休ませてあげよう
マタイによる福音書11章25〜30節
 去年三月中旬にこの土師教会に赴任するまで、妻と私は、埼玉県新座市にある日本キリスト教団ベウラ教会の会員でありました。ベウラとは、旧約聖書に登場してくる「神の宿る場所」という意味であります。もともとは東京板橋区にあった教会ですが、都市開発計画に引っかかって、埼玉県に移転して着た教会です。小さな教会であり、会員数もこことほぼ同じくらいですが、板橋区に残った会員や元会員などが多数いらっしゃって、毎年クリスマスになると七十名くらいの信徒が狭い二階の会堂に犇めきますので、身動きができなくなります。
 さて、今日のテキストはお馴染みの場面ですが、ここに展開されているイエス様の言葉にまっすぐに反応した、ある人物がベウラ教会のユニークな会員の一人になりました。その人の名前は、Sさんと申します。見たところ五十代前半です。筋骨逞しいずっしりした日焼けしたからだ、少年のような丸顔の童顔、白い歯、じつはその歯が何本か欠けたままです。直す気はないようです。独身。
 さて、何を生業として暮らしているのでしょうか。たまに夕方、わたしの好きな新座駅前のうどん屋の暖簾を潜るのを見掛けました。うどん屋を出るとまっすぐに教会に帰るのです。
 あれ、石川喜一牧師さんか。いいえ、そこはSさんの住まいなのです。
 もう三十年も前になります。Sさんは、福島県の山また山の奥只見にある村に生まれました。人となる少し前に、東京に出てきました。父母家族のため懸命に働きました。昼も夜も働きました。しかし、どんなに働いても願っていたほどの稼ぎにはなりませんでした。真面目に働けば稼げるという時代はすでに曇りがちになっていたのです。自慢の身体にも限界があります。疲労に疲労を重ねて、体調を崩します。酒も煙草もたしまない青年は、だんだん失意と病に囚われていったのです。ある夕方、ある建物の看板に、今日のテキストにある聖句

