十二の石塚
ヨシュア記4章8〜14背節
 京都の祇園祭りが続いています。あのお祭りには。前の祭りと後の祭りがあるのをご存知ですか。名残りを惜しんで後の祭りがあるのです。ここから「あれこれ言っても、もう後の祭りだよ」に変わって行ったのです。
 さて、堺の本格的な夏が始まりました。蝉時雨です。熊蝉、ニイニイゼミ、日暮らしなど、嬉しい毎日ですが、左脳と右脳の働きが私ども日本人と欧米人とは違っていて、日本人は蝉と虫の声に音楽的な喜びを持って反応するのですが、とくに英米人には雑音に過ぎないのだそうです。ああ、もったいない。
 みなさんは、伊賀上野出身の俳人・松尾芭蕉をよく知っておられるのですが、伊賀上野と言えば、伊賀者の隠密軍団の活躍が知られています。奥の細道など本州各地を旅した芭蕉が、じつは江戸幕府専属の忍びの者、情報収集機関の隠密スパイだった、という説をご存知でしょうか。俳人と隠密の二つの顔を持った松尾芭蕉って、ちょっとおもしろいですね。
 その謎めいた芭蕉の俳句ですから一筋縄ではいきません。有名な、「古池やかわず飛び込む水の音」、 この句のかわず(蛙)は何匹でしょうか。次々に飛び込む蛙たちの音が音楽のように楽しい、という解釈も強力です。それとも一匹? どちらであっても、その証拠を、この十七文字の中から、引っ張り出せますか?
 山形県の山寺(立石寺)で創った名作「閑さや岩にしみ入る蝉の声」、 立石寺(山寺)は、頂上まで続く険しい石段と岩や巌が作り上げる圧倒的な石の風景で知られています。石の信仰がその基盤にありそうです。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」のこの蝉は、東日本ですから油蝉のジージーでしょうか。それとも夏の終わりを告げる日暮らしのカーナカナでしょうか。一匹?それとも集団? 芭蕉が訪れた季節から判断すれば、これは春蝉以外考えられないと主張する学者もいます。解釈。鑑賞って難しいですね。
 おそらく牧師の語る宣教(説教)も、聴き方は様々です。聞く人の全人格を賭けて聴いているのです。神の御心はそれぞれの個人の奥深くへ、それぞれの意味を持って、しみ込んでいくのです。
 さて、今日の宣教は、「十二の石塚」という題名ですが、これは、湯浅半月による個人詩集『十二の石塚』(明治十八年)の名前なのです。明治以降初めての個人詩集です。えっ、ヨシュア記四章がテキストのはずなのに? そうです。ヨシュア記でいいのです。詩集は、ヨシュア記と士師記に基づいて書かれています。士師記の士師は、土師によく似ていますね。士師とは、裁き人、治める人という意味ですが、士師という表記は、中国語聖書から来ています。じつは、私は、初め、士師教会から招聘されたのかなと思いました。
 この詩集は、明治18年6月の同志社神学科の卒業式に朗読されたものです。長歌(五七、五七、そして締めの七七)形式による叙事詩集です。
 ところで、石に対する執着は、古代から現代まで、人間に共通の傾向があります。人間は石器と共に文明を走り出しました。石、岩、巨岩の堅固さ、耐久力、永遠性に対して、古代人は、神聖さを感じて恐れてもきたのです。ストーン・サークル(石の円)は、宗教的祭祀遺跡です。巨岩がご神体である神社は、近畿地方でも滋賀、奈良、和歌山各県にいっぱいあります。
 旧新約聖書には岩に言い及ぶ言葉がしばしば見られます。
 「主は岩」、 「救いの岩」(申命記)、「あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16章18節)、「霊的な岩」「この岩こそキリストだった」(Tコリント十章四節)など。そう言えば、十戒は、石に刻まれました。
 この土師教会の駐車場と北田車庫前のはずれにある溝の石の蓋に文字が刻まれているのを、最近気が付きました。「土師村 中」とはっきり刻んであります。木曜日の午前、北田さんにお聞きしたら、「これはもともとこの街道のこの曲がり角に建てられていたものだ。土台の部分で分かる。ここはもともとテラ土師村と言って、村は東西南北地区で成っていた。ここはその中心地だから、 中 と刻んである。土師には東西南北と関係がある苗字も多い。溝の蓋なんて申し訳ない」との答えでした。またこんな話もしてくれました。「北田の先祖捜しに滋賀県の甲賀に行った。佐治の家はもともと甲賀が発祥の地らしい」とも。そんな歴史の勉強がお好きとのことでした。
 この溝の蓋石は、まさに土師村での位置を明確に証明して、さらにこの村の存在を心に刻み込むための記念の石碑なのです。
 長らく寄り道をしましたが、今日の十二の石塚もまさにイスラエル部族連合のカナン侵入の記念碑なのです。この成立を描いたのが湯浅半月の詩集『十二の石塚』です。
 では、ヨシュア記は、旧約の中でどんな位置と意味を持っているのでしょうか。これは申命記に次ぐ旧約六番目の書であり、その主役スターがヨシュアです。ヨシュア記は、出エジプトを果たした後の四十年間に及ぶ曠野の試練の旅を経て士師時代が始まる前まで、モーセの後継者ヨシュアの指導の下に約束の嗣業の地カナンを手に入れるまでの輝かしい歴史報告書です。そのメッセージは、神の約束が成就されるためには、神への徹底的な服従を貫き、神を完全に信頼すること。もしも約束を破れば、永久にイスラエルは呪われる。   
