よろしい清くなれ
マタイによる福音書8章1〜4節
 二泊三日と短期間でしたが、広島と長崎の原爆投下の67年前を覚えながら、長崎県の沖にある五島列島を巡ってまいりました。長崎から西へ、ジェットホイルという高速浮上艇で約二時間かかります。上と下嶋がありますが、とくに上五島町には二八の教会があります。上五島嶋の25lがキリスト者です。ただし、ご承知のように、明治初期までキリスト教は邪宗として排斥され、キリスト者は蔑まれてきました。いわゆる切支丹の嶋です。農業、漁業に携わってひたむきな信仰を生きて来たのです。ペテロの後裔として、漁民に染みこんだキリスト教である事実から、学ぶべきものがきっと沢山在るだろうと思いましたが、あまりにも短い旅でしたので、今後の課題として考えて行くつもりです。大漁旗とキリスト教と日本と思い浮かべるだけで、わくわくしてきます。鉄道がない嶋のガソリン代は高いのですが、バスの一番先頭席に突っ立って、現地のバスガイドさんが熱い心で語り伝えてくれる嶋の生活を、時には笑い転げ、時には切なくなりながら、離島の歴史と暮らしについて考えさせられました。手つかずの自然ではなくて手をつけようにも手がない過疎化した限界集落の暮らしが迫って来ているのです。三百年以上も差別の下に置かれてきたキリスト教徒の忍耐力と絶えることのない祈りの力にも励まされました。
 さて、今日のテキストは、もう十回以上も聞いた場面だろうと思います。今回は、先週の山上の教えの続きとして読んでみましょう。平和を実現する人々は、幸いである、という聖句がきっとマタイの山上の教えの核心であろうと学びました。そしてここに、共に立ち上がろうと呼び掛けるイエス様の御心があることを確信しました。山上の教えは、イエス様と共に既成の通念や価値観を超えて行くための行動の指針であり、社会変革の壮大な企てなのであるというところで先週の宣教は終わりました。
 では、今日の「らい病を患っている人」とイエス様の関係について考えます。まず新共同訳の「らい病」という表記の仕方に問題があります。「らい」という平仮名表記は、一体何を語っているのでしょうか。明らかに日本キリスト教のハンセン病に対する無知丸出しの表現です。フランシスコ会訳は、もっと良心的で、小見出しは「重い皮膚病患者の治癒」となっています。東大系は大胆に「ハンセン病」と書き記しています。これは、旧約レビ記の「ツアラート」は、現代の「ハンセン病」と訳すのが適当であるという判断に基づいているのです。現代では、医学的にも法律的にも「ライ病」ではなく、「ハンセン病」という言い方が正しいのです。平仮名表記の「らい病」は、明らかに差別的です。
 私たちのごく身近な所で、多くの差別語(あるいは差別的発想)が生き残っています。これらは、指摘されないかぎり気が付かないものなのです。一番危険なのが無自覚な無意識による、しかも善意溢れる差別行為なのです。ましてや二千年前のイスラエルにおいては、レビ記、列王記、歴代志で描かれている差別と汚れ、それらにたいする清めの記事など、現代の私どもには到底考えられない人権無視の領域がたくさんあったのです。現代においてさえ差別の問題は終わっていません。子どもたちの陰湿な残酷ないじめの奥底には、明らかに差別が潜んでいます。
 大人の場合にも、みんなと歩調を合わせないと排除されていくことが多くなりがちです。排除か同化かという問題にも差別が潜んでいるのです。「汚れ(よごれ)」と「汚れ(けがれ)」は、二つとも同じ漢字表現ですが、「汚れ(けがれ)」は、とくに宗教的意味合いが入って来て、呪われているという暗く恐ろしい意味を引き摺り出します。しかも「汚れ(けがれ)」と「清め」は対になって、儀式化されるのです。東西変わりません。
 二節、「一人のライ病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して」は、一般市民に近づくことが禁じられているにもかかわらず、必死になって癒されることを信じて、つまりイエス様の不思議な癒しの力を信じて、禁忌(タブー)を破った行為があります。イエス様もまたタブーを破った。三節、「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」たのです。
 イエス様は、その後でユダヤ教の清めを守るのです。なぜなら清めの儀式に従うことが、一般市民の中に回帰できる方法だからです。もとライ者が市民権を回復することが共同体への復帰になるからです。
 この一例を見れば、イエス様がどのようなかたちで社会の変革を企てたのかが分かります。タブーを破り、同時に律法を完成させて行ったのであります。これが武士道ならぬイエス道なのです。
 じつは、ご紹介したい詩人がいます。みなさんは、去年の今頃亡くなられた桜井哲夫(一九二四年青森県北津軽郡鶴田町妙堂崎生まれ、享年八七歳)さんの名前をあるいは聞いたことがあるかも知れません。哲夫さんを妻と私は、「哲っちゃん」と呼んでいました。重症の元ハンセン病者です。彼が、小学校を卒業したあと、中学在学中に発病しました。十七歳で群馬県の栗生楽泉園に入園します。その頃を振り返った詩、「天の職」を、お手元に印刷してあります。

