毒麦が入った
マタイによる福音書13章24〜30節
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども
  風の音にぞ驚かれぬる

 秋が来たとはっきり目に見えるわけではありません。が、吹く風の爽やかさに、ああ、秋が来たのだなと気付かされるのです、よ。

 猛暑と蝉時雨が続いていましたが、二週間前から、わずかながら虫の音が聞こえて来るようになりました。秋の訪れを朝晩に感じるようになりました。
 百舌鳥八幡のお月見祭りが近づいて、土師と書かれた提灯の行列が今年も大通りを照らしだしています。祭り太鼓の練習の音がドドドドーンドーと鈍く夜の静寂に響いています。夏の終わりは秋の初めなのです。当たり前の事実がとても新鮮に感じられます。秋の風に驚かれぬる季節です。
  今日のテキストは、秋とは言っても麦の秋、麦秋が中心地点です。日本語で麦秋という言葉は、俳句の夏の季語であり、旧暦の四月、いまなら五月の初夏が浮かんで来ます。が、聖書の中では四季についてあれこれ述べているところはありません。単に、「刈り入れの時」と言っているだけです。イスラエルおよび地中海周辺のひとびとは、この単語だけで季節感を抱きしめるのかも知れません。
 さて、25頁の小見出しは、「『毒麦』のたとえ」です。「毒」という冒頭の修飾語が大きくのしかかってきます。毒悪、害毒、毒物、毒舌、毒口、毒手、猛毒、毒殺、「毒を食らわば皿まで」。 恐ろしいお言葉が一杯あります。
 もう止めます。
 毒麦ってご存知ですか。うん、あったなっていう程度ではないでしょうか。あったことはあったけれども毒麦食らわば、、、、と言う諺はありません。しかし、毒キノコとなると、十分注意しなければ危ないぞとなります。
 さて、譬え話というのは、とても大事なことを伝えるための類比ですが、イエスさまの譬え話は、とても大きな誇張になっているのが特長です。それはお話をおもしろくするための技巧でもありますが、それだけではなく、同時に話が大きければ大きいほど真実性が高まり迫力も増してくるのです。「『毒麦』の譬え」を挟んでいる「『種を蒔く人のたとえ』」と「『からし種』と『パン種』」のたとえ」も、同様です。ところが「毒麦」は、旧新約聖書の中で、マタイ福音書の13章(今日のテキストの部分)だけに登場してくるのです。何故なのかは分かりません。
 おそらく敵と毒麦と審きによって焼かれるというあまりにも単純な結末とその内容が受け入れられなかったのかも知れません。これもおそらくですが、この譬えの中心は、じつは、裁きではなく、おそらくテーマは微妙にここから逸れている処にあるのではないでしょうか。この辺りをご一緒に考えてみようと思うのです。
 そもそも小麦は、いつ頃から栽培されたのでしょうか。旧約の創世記41章48節によれば、兄たちに捨てられたあのヨセフがエジプトの宰相になって、七年間の豊作の間に穀物を備蓄して飢饉の時のために備えたという記事がありますが、あの穀物が小麦でした。小麦は、メソポタミアで紀元前4500年前にすでに栽培されていたことが発掘品から証明されています。麦類の中で小麦だけが、酵母を入れた時に膨らむのです。
 「パン」と「種を入れないパン」という主食として、二千年前のイスラエルでも大切な穀物でしたから、新約聖書にもたびたび登場します。一番知られている個所は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネによる福音書12章)でしょう。
 それでは、毒麦ですが、毒麦とはどんな麦なのでしょうか。じつは名前は、麦ですが、麦の仲間ではありません。イネ科に属しますが、雑草なのです。毒麦は麦畑に麦に紛れて入り込む雑草です。背丈も外見も似ていますが。よくみればまったく別物なので成長したら見分けがつきます。栽培技術がおそらく劣っていた紀元前のエジプトやパレスチナではたくさん生えていたのでしょう。日本には明治以降入って来た帰化植物です。私の子どもの頃(戦後)の記憶とかすかに結びついています。実は落ちないので、収穫時に箕で選り分けるのがむずかしいのです。
 和名(日本語名)の「毒」という修飾語が強すぎて禍禍しく厭な毒物のように思われがちですが、それほどのことはありません。葉鞘が赤紫色、実に付いた菌が有毒のアルカロイドを分泌することがあるそうです。
現在の日本では、ほとんど問題がありません。
 が、今なお、ヨーロッパと小アジ(聖書で言うトルコの大部分)の麦畑には見られるようです。
 13章の36節〜43節までは、「『毒麦』のたとえの説明がなされています。
 イエス様はお答えになったのです。
 「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことである。刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」
 当時、世の終わり、つまり終末は目の前に来ているという切迫感があったのは事実であります。だからいつ終わってもいいように、主の再臨は期待して待たれていたのです。その覚悟で過ごしていたわけです。
 イエスさまの発言を聞いていると、とくに山上の説教が典型的ですが、イエス様がいらっしゃったことがすでに神の国の到来でもあったのです。

