喜びなさい
マタイによる福音書5章3〜12節
 猛暑が続いています。熊蝉の大音声さえ、あまりにもの暑さのせいで、時折弱まってしまうほどです。日本列島全体が亜熱帯化しつうあるのではないか、近年中に、大阪府が和歌山県を凌いで蜜柑の名産地になってしまうのではないか、と、思うほどです。
 毎朝必死になって、花木と野菜に水撒きをしますが、たちまち渇いてしまいます。さすがに歳のせいらしく、昼日中外出するのは苦痛になっています。
 猛暑は、八月六日と九日の原爆投下を、十五日の日本の敗戦を私どもに想起させます。その後の食糧難を、サツマイモとカボチャとコッペパンと学校給食に出た脱脂牛乳を想起させます。
 今年の夏は、広島、長崎を、心に刻み込ませるだけではない。特に、国民の脱原発の声に謙虚に耳を傾けずに、原発再稼働という犯罪を始めた夏として歴史に刻まれる年になるでしょう。ご存知のように、日本キリスト教団だけではなく、多くのプロテスタント諸教団、さらにカトリックも、正式に脱原発声明を発表して、脱原発をどう実現するか模索しつづけています。
 さて、小学校の国語の教科書にも載っている原民喜の詩「コレガ人間ナノデス」をお読みになった方も多いでしょう。短いので紹介します。

  コレガ人間ナノデス
  原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
  肉体ガ恐ロシク膨張シ
  男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
  オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
  爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
  「助ケテ下サイ」
  ト カ細イ 静カナ言葉
  コレガ コレガ人間ナノデス
  人間ノ顔ナノデス

