16節、
「あなたはメシア、生ける神の子です」と。
 おっちょこちょいで、素朴、それでいてまっすぐで素直なシモンは、あとで決定的なところで挫折しますが、そんなことは十分に見抜いていて、イエス様は、シモンに向かって次のように言い放ちます。17節、「シモン・バルヨナ(ヨナの子)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。「幸いだ」は、山上の説教と同じで、「祝福されている」という意味です。この正確なイエス・キリストという信仰告白は、人間の判断ではできない。まさしく父なる神が言わしめて下さったのであると、子なるイエス様は答えたのであります。
 そして、ここに続く18〜20節は、ここも他の福音書には登場せず、マタイだけに登場する個所なのです。おそらくマタイ福音書の記者が付け加えた場面でしょうが、大切な場面です。第一に、「教会」という言葉が現れる。福音書ではマタイだけに「教会、エクレシア」という言葉が登場します。福音書の原文はギリシア語ですから、アラム語をしゃべっていたイエス様がアラム語でなんと言っていたのかは、いまなお不明です。あなたの固い岩の信仰の上に教会を建てると宣言されたのです。18節続いて、「陰府の力もこれに対抗できない」、 すなわち死者が1度送り込まれたら二度と戻って来られない死の国も、教会には対抗できないと言うのです。これは死に打ち勝つ力が教会なのだと宣言しているのであり、イエス様自身の死からの復活を暗示している。感動的な場面です。
 しかし、注意すべきなのは、次のイエス様の約束の台詞です。十九節、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。ここに登場している「つなぐ」と「解く」は、当時のユダヤ教の裁判の用語なのです。現代語に訳せば、「繋ぐは禁止する」であり。「解くは、許可する」です。禁止と許可です。
ただし、問題は、「天の国の鍵」です。当時の人々にとっては、天国と地獄は恐るべき現実感があったはずです。その天国の門に入れるか否かは人生の最大の関心事であったことでしょう。ここに集っているみなさんは、どうでしょうか。やはり天国への切符は気掛かりでしょう。
 さて、ここで言う「天の国の鍵」とは何でしょうか。山上の説教以来、すでに学んできました。
「心の貧しい人々は幸いである、
 天の国はその人たちのものである」
 そうです。イエスさまの到来そのものがすでに天の国の開始なのです。教会の始まりなのです。つまり教会からの追放と入会をここは意味しているのです。
 にもかかわらず、カトリック教会は、二世紀頃、二千年も前に、この個所を根拠にしてペテロの信仰を継いだローマ教会の継承優先性さらにローマ法王の無謬性までを主張し、今なお主張しているのです。
 私たちは、カトリックと同じ神を信じるキリスト者でありますが、この部分の解釈は全く異なります。
 では、同じマタイ福音書を根拠にして反論します。
 マタイ福音書18章18節、35頁の下段をご覧ください。
 「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは」となっています。複数形なのです。十二弟子全員に向けられた言葉です。ペテロの継承件はここで破産します。続く20節をご覧ください。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。 ここを皆さんはどのように解釈しますか。私たちプロテスタントは、人数も少なく,教団も小さいですが、19節、「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」を根拠にして、どんな困難な時にも希望という名の確信に支えられて歩んで行きましょう。私たちのもっとも恐れるべきことは、ただ一つ、希望と確信を失って教会からさ迷い出て行くことです。教会こそイエス様の身体であり、教会からの追放は、イエスさまが決定することであるのです。私どもはイエスさまにすべてを委ねて歩んで行くことが仕事なのです。
 聞こえますか、「安心して行きなさい」
 祈りましょう。

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