 心の貧しい人々は幸いである、
 天の国はその人たちのものである。

 という断言は同時に祝福なのであります。ということは、「あなたがたはすでに神の国の住人なのだ」とおっしゃっている。
 イエスさまの言葉は、いつも、迫害の予兆と逮捕される可能性の緊張感の最中での、発言です。イエス様の言葉は二重性を帯びていて、立体的に組み合わせられているのです。二千年かかって、今なお疑問が提出されたり、新しい解釈がなされたりしている。
 とすれば、この毒麦の例えもそんなに気楽には解ける話ではなさそうです。聖書にかかれている通りでもあり、同時にそうでもない。というと、ややこしい。幼子にも分かるはずではないかと反論されそうですが、幼子にも分かるということは、大人にも分かるということなのです。つまりそれぞれの人生の段階において理解される不思議な内容なのです。
 では、あんたはどう理解したのだと問われるでしょう。答えます。
 26節をご覧下さい、「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」とあります。つまり、芽が出た段階では、小麦と毒麦の見分けは付かない。成長期にも見分け付かない。実ってみて、あっ、毒麦だったと分かるのです。人間の関係もそうでしょう。初めから悪い奴だと分かっていたら、遠ざけるでしょう。あるいは警察や裁判所に訴えるでしょう。人間の現実はそんなに甘くない。誰が誰なのか、分からない。正体が知れない、みんなちゃんとした市民だと信じ込んでいたらとんでもない事故が犯罪が裏切りが起こるのです。
イエス様の十二弟子の中からさえ裏切り者が出る、いいえ十字架刑の決定的な苦しみの時誰も主の前にはいなかったのです。蜘蛛の子が散るように、逃げてしまったのです。
 わたしの中の私が裏切る。わたしの最大の敵が私になるのです。自分は清く正しい善人であると確信している人が、自分の中にある悪について無自覚である場合が多い。実りの時まで分からないのが人間の現実であり、悲劇なのでしょう。善悪は別物ではなく、自分でも善悪の区別がつかなくなるのです。
 えっ、私が毒麦だって なんということだ どうしたらいい 安心なさい 刈り入れ時まではもうちょっと猶予がある さあ どうするか ここで 本気で立ち止まり 踏ん張らなければ ならないのです
 人間の歴史の現実は、このような危なっかしいものです。歴史のリアリズムは、仮面なのか肉面なのか区別が付かなくなってしまうのです。もちろん聖書が明言しているように悪い者たちは焼き滅ぼされるのですが、その前に自分が何者なのか分からなっていく可能性をどうお考えですか。
 この悪と善の共存の事実を神さまは自覚させようとしているのではないでしょうか。これがこの譬え話のほんとうのテーマだと思います。でなければこんな単純な譬えをわざわざ福音書に載せなかったと思います。そして誤解されるのを恐れて、マタイ福音書にしか残されなかったのだと思うのです。マタイ福音書の記者は、誤解を恐れずに人間の現実から目を逸らさなかった。しかも審きを信じていた。
 だから30節、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて蔵に入れなさい」と主は言ったではないでしょうか。最終段階では申し開きができない。
なぜ実りの刈り入れ時までに、自分が毒麦になってしまったのかが分からなくなっていたら、もう遅い。
 これは、毒麦が入った譬え話でありますが、同時に、この私が毒麦になるかも知れない譬え話でもあるのです。すなわち、人間の責任の重さを思い知らされる譬え話なのです。最後の最後まで人間としての尊厳と責任を貫いて、自分を見詰めて、生きて行かねばならない。兄弟姉妹の悪を見つけたら心を込めて反省を促さなければならない。
 あえて言います。自分が何者なのかも分からなくなる運命を描き切るのが文学です。
 一方、自分が悪人になってしまった事実を悔いて、神の前にひれ伏し、赦しを乞うのが宗教なのです。
 私どもは、悔いることができる人間でありたい。実った自分がどんな実を実らせたのかしっかりと見詰める人間になりましょう。
 今がその決定的な時です。主の赦しがそのまま祝福であることに気が付いて、御名の栄えために身を献げる時なのです。
 祈りましょう。

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