  お握りとのし烏賊と林檎を包んだ唐草模様の紺風呂敷を
  しっかりと首に結んでくれた
  親父は拳で涙を拭い低い声で話してくれた
  らいは親が望んだ病でもなく
  お前が頼んだ病気でもない
  らいは天が与えたお前の職だ
  長い長い天の職を俺は素直に務めてきた
  呪いながら厭いながらの長い職
  今朝も雪の坂道を登りつづける
  終わりの日の喜びのために

 哲っちゃんは五〇歳になって突然詩を書きはじめたのです。それまではずっと空を行く雲を眺めていたと言っていました。全盲の哲っちゃんがどうやって雲の形や雰囲気を感じていたのか不思議ですが、詩人になる予感の中にいたのかも知れません。哲っちゃんは、目明きの人と将棋をするのが好きで、しかも負けたことがありませんでした。楽泉園に入園した1年後、18歳で失明するまでに見た世界(自然と社会)を完璧に頭に入れていたこと、故郷津軽、家族、友人たち、好きだった本、漢字と平仮名、片仮名すべてがその後生き生きと役だって活動するのです。ですから将棋盤も教えてもらって覚えた。縦横線を引いて一齣一齣を置いて時間を掛けて勝負したこともあったようです。電話での勝負は一戦一ヶ月かかることもあったようです。
 哲っちゃんは背が低くて小柄です。すでに述べたように全盲です。初めて会った時。「あなたは背が高いですね」と言ったのでびっくりしました。哲っちゃんには、なんでもないことです。声が上から降りてきたので、背が高いとごく自然に分かったのです。哲っちゃんのからだは皮膚感覚が破壊されていたので、ガスコンロに手をかざして指が火傷していても分からない。声を発するのは喉切りになっているので私どもの五十倍のエネルギーが必要でした。ですから、会うときには、哲っちゃんの最後に皮膚感覚が残った場所、おへそにわたしの人差し指を突っ込んで「こんにちは、お元気ですか」と挨拶していました。
 彼はカトリックです。楽泉園の中には木造建てのカトリック教会があるのですが、年年亡くなっていくので、ついに誰も来なくなってしまいました。からだが不自由になり足を運べなくなっていったのです。ある秋に訪れた時、教会の立て看板に貼られたは紙には、
 「福音の反対語は差別である」
と書かれていました。
 彼の洗礼名は京都のラザロです。本名が分からない信徒でした。本名を奪われつづけた桜井哲夫さんらしい逆説的な洗礼名です。
 彼は、時々、
「俺はライになってよかった」
と言うのです。どうしてだろうかと思いました。すると、
「もしライにならなかったら、勉強好きな俺は、きっと中学校の先生になって、まじめに仕事して、今頃は引退して悠々自適な生活をしているだろうなあ。ハンセン病者の苦しみも、世界の差別構造も戦争の愚かさも分からず、ほんとうの神さまにも出会えずに、海外に行くこともなく、平々凡々に人生を終えていただろう。」
と言ったのです。
 ある年、哲っちゃんは、タイのライ療養所まで出かけました。タイの患者たちの経済的自立を可能にするため、それまでこつこつと貯めたお金を資金にして、鯰の養殖をして経済的自立をして下さいと伝えるための旅でした。私が、哲っちゃんの健康を思んばかってタイ行きを大反対したのですが、颯爽と出かけていってしまいました。
 妻と私が1999年から2000年にかけての一年間、韓国の釜山の大学に滞在した時、哲っちゃんは、韓国まで尋ねてきました。釜山にはハンセン病の専門の医者がいないので万一のことを考え韓国訪問にも反対したのですが、もしものことはいつも覚悟しているので問題はない、と、言ってほんとうにやってきました。そして大学を訪問して、「桜井哲夫の詩と哲学」という講演と授業を堂々とやり終えたのでした。最後には、自分の英語版の詩集を携えて、ローマ法王の謁見に招かれて、バチカンまで飛んでいったのです。
 哲っちゃんが残した詩集は何冊もあります。関心のあるかたはパソコンで探してみてください。
 最後になりました。皆さんは、オジギソウという小さな可愛い草をご存知でしょう。あの含羞草です。
 桜井哲夫という元ハンセン病患者が残した傑作「おじぎ草」を紹介いたします。

    おじぎ草
  夏空を震わせて
  白樺の幹に鳴く蝉に
  おじぎ草がおじぎする

  包帯を巻いた指で
  おじぎ草に触れると
  おじぎ草がおじぎする

  指を奪った「らい」に
  指のない手を合わせ
  おじぎ草のようにおじぎした

 この詩の鑑賞は、どうか皆さん一人一人でなさってください。カトリック信仰を生ききった哲っちゃんが私たちに残してくれたおじぎの意味は読む度に深まっていくのです。
 じつは、詩人・桜井哲夫は、彼の詩作品を通して、あるいは各地訪問などを通して、とっくに社会復帰をしていたのです。
 祈りましょう。

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