霊と父と鍛錬
ヘブライ人への手紙12章7〜12節
 おとつい七月六日朝、五時十三分、ぐっすり眠っていたので、小鳥たちの音楽会で目が覚めました。どんな鳥だろうかと瞬間戸惑いました。あまりにも華やかなにぎやかな合唱に唖然としてしまった。なんと出演者は全員雀さんだったのです。えっ、雀ってこんなにさまざまな音色を使い分けるの、なんと楽しげな合唱なんだろうと思いました。朝陽が差してきて、庭の上をさっと過ぎる鳥影がまた一瞬なのです。雀ってあんなに猛スピードで飛ぶことがあるんだ。よっぽど充実している朝なんだ。うん、土師の雀は、首都圏の雀よりも早く、猛スピードで飛ぶ。高層ビルのガラスに衝突する恐怖がないから。
 その時、突然、懐かしい感情を伴って、思い出しました。こんな嬉しい楽しい朝を三日間くらい経験したな、って。
 あれは東南アジアのタイだった。タイの東北部、汽車で十何時間もかかって辿り着いたチェンマイという古い都。早川文野さんがエイズ患者の社会復帰センターを切り盛りしているチェンマイです。早川さんは、去年の今頃、蘭の花束を贈ってくださいました。
 そこのYMCAホテルの朝でした。
 一階のレストランは広くて大きい。アルバイトの学生が給仕してくれています。窓がありません。必要ないのです。小鳥たちが自在に飛んできます。堺でも育っているパラダイス・フラワーが、オレンジ色の花を一勢に開いています。あのとき、ゆっくりいただいた朝食が美味しかった。小鳥も学生も花も妻と私も、みんなしみじみと平安でした。
 土師教会の週報の表紙は、国際的な版画家・渡辺禎雄さんの「空の鳥を見よ」です。カラスです。日本のカラスよりは小さいようです。
 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタイ福音書)。 が、現実は、寿命が心配。着るもの、食べるものが心配。
 人間って、どうして毎日あれもこれも悩むのでしょう。この悩みを抱えながら、生きる意味を求めている。が、私どもキリスト者は、生きる意味を知っている、生かされていることの喜びも知っている。
 知っているとは、実感している事実の表明なのです。では、ほんとうに知っていますか。私どもは、空の鳥よりも自由に生きているでしょうか。