 原民喜は、朝鮮戦争でトルーマン大統領が再び原爆をアジアに投下するのではないかと危惧しつつ、1951年(昭26)、 47歳で東京の中央線に投身自殺をしました。
 そして、チェルノブイリ、福島と原発による大災害がつづきました。政権が、その責任を本気で自ら問うこともなく、問われても本気で取り組むこともない。それどころか住民から大地を奪い、難民化させたまま、原発を再稼働させていいはずがありません。神さまは、ご自身が、地球の管理権を委ねられた人間の責任を問い、今、怒っておられます。
 さて、今日のテキストは、モーセに代わるイエスさまの伝道活動宣言の場面であります。モーセがシナイ山に登ったように、イエス様は、ガリラヤの小高い山に上って、神の国に招くための新しい律法を伝えたのであります。
 十戒は、戒めと規律であり命令でありますが、マタイ福音書の山上の教えは、イエス様による民衆への祝福なのです。ただし、素直にそのまま頷けるような教えではなさそうです。耳に心地良いものではなく、むしろ衝撃的で刺激的な挑戦的なものの言い方であり、戸惑いさえ起こさせる内容なのです。理屈っぽく言えば、イエス様は世俗的な価値を捨てよ、ならば神さまはあなたがたを祝福される、と、主張している。
 この山上の教えは、ルカ福音書の六章でも展開されています。なぜかもっと古いはずのマルコ福音書には登場しません。後のヨハネにも登場しません。
 一方、マタイとルカでは、二人の論の立て方、発想の仕方が違っています。ルカのほうは直球であり、マタイのほうがより焦点を絞って表現に微妙で意識的な気の遣い方が見られます。
 なお、12節、「喜びなさい。大いに喜びなさい」がフランシスコ会訳では、端的に「喜び踊れ」となっています。この訳のほうが楽しいですが、意味は同じです。新共同訳では、「喜びなさい」は、四回登場しますので、宣教題として選ばせていただきました。
 冒頭の3節、「心の貧しい人々は、幸いである」。 ここの解釈が難しいですね。「心の」と前置きをされると、ついつい近代的個人主義的な、ヒューマニステックな解釈に陥り、(精神的に謙虚な人々)と受け止めがちです。ああ、それなら分かる、と、納得しやすい。実はそれが落とし穴です。誰も反対しない。誰もがそりゃそうだと、答える。そして誰も傷付かない。
 それでは、ルカ福音書はどうかというと、6章20節「貧しい人々は、幸いである」と、直球、明解、ずばり言い切っている。圧倒的多数派の経済的に追い詰められていた貧民、絶対的貧困者は、イエス様から何かお惠みが欲しい、腹一杯になる食べ物を真っ先にくれとせがんでいる。にもかかわらず、イエスさまは、この要求に直截的には応えようとはしない。予想外にも、「貧しい者たち、貧民は祝福されている」と言い放った。
 「祝福されているだと? 馬鹿にするな。わしらにも誇りがある。今の台詞を撤回せよ、無礼ではないか」と言って、民衆はイエス様に詰め寄ろうとした。さらにイエスさまは、ルカ福音書でこうも言った。「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている」と。
 今度は、金持ちたちが激高。「何だと?。俺たちを呪う気か。ただでは置かない」と。貧困者も金持ちも激高した。そして、その後、彼らは、考え込んでしまった。
 貧しい人々はさらに考え考えた。そして、「これはどういう意味だろう。貧困からの脱出の方法をこれっぽっちも教えてくれない。わしらが祝福されている?。神の国はわしらのものだって?。これはいったいどういうことだ?」。 
 驚き、そして、もしかしたら、という疑問。長い沈黙、小さな、静かな、喜びの声、やがて歓喜が彼らを襲った。人々から貶められ、嫌われ、捨てられ、無視されてきた貧困者や障害者たちを襲った嵐のような喜び。それは世俗的、現実社会の一般的価値観をひっくり返したイエスさまの、不思議な力に満ちた、謎の言葉が、全身を優しく包んだからであります。「まだよく分からないけれども、わしらは、祝福されているのだ。万歳」。 踊り出したくなったのでした。
 一方、金持ちらは、不満と怒りで全身が煮えくりかえっていました。取り残され、燻った暗い怒りに包まれて、秘かに、「このままにさせておくものか。見ていろ」と捨て台詞を吐いて去っていったのでした。
 これがルカ福音書の世界です。
 おそらくマタイ福音書はその後に書かれています。テキストの5章3節をもう一度ご覧ください。「心の貧しい人々は幸いである」。
 マタイは、山上の教えに関する資料や伝承を編集しながら、考えました。イエス様の周りに集まったのは圧倒的多数派の絶対的貧困者だけではない。金持ちやインテリや支配層のエリートもいた。ならば経済的貧困者であるかどうかを越えて、「心の貧しい人々よ」とイエスさまは呼び掛けたに違いない。その時、「精神的に謙虚な人々」という解釈はそこに止まらないはずだ。じつは誰に対して、何に対して謙虚なのかが肝心なのだ。もちろんユダヤ人にとっては唯一なる神に対して謙虚であるか否かである。「神に対して謙虚な人々は祝福されている」という文脈なのです。
 そうです。マタイが伝えようとしたメッセージは、こうして貧民と金持ちの区別なく、すべての人、万民を対象にして語られたイエス様の教えとして書き記されたのであります。
 山上の教えという視点に立つとき、ルカ6章17節によれば、112頁、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」という表現に注目したいと思います。モーセよりもずっとさばけた、民衆の呼吸とご自身の呼吸とを常に通わせているイエスさまを感じませんか。
  一方、マタイの荘重な厳粛な語り口は、やはり福音書の冒頭を飾る貫禄に満ちています。
 マタイはユダヤ人として新しい正統な道を歩もうとしています。まっすぐにユダヤ人に語ろうとしている。このユダヤ人にイエス・キリストを証ししようとするマタイのひたむきな信仰と熱情が伝わってきます。福音書は、福音書記者のそれぞれの視点と位置が濃厚に見えてくるので、いっそう立体的になり、福音の奥行きの深さに気付かされるのです。福音書は、読む度に新しい発見と驚きがある人生の書なのです。
 さて、マタイに登場しながら、ルカに登場しないものが、テキストの9節であります。
 「平和を実現する人々は、幸いである。
  その人たちは、神の子と呼ばれる」
 みなさんには、お馴染みのヘブライ語「シャローム」は、「平和」という意味です。聖書に馴染みみのない人には、これは挨拶の言葉で「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などと、いつでも使える便利な挨拶言葉ですよ、と説明したりします。韓国語の「アンヨンハシムニカ」が、元来「安寧(アンヨン)ですか」という意味で、いつでも使える挨拶語であるのと同じであります。
 聖書の「平和」が、調和、安寧、健康、回復などを意味している理由は、その根底に神と人間との平和な関係が成り立っていることを前提にしているからです。
 ならば、
「平和を実現する人々は、幸いである。
 その人たちは神の子と呼ばれる」
 というこの聖句は、じつに重い真理であり、マタイがきっともっとも言いたい核心なのであります。平和が嫌いな人はいない。平和愛好家も一杯います。
 が、ここで言われているのは、「平和を実現する人々」であります。マタイもルカも「人々」と複数表現です。個人主義的なやりとりや発想のレベルの問題ではありません。
 脱原発を叫ぶ所までは行けます。その後がたいへんです。その後から実現まで、そこから抱え込む膨大な仕事を一つ一つ積み重ねて、つくりあげていくこと、これは平和愛好家クンや平和批評家クンが上手く立ち回って逃げてしまう部分です。この部分こそ、実現への段階なのです。マタイは、この全過程(全道のり)を含めて、「平和を実現する人々」と明記した。これこそ共に立ち上がろうと呼び掛けたイエス様の御心なのです。
 今日学んだように、山上の教えとは、世俗的価値観をひっくり返す現場から始まるのであります。神さまと共に歩む時に、襲いかかってくる迫害、その時、「喜びなさい、大いに喜びなさい」という主の言葉に励まされ、外側からは見えない内なる充実感に満たされるのです。
 山上の教えは、主イエス様と共に既成の通念や価値観を越えて行くための行動の指針であり、社会変革の壮大な企てなのであります。
 祈ります。

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