基礎が固まって
使徒言行録9章26〜31節
 25日、水曜日の朝、この日も小鳥たちの声で目覚ました。が、あのかわいらしい雀の声ではありません。あのチューンチッチチイーオという歌声の主は、と、探していますと、電線にしばらく安らいでいるタキシードが目に止まりました。若々しいコーラスの練習と長い長い旅への準備をしているようでした。ぼくもいつの日かタキシードさんの国へ、高山右近の国へ行って見たいと思い詰めた青年期を突然思い出しました。1960年代の初期、一般日本人が海外へ出かける機会はまだなかったのです。海外渡航ビザは夢のまた夢だった。あの頃をなつかしく思い出しながら、タッキーたち、無事に海を渡れ、と、思わず応援して大きな声を出してしまったので、変なお爺さんとばかりみんな飛び去ってしまいました。それでも心地良い気分で、パンとコーヒーを楽しんだ朝になりました。
 が、明治時代以前までは、旅は苛酷なものであって、だからこそ可愛い子には旅をさせよと言われてきたのです。旅は、辛く苦しくそれだけ喜びも一入であって、人生の象徴であった。
 私どもキリスト者の大先輩・パウロは伝道者としての旅の人生を世界の果てまで目指した人物ですが、その最初は、キリスト者弾圧のために武装した一団を引き連れた砂漠の道、ダマスコ(ダマスカス)への旅だったのです。が、それが、パウロの回心への道行きになったのであります。
 パウロの回心の舞台は、そのダマスコへの道でした。現在の中近東のシリア、その首都がダマスカス(世界でもっとも古い都市の一つ)です。シリアと言えば、アラブの春すなわち民主化の嵐が吹き荒れた地の一つであります。現在、悲惨な内戦が展開されています。
 さて、イスラエルとシリアは、憎しみ合う隣国同士であり、その背後にロシアとアメリカが控えていることは、皆さんがご承知の通りです。ですから国連も手詰まり状態なのです。ロシアと中国が拒否権を行使するからです。
 シリアのアサド政権を支えている人々は、イスラムの中の少数派のアラウイー派10lであり、シリアの十lと言われるキリスト教徒もまた、複雑です。その構成は、非カルケドン派シリア正教会、東方正教会のアンティオケ総主教庁、マロン派の東方典礼カトリックです。私でもよく分からないのです。あえて一言で纏めれば、シリア独自のキリスト教と思えばよいでしょう。その他ユダヤ教徒もいますから、政教分離政策です。
 古代から現代まで、南北の大国に挟撃されて苦悩してきた小国であります。現在では、大国の国益に利用され翻弄されているというのが真実に近いと言ってもよいでしょう。
 ところで、北朝鮮とシリアが親密であることもご承知でしょう。武器で結び付いているのです。北朝鮮は、国民が飢えているにもかかわらず、あるいは飢えを脱するために、武器輸出国であることも悲しい事実です。三年前、イスラエルが武力で奪い取ったゴラン高原の軍事基地地域を車上から見学しました。シリアが狙っているのは、ガリラヤ湖を猛毒で死滅させるレーダーに写らない超低空飛行爆撃作戦だと聞かされました。シリアから十五分で攻撃できるそうです。
 地上の悲惨な現実は、いったい、いつ、終止符を打てるのでしょうか。ゴラン高原の国際監視団の一翼を担っている自衛隊員の生まの声が聴きたいです。
 二千年前、ローマ帝国の支配下にあったシリアとイスラエル。そのイスラエルのエルサレムからユダヤ教の新しい一派が現れました。こともあろうにイエスがメシア(救世主)だと叫ぶ異端グループであり、正統ユダヤ教からはみ出した神を冒涜するグループ集団を赦してはおけないと、ファリサイ派のエリートのパウロは、彼らを引っ捕らえるべく特別許可証を手に、武装軍団を率いてエルサレムを出発したのであります。
 砂漠の暑い道は、ローマへと続く帝国の道です。使命感に燃えたパウロは、新興グループあの異端の、ステファノがした説教は凄かったと時折思い出すのでした。あのステファノの石打ち刑を決定したのはこの私だ。ユダヤ教の教えに歯向かう者たちを断じて赦してはならない。かれらは神を冒涜している。説教している時、ステファノは、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は、自分たちの着物をわたしの足元に置いた。そして石を投げつけている間、ステファノは大声を上げた。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と。ステファノの殺害に賛成した私は、あの現場で見ていた、石打ち刑を、ステファノの血だらけの最期を。どうして気になるのだろう。正義の判決を下したのだ。だが、あの大声はどういう意味だろう、「この罪を彼らに負わせないでください」とは。「あいつは頭が狂っていたのだ、が、」と、パウロは、砂漠の道でふと心が痛むのをどうしようもなかった。
 馬上で、そこまで考え込んでいたときだ、ぱあと天が明るくなって強烈な光に圧されて、地面に叩きつけられてしまった。
 そして、聞こえた、「サウル、サウル、何故わたしを迫害するのか」と呼び掛ける声が聞こえた。