 本日の宣教の題名は、「霊の父と鍛錬」です。誰が読んでも難しい個所がありません。
 が、「ヘブライ人への手紙」そのものは、作者が誰なのか、宛先は何処なのか、いつ、どこで、書かれたのか。さらにどういう人が読者であったのかについても、いまだに確定できていないのです。しかし、パウロのローマの信徒への手紙に次ぐ懇切丁寧な信徒への勧告の手紙として二千年間読み継がれてきた貴い書簡であります。
 さて、テキストに入ります。12章冒頭の小見出し「主による鍛錬」の鍛錬の辞書的な意味をご存知でしょうか。鍛錬とは、金属を鍛えて錬ることです。あの固い金属を柔らかにして練り上げる。その技術を磨いて自分のものにするのは容易なことではありません。
 が、聖書は、主による鍛錬の必要を強調しているのです。
 では、12章1節の「証人」とは、どういう意味でしょうか。ここでは、殉教者という意味と重なっています。同じ単語なのです。イエス・キリストを証しすることは、自分の生き死にを賭けて、キリストが実現したものを、自分も奮闘して実現しようとする生涯を生きる、生きたという意味なのです。ペテロやパウロの殉教の伝承は、主の証人であったという意味とぴったり重なっています。
 1節、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。
 この手紙は、おそらく西暦60年代から90年代頃に書かれたであろうと推測されています。ローマ帝国下の迫害がすでに起こっている頃であり、同時に終末の再臨が期待されていた状況の下にあります。そういう状況を踏まえれば、証しと殉教が重なり、信仰の競争が力説されるのも頷けるでしょう。ただし、その競争に参加するには、厳しい条件を解決しなければなりません。「重荷や絡みつく罪」とは、何でしょうか。信仰も、じつは一人一人その内実は異なっていることでしょう。あなたの、わたしの重荷と絡みつく罪、この粘った言い方は、実感をありありと呼び起こします。私どもが、信仰を生きることは、ほんとうは生き死に、を賭けて奮闘することなんだという事実を忘れてはいないでしょうか。鳥の自由、朝の平安は、そう容易には手に入らない。だからといって、自分の力でどうにかできる次元の出来事でもない。文字通り「かなぐり捨てて」が条件なのです。この世での身分、業績、地位、財産にしがみついているかぎり信仰の競争に参加する資格さえないのです。
 しかも、よく読んでください。この競争は、スポーツマンたちのレースとは全く別物です。記録を争うレースではありません。もしそうなら高齢者や病人、障害者は参加できないでしょう。国籍、性別、年齢に関係なしにだれでも招かれている競争なのです。記録更新ではない、神に委ねて従う信仰のレースなのです。では、この信仰のレースの目標は何であるのか。信仰の創始者であり、また完成者である主イエスさまを見上げながら、指導者でもあるイエス様に導かれてゴールインするまで走り抜くのです。ですから一人一人が一番なのであり、全員がゴールインするように祈りつつ走る。十字架上で血だらけになった主を仰ぐとき、4節、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と言われると黙ってしまいそうですが、これほどの戦いなくしては、キリスト者とは言えない。二千年前、ローマには死ぬか生きるかどちらしかない戦いを生業とする奴隷の挌闘士(ファイター)たちがいました。彼らの武器は、鑓、鎖、刀などでした。人間としての人権など全く認められていなかった。人間としての屈辱を嘗め尽くした彼らが、イエス様が人間を救うために、血を流して死んでいった恥辱の十字架刑に心を動かされ、共感したのは当然であった。奴隷たちが雪崩れを打ってキリスト者になっていったのも頷けます。死をも恐れない信仰が殉教へとまっすぐにつながっていく共感信仰をもたらしたのです。
 現代だって本質はちっとも変わっていません。復活信仰に立つことは、今も嘲りの対象でしょう。しかし、譲れない。譲ってはならない。命を賭けて証ししなければならない、のです。神の玉座の身元に行く日まで私どもが証人として立つ、ということは殉教の道に立つことです。
 7節、「いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」。 9節、「私たちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか」。 肉の父に善意と熱情があっても、それは我が子をどこかで所有物として見ている部分があり、必要以上に感情的になってしまいがちです。父であれ母であれ、宿題を教えるのは下手ですね。我が子のことは自分が一番知っていると自負していても教育は無理な部分が生じてしまいます。だからこそ学校制度があり、肉親でない先生が登場するのです。が、その先生もまた、人間の限界の中にいます。
 そこで霊の父が出現してくださったのです。10節、「霊の父はわたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです」。 肉の父、学校の先生を越えて、究極の父としての霊の父の出現であります。霊の父は、絶対の真理であり、道であり、復活なのであります。
 霊の父が、「ご自分の神聖」、 すなわち、神の御国に入るのに相応しい資格をゴールインと同時に与えてくださるのです。それは、11節、「義という平和に満ちた実」を結ばせるのです。青臭い義ではない、苛立った義でもない。ほんとうの義は、平和に満ちている。命懸けの証しを通して辿り着く平和であります。
  そうするために、12節、「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」と結んでいます。これは、ボクシング(拳闘競技)のイメージです。ノックダウン寸前の蹲った選手を励ます激励の言葉です。「立てよ、いざたて、主のつわもの」が聞こえてきそうです。同時に、足の不自由な者がその不自由な足のままで、まっすぐな道を歩いて行けば、それは鍛錬の道となって、やがていやされるのです。信仰のゴールインの時間はばらばらですが、励まし合ってみんなで主の道に従って行く命懸けの姿勢がここにはあるのです。
 私は、常々、日本キリスト教団には弱点があると思ってきました。自分の信仰を鍛えることには多大な興味と関心を示しますが、それが主から与えられた信仰であることを忘れがちな人が多いことです。私の信仰は、じつは私たちの信仰なのであり、しかも与えられた信仰なのです。だから、日本キリスト教団の信仰告白を共に声高らかに朗読できるのです。そのための訓練否鍛錬が今日のテキストであります。
 新共同訳の小見出しは、「主による鍛錬」ですが、カトリックのフランシスコ会訳の小見出しは、1〜3節が「イエスの模範」、 四から十三節が、「父としての神の教育」です。
 カトリック訳の方が、信徒である私どもの共感を呼ぶのではないでしょうか。
 命懸けの証しの信仰生活ではありますが、それゆえに父なる神に全てを委ねて一歩一歩踏みしめていくレースなのです。記録更新ではない、全員が目指すめざすゴールイン、待っている父、その道程のすべてが神の愛の教育なのであります。

 立てよ、いざたて、主のつわもの
 見ずや、み旗のひるがえるを

 昨日土曜日の午後三時、嵐が収まり梅雨前線が遠のいたあと、久しぶりの快晴になって、教会堂の上の電線に山鳩が二羽訪れて止まっていました。どうやら番いのようでした。「コロッッポーン コロッポポン」と平安そのもののように満ち足りて鳴いていました。前夜の激しい風雨が嘘のようでした。きっと一晩激しい風雨を耐え凌いで過ごしていたに違いありません。私には、信仰のレースを走り抜いた信徒の姿と重なって見えました。
 「がんばったね」と声をかけてあげたかったです。
 「義という平和に満ちた実」が教会堂に広がっていました。神の教育って、いいなあと実感した夕方です。
 祈ります。

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