お前には見えない
ルカによる福音書19章37〜44節
 わたしの好きな県の一つに長野県があります。島崎藤村が生まれた所です。被差別部落出身の小学校教師丑松の苦悩を描いた小説『破戒』や、明治という新しい時代に自分の夢を賭けて裏切られ、狂人扱いされて、座敷牢に閉じ込められていく青山半蔵の生涯を描いた『夜明け前』などを残した、明治学院出身の作家です。明治学院時代に受洗しましたが、やがて何となく、いつの間にか、キリスト教を棄てた、と、言われている人です。それが背教なのか、棄教なのかは、安易には断定できません。キリスト教との出会いは、『桜の実の熟する時』に、青春の目覚めとして活写されています。何となく、いつの間にかキリスト教から離れていった作家が、日本には沢山おります。
 しかし、信仰といっても個人的信仰と教会共同体を通して培われた信仰があります。個人的な信仰は、自我意識と密接に絡んでいて、外側からはなかなか見えにくいものであります。私どもの周りにもいつの間にか離れて行った人がいます。その人の内なる信仰は、捉えがたいものです。私どもにできることは、その人(たち)が共同体としての教会に招かれるように、あるいは復帰できるようにとこころを込めて祈ることにつきます。
 この春に行った伝道集会コンサート キリスト者詩人・水野源三の世界。あの水野源三さんも、その生涯は、長野県でした。
 さて、長野県の小諸駅の真ん前にある小諸城址公園には、「小諸なる古城の辺り雲白く遊子悲しむ」で始まる島崎藤村の詩碑があります。
 その小諸市の北隣りに上田市があります。北の鎌倉と言われるほど名刹が多く、別所温泉と戦没画家学生たちの作品を集めた無言館が有名です。無言館は、十字架の形をした建物としても注目されています。あの十字架の形をした建物の中に佇んでいると、若き画家たちの姿がありありと見えてくるのです。
 さて、今日のテキストは、イエス・キリストの生涯のクライマックスに達する寸前の場面であります。宣教題目は、「お前には見えない」であります。
 「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された」(「ルカ9章51、52節」)とあります。
 「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。」五二節。これはサマリア村です。イエスさまは、すでにエルサレムを目指して進んですおられたのです。用意周到に数ヶ月をかけて、エルサレム行を目指し、準備をした。いよいよ満を持しての凱旋の将軍のようなエルサレム入城の行進が始まる。
 ここから、どのように入城して行ったかは、マタイ、マルコ、ヨハネ福音書にすべて描かれているのですが、その道筋、そこでの出来事、季節・時間など、微妙に違っています。どの福音書が一番歴史的事実に近いかは、誰にも判定できません。福音書が一番歴史的事実に近いはずだということだけが手掛かりなのです。ということは、ルカならルカの視点が手掛かりであり、そこにルカが理解したメシア像が描かれている。
 ルカの視点を、あえて一言で言えば、民衆たちのイエスさまに対する誤解と拒否の記録であると言えます。凱旋のはずの入城場面で、イエスさまは泣くのです。泣いているイエスさまは、他の福音書には登場しません。
 では、あらためて、19章の冒頭から、クライマックス寸前の場面を辿ってみましょう。28節、「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」。 その日、真っ青な空が広がり、太陽は天空に輝いていた、に違いない。黒沢明の映画なら、こういう劇的な場面になると必ず激しい雨を降らせます。群盗を迎え撃つ「七人の侍」の決闘シーンの名場面を記憶されている方もおありでしょう。
 しかし、砂漠の国では、輝かしい太陽の下でのエルサレムへの接近場面は、真っ青な空と輝く太陽、これが相応しい。
 続く29節、「そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにある」云々は、ゼカリア書14章4節の預言「その日、主は御足をもって/オリーブ山の上に立たれる」の実現なのであります。もちろん、これはイエス様の用意周到な筋書き通りの心憎い演出なのです。
 30節、「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい」。 えっ、ろばの飼い主はいないの? もちろんいます。「持ち主たち」と複数形です。これはどういう意味でしょうか。言うまでもありません。貧困です。
 にもかかわらず、「主がお入り用なのです」
 35節、「そして、子ろばをイエスのところに引いて来て」とあります。飼い主たちが、主イエスと何らかの関わりがなかったら、大切な家族同様の子ろばを手放すはずはない。
 旧約聖書の預言を知っていたか、あるいはイエスさまの説教を聞いたことがあるのか、イエスさまのエルサレム行を知っていたのか。いずれであろうとも喜んで提供したのです。
 メシアの到来を確信して。ただし、いかなるメシアであるかを問い詰めようとはしなかった。イスラエルを救うメシア? これだけで十分だった。
 では、この場合の「まだだれも乗ったことのない子ろば」とは何か。これも、旧約で預言されていたのです。民数記、申命記、サムエル記上に書かれている。すなわちまだ使役されたことのない動物に聖なる役割を担わさせる時に必要なのです。こうしてイエスさまの入城を支えた聖なる役割を担った子ろばは、二千年以上も私どもの心に、はっきりとその姿を刻み込まれているのです。詩にも絵画にも映像にも登場して。
 イエスさまのエルサレム入場行進に一番早く興奮したのは、もちろん弟子たちでした。弟子たちは真っ先に、35節、「自分の服をかけ、イエスをお乗せした」のです。ろばは重い荷物運びに耐える体力を備えた家畜です。妻と私がイスラエルやエジプトで見かけた農村の風景では、ろばが印象的な役割を担っていました。日本人一般がイメージするのどかなのんびりした風景ではなく、走り過ぎるトラックや自動車の土埃を浴びながらも、文句一つ言わず黙々振り分けの重い荷物を運びながら歩き続ける姿でした。イエス様がそのろばに乗ってエルサレムに近づいて行ったのです。それを見た民衆も、興奮の渦の中に巻き込まれて、36節、「人々は自分の服を道に敷いた」のです。
 これも旧約通りです。列王記下9章13節
にあるように、新しく王になった人物に忠誠を表す喜びの儀式なのです。
 こうして民衆は、祝福の賛歌を声高らかに歌い上げます。大合唱。38節、
 