 という厳しい掟を認識して、第二のモーセであるヨシュアの指導の下に歩んだ部族連合の歴史が記されています。が、極端に理想化されていて、歴史的考古学的には証明がむずかしいのが現実です。あちこち整合性のない、辻褄が合わない記述も見られます。が、詩集『十二の石塚』とヨシュア記が共に伝えようとしている力点の一つは、イスラエル部族連合の辿った歴史をしっかり子孫たちに伝えたいという熱い祈りです。それが今日のテキストでは、石を通して語られ、表現されているのです。
 とは言っても、テキストをよく読んでいると記述の非整合性、矛盾がすぐ目に付きます。
 8節、「十二の石をヨルダン川の真ん中から拾い、それらを携えて行き、野営する場所に据えた」。 続いて九節、「ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた後に十二の石を立てたが、それは今日までそこにある」。 
 これを文字通り受け取れば、十二の石塚は、ギルガルとヨルダン川の真ん中の二個所に建てられたことになります。ちなみにギルガルは、石の輪(円)、 ストーン・サークルという意味です。このような矛盾はイスラエル民族の兵士の総数についてもあちこちでばらばらです。十三節の「約四万の武装した軍勢」
は誇張のし過ぎえあります。曠野の四十年間の旅に耐え、カナン侵入を果たすためには、数千人を越えない人数が妥当だろうというのが今日の常識です。
 大事なことはどこまでが歴史の事実であるかではなく、部族連合史への誇りなのです。それが確立されていった背後にあるのが、あの苛酷な五十年余りに及ぶ民族的危機、バビロニア捕囚であります。この捕囚期に、神の前に徹底的に懺悔して、辛くも立ち直っていく時に彼らが保っていた伝承や記録などを編集して、イスラエル選民思想を建て上げ、救済史としての歴史観に立って旧約が執筆されたのであり、そこから救世主メシア思想が確立されていったのです。
 七節の「主の契約の箱」にしても、これが木の箱だったとも、否、もっと立派な細工と金色の神殿を象った箱なのであるなど、申命記と出エジプトでは、大きく食い違っています。が、最低限、箱の中には十戒が刻まれた石が安置されていて、箱そのものは運搬可能な、戦争の指揮を取る神の玉座であったのです。岩そのものが神の磐座(椅子)を指しているのは、日本の巨岩信仰のご神体です。
 十二部族がこうして結集して連合集団として成立した時、その全体をイスラエルと総称したのです。六節に戻って、もう一度振り返ってみましょう。「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と」。 私どもは、すぐにモーセと共に脱出したときの紅海(葦の海)の奇跡をダブル・イメージします。ここで強調されていることは、モーセの力で、あるいはヨシュアの軍隊の力で、水をせき止めたのではない、神がみ手をのばしてせき止めて全イスラエルを導いてくださったのだという事実確認と感謝なのであります。つまり、こうしてエジプト脱出と輝かしいカナン侵入の歴史が焼き付けられて継承されていくのです。こういう歴史観は、神がイスラエルを導いているという確信に立ち、民族の未来への希望と結び付いていくのです。これが申命記史家の意図であり、原理なのです。徹底的に危機にさらされた民族でないとこうして歴史観は構築できない。しかし、そのイスラエルがまたしても異国の神々に捉えられて堕落を繰り返すのが描き出されるのです。
 その弱さから脱出するためにも。歴史的出来事を絶えず想起させることは重大な行事なのであり、遺産なのです。どの時代の子供たちも、神がイスラエルとなされた契約の意味と、神が求めた絶対の信頼と忠誠を実行しなければならないのです。
 さて、私ども土師教会は、平均年齢何歳か計算したことがありますか。まさに高齢化が進み、仲良し老人クラブになりかねません。この危ない傾きを一概に批判したいのではありません。アブラハムもモーセもヨシュアも老いていきました。が、その偉大な信仰を受け継いだ者たちが次々に現れました。
 私どもは、どうでしょうか。信仰の自動的無批判的二代目、三代目クリスチャンは必要ありません。
 が、です。私どもは、みなCSを通して、幼稚園を通して、あれだけ子供のためにしてやったのに、と、もしかしたら嘆いていませんか。親から子へという関係の中の信仰の継承が一番難しい。
 今日、私どもは、何を反省したらいいのか、取りこぼしたことは何であったのか、もう一度謙虚に問い直してみましょう。
 そして、死ぬ日まで、内なる人は日々成長して行く可能性を教えてくださいと祈りましょう。私どもは、何を想起して何を記念したら、歴史を受け継げる人間になれるのか。
 私どもが十二の石塚を受け継ぐということは、具体的には、伝道に励むということです。
 少なくても、私にとって石の継承とは、伝道を第一にして生活をしていくということです。
 ひるがえって皆さんは、今日のテキストから、何をどう学びましたか。一緒に考えながら前進しましょう。士師教会ではなく、土師教会をいかに形成していくか、過去の積み重ねの上にいかなる教会史を書いていくのか、90周年史の刊行を目指して、さあ、出発!
一緒に考えて前に踏み出しましょう。

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