 何、迫害?何を? ファリサイ派の名にかけて、神を冒涜する彼らを許せないのだ。異端を撃滅することが神への忠誠なのだ。あのとき続いて「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。地面に俯せになったまま、考えた。イエスという男のことは聞いてはいたが、迫害した覚えがない。あんな男に興味がなかったし、関心もなかった。なのに、なぜ、迫害というのか?もし迫害したというなら、あのイエス野郎たちを思い知らしてやっているこのことか。そこまで考えたとき声が聞こえなくなった。が、目を開けられなかった。何も見えなくなっていた。
 さて、私どもキリスト者は、私どもの信仰共同体つまり教会こそイエスさまの身体であると確信しています。が、それは教会に属して初めて分かったことでした。二千年前のパウロにあの時、あの出来事の瞬間に分かったはずがありません。パウロが教会のイメイメージを初めて与えられたのは、間違いなく、あのダマスコへの道の回心の時だった、のです。あの回心があって、イエス様に出会って、そして、主の身体としての教会が迫ってきたのであります。
 私どもも受洗して聖霊に満たされて、ようやっと教会が分かったことを思い出してください。
 その後、アナニア、この人がどんな人であったかは書いてありませんが、おそらくダマスコ在住の外国人キリスト者であったことでしょう。彼は、パウロがキリスト者たちに対して悪事を働いてきた人物であると聞いていたので、パウロに会うことをためらったのですが、主は「行け」と命じたのです。篤信のアナニアは、初めて会ったパウロの頭に手を置いて、「兄弟サウロ」と呼び掛けて、パウロの目を開かせたのであります。パウロにとっては初めて出会ったダマスコ在住のキリスト者であり恩人と言うべき人物であります。つまり按手が行われたのであり、つづいて洗礼が行われたのです。ここで驚くべきことは、パウロは使徒を通さずに、アナニアを通して按手がなされたという事実であります。
 私どもにとって大切なことは、原始キリスト教時代においては、ましてや外国人伝道路線の時代には、教会制度も確立期であって、さまざまな実験もあったことでしょう。
 だからこそ原始共産主義的共同生活も試みられたのだと思うのです。
 私は、アナニアとパウロの出会いのドラマを学ぶ時、現在の日本キリスト教団の現状を憂えずにはいられません。一世紀キリスト教の大胆な実験的活動路線から学び直すべきであると思います。
 この後、26節、「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」とあります。いくら回心してキリスト者になったと表明しても、あのパウロが、キリスト者を引っ捕らえて殺害までさせた男はスパイではないかと疑われたに違いありません。キリスト者集団を撃滅させる作戦ではないかと疑い恐怖に襲われたとしても仕方ない客観的な状況であったのです。あまりにも劇的な逆転の回心だったからです。しかしほんとうであった。これ以後のエルサレムでの記事は、使徒言行録、ガラテヤの信徒への手紙一、コリントの信徒への手紙二の各記事の間では、書かれた内容に擦れ違いがあり、全体の一致がありません。あまりにも食い違っているので、戸惑わずにはいられません。が、その辺は神学論争に委ねましょう。私どもにとって大切なことは、ダマスコへの道でパウロが回心したこと、その後シリアに伝道したこと、エルサレムと接触したことであります。
 そして何よりも大切なことは、使徒でないアナニアとの出会いを通してパウロは、伝道者として按手を受けたという事実なのです。アナニアとパウロの背後にぴたっと寄り添っている神さまがいることを忘れてはなりません。神さまとの三角関係なのです。ここがしっかりと押さえられて、初めて伝道が実を結ぶのであります。
 テキストの最後の31節にも注目したいと思います。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」。 ここで言う「平和を保ち」とは、どういう意味でしょうか。地域での平和はもちろんですが、主との和解によって与えられた罪の赦しの平安のことです。これがなければキリスト者の救いとは言えない。そしてこの三つの地方がイエス様によって先鞭を付けられた地域であること、そしてエルサレムの使徒たちとパウロたちの共同の運動によって、「基礎が固まって:」という表現はじつに大切なポイントです。基礎がない場当たりの伝道ごっこは意味がない。着実で深い根を張っていく基礎作りが必要不可欠なのです。
 82年の時間を重ねてきた土師教会も今ようやっと基礎作りの時がやって来ました。改革長老系とは何であるのか、をじっくり考え直して行きましょう、教会長老とは何なのか、その重みと召命観を検討することが肝心です。社会への眼差しも、しっかり持っていかねば地球を守れません。そして教会教育も大切にして子どもたちが喜んで希望を持って生きていける世界を用意しなければなりません。子どもたちは、私どものかけがえのない隣人なのですから。31節の教会が、すべての教会を意味しているように、土師教会の発展は、そのまま日本キリスト教団の発展なのです。
 日本キリスト教団は、教会なのです。だから日本キリスト教団信仰告白があるのです。私たちの土師教会は小さな教会ですが、使徒言行録の最終部の1行目に登場しつつあることを確信しています。祈ります。

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