 主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。
 
 詩編118編26節が下敷きにされ、「主の御名によって来る人に。」 の後に、意図的に「王に」が付け銜えられていて、ゼカリア書九章九、十節もその背後にあることが分かります。ということは、ゼカリア書九章九節の「勝利を与えられた者」を意図的に省いたということでもあります。ここがルカが意図的に省いた個所なのです。
 ルカは、一貫して見抜いていました。弟子たちがイエスさまのエルサレムを目指した本心を全く理解していなかったことを。喚声を上げ、声高らかに歌い、酔いしれている弟子たちと民衆を見ながら、イエス様は、断然孤独だった。民衆が待ち焦がれたメシアとイエス様の間には、決定的な亀裂が以前からあったが、弟子たちは分からなかった。9章22節を思い出してください。122頁下段、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。
今、この時、弟子たちは誰一人、あの時の主の言葉を思い出さなかった。否、そんなことを考える暇はない。凱旋の王を頌えることに夢中だった。
 ルカ福音書のイエス様の誕生の夜、羊飼いたちは天使の合唱を聞いていた。

 いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、
 
と歌われたのです。が、今、太陽の下、
 地には平和
 と歌われていない。
 ここにルカの目が光っている。「地には平和」が実現していないのに、平和であると錯覚している人がこの日本にも一杯おります。「地には平和」と歌い祈るためには、平和を造り出す日々の行動があって初めて聞き入れていただけるのです。
 39節、ファリサイ派のある人に答えて、
「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」。
 そして41節、「都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、/略/お前とそこにいる子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである』。 イエス様は涙を流しながら、張り裂ける感情の高まりの中で,エルサレムへの別れを告げたのであります。人々を救うためにやってきたエルサレムで、全く理解されなかった主エスの孤独、実現しない「地に平和」であったのです。
 エルサレムの支配者たちが、見えると言い張っているかぎり、平和の接近も神の訪れも見えない。そして自分たちの滅亡さえ見えない。
 こうして民衆の誤解の歓迎の渦に迎えられ、扇動された民衆に裏切られ、処刑されていった最後のドラマが始まる。
 人間イエスの涙に覆われたエルサレム。ローマ帝国によるエルサレム落城は、西暦70年の歴史的現実なのであります。
 翻って、現在の私どもは、神の訪れをわきまえられたでしょうか。それが何時、何処であったか、はっきりと記憶していますか。その後の絶望の果てから復活へと展開したドラマの秘儀にあずからないかぎり、私どもに救いはない。
 信仰の証しは、他人に分かっていただくために、できる限り論路的でなくてはいけません。しかし、信仰そのものは、常に論理の向こう側への飛び込みであり、飛躍・ジャンプなのです。
 ほんとうのことが見えることを信じて、主の恵みの海の中に飛び込んでいく。これが信仰者の毎日なのです。祈ります。

説教一覧へ