 疲れた者、重荷を負う者は、
 だれでもわたしのもとに来なさい。
 休ませてあげよう

 が黒々と墨書されていたのです。不思議な言葉でした。こんな言葉を今まで見たことも、聞いたこともない。「わたしのもとに」の「わたし」って誰なのだろう。「休ませて」って、何時間ぐらいだろう、などと考えてみましたが、よく分からない。
 とにかく休みたいのはほんとうだ。休ませてくれるなら、願ったりかなったりだ、と、思ってその建物の中に入りました。出てきたおっちゃんに、「重荷を取ってもらうには、いくらお金がかかるのですか」と聞きました。「無料ですよ」。 「ええっ、無料!」
  これが、Sさんと教会の出会いでした。それ以来Sさんは、教会を自分の家として寝起きし、そこから仕事場に通っているのです。給料は全額献金しているようです。礼拝は、もちろん、欠かしたことはありません。石川喜一牧師の側にいるだけでいつも安心し切っているのです。
 ひるがえって、私ども一人一人は、初めてこの個所に出会ったのはいつだったでしょうか。覚えていますか。Sさんのような劇的な信仰への飛び込みはなかったにしても、この個所からどんな衝撃を受けたでしょうか。
 今日のテキストの一つ前は、「悔い改めない町を叱る」という小見出しであり、イエス様が最初に伝道したガリラヤ湖周辺の町が登場するのですが、厳しい警告がなされています。21節「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と言い切っています。
イエス様が病気を癒し、奇跡を行った各町で、なお信じようとしなかった者たちに対する裁きの言葉です。手軽に手に入る甘い救いなんてないと断言している。本気で救いを受け入れない人々への断罪です。
 この世から捨てられ、差別され、蔑まされて悲しんでいる人々の只中に、イエス様は訪れるのです。だから、今日の個所は、あらためて「わたしのもとに来なさい」と呼び掛けてくださっているのです。二五節「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言っています。「これらのこと」とは何でしょうか。
山上の教え以来一貫している「神の国」のことです。「知恵あるものや賢い者」とは、当然支配層であるファリサイ派や律法学者たちを指しています。彼らは自分の知恵や知識や行為や判断力を誇ることによって、逆に自分の存在を限界付けてしまった。イエス様の言葉に耳を傾けて、自分を開くことができない。救いは、あちら側、外側から、闇を照らす光のように訪れて来るという事実が分からない、見えない人々なのです。つまり自分の可能性を自分を誇ることによって閉ざしてしまう人々なのです。
 では、「幼子のような者」とは、何を指す
のでしょうか。幼子が両親を疑いなく信じているから階段からも両親の胸に飛び込むように、イエス様を素直に受け入れ従う人々を指している。が、支配層から見たら価値がない人々なのです。が、主はこれらの人々に惠みを与えています。これが父のみ心なのです。
 その父についてイエスさまは、くどいくらいていねいに説明してくださっています。二七節、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知るものはいません」。 この中の「子が示そうとする思う者」とは何を指しているのでしょうか。み子であるイエス様がご自身のことを証しする者としてお選びになった者のことです。すなわちキリスト者である私ども、教会に連なる私ども一人一人なのです。イエス様が私ども一人一人をどんなに深く温かく身元に招いて下さっているかを噛み締めたいと思います。
 この事実を前提にして、28節がせり上がってくるのです。クライマックスです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
  ベウラ教会のSさんでなくても、苦難の中にあって救いを真摯に求めている者なら、この言葉に、ほんとうだろうかと瞬時戸惑いながらも立ち止まって、心を静めておそるおそる見知らぬ「わたし」に近づいて行くでしょう。イエス様がこの言葉を唇に上せた時、伝道に燃えていた十二弟子たちは、当然耳を傾けた。しかし、ほんとうに身を投げ出したのは、ガリラヤで、復活したイエス様に出会ってからのことであったのです。
 18章18節、60頁をごらんください。「イエスは近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている』」と。まさに「幼子のような者」にのみイエス様の権能が伝わり迫ってきたのです。
  私どもも地上の生にさよならするとき、学歴や業績によってではなく、信仰暦のみによって葬儀がなされるのと同じであります。十二弟子たちは、復活したイエス様の前にひれ伏して、初めて、イエス様がどんな方であるのかを理解できたのであります。そこから地の果てまで行けと伝道派遣がなされたのであります。
 二九節以下を追っていきます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 
 この28節から30節は,他の福音書には登場してきません。この個所は、イエス様の言葉がいかに行動と結びついているか、を語っています。この個所の背後には、後に語られる二三章四節が控えているのです。四五頁上段、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と。この場合の彼らとは、言うまでもなく、律法学者たちやファリサイ派の人々のことです。
 さて、軛は、旧新約聖書に十六回も出てきます。ご存知のように、二頭の家畜の首を固定させて、車や鋤きを引かせる頑丈な横木のことです。肝心なのは、二頭でなければならないことです。
 言うまでもなく一頭は、イエス様御自身なのです。軛を共にするということは労苦を共にすることです。私どもの苦難を共に担ってくださるイエス様、というよりは、正確に言えば、私どもが担おうとしても担い切れない苦難を担ってくださったイエス様を見上げる時、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」というイエス様の言葉が真実として迫ってくるのです。イエス様があの十字架で負ってくださったものこそ私どもの罪であったことが今なら分かわかるのですが、歴史的イエス様が語った当時、分かったはずがありません。私どもに今与えられている「安らぎ」は、この軛のイメージからまっすぐに来ているのです。
 遠藤周作さんのイエスのイメージは、同伴者イエスです。私は、基本的に共感しています。二頭の家畜から成り立っている軛のイメージは、まさにイエス様と私の姿なのであります。労苦する時のもっとも信頼する同行者でありますが、ほんとうのほんとうは、イエス様がただ一人で担ってくださっているのです。この事実を知ったら、どうして信じずにいられましょうか。コラジンもベトサイダも神が訪れてくださったにもかかわらず、受け入れなかった、神の言葉に接したにも関わらず、聞いていなかったのであります。
 マタイによる福音書は、徹底してユダヤ人同胞を視野に入れて、救いを述べ、伝えているのですが、聞き従う機会を逃し続けている現実が描かれております。
 他人事ではありません。
 私どもの日常は、いつもたくさんの苦難を抱えこんでいます。外交問題一つとっても、領土問題では、北方領土、竹島、尖閣列島、拉致問題、沖縄の基地問題、なんという不甲斐なさでしょう。国内問題は、福島原発を始め、山積しています。
 私どもの日常でも、家族の病気、介護、老いていく一日一日、体力の衰えなど数えたら切りがない。
 にもかかわらず、私どもは祝福されています。生きる喜びを与えられています。カボチャの大きな黄色い花の中に羽音立てて潜り込む蜂のように、神さまの招きの言葉を食べて猛暑にめげずに前進しましょう。

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