裏切ったユダ
マタイによる福音書27章3〜10節
 小学生高学年ならば、おそらく知っているイギリスが生んだ大作家シェークスピアの四第悲劇の『オセロー』を読んだことがおありでしょうか。演劇で映画で興奮したことがあるかも知れません。筋書きは、至って簡単。勇敢で真っ直ぐな、ムーア人の将軍オセローは、旗手イア―ゴの策略に引っかかって、愛する妻ディズディモーナの貞操を疑って、ついに殺害してしまいます。その後、事の真相を知ったのですがもはや遅すぎました。妻が戻って来ることはありえません。悔恨の果てに自殺してしまうのです。
 大人になってからソビエト映画「オセロー」を観ました。ロシア語では、「オテロー」と発音していました。作品は、暗く重々しく、全編まっしぐらな悲劇でした。
 さて、演劇でもなく、映画でもない。文学でもない「オセロー」というお遊びをご存知ですか。これは白黒の円盤状の駒で、相手を挟んだら自分の色にひっくり返す、という単純そのもののお遊びです。あまりにも単純なので幼稚園生から、じじ・ばばまでが楽しんでいます。とくに高齢者には指先の運動になり、しかも惚けよけになる、という一石二鳥というめっけものです。日本が発明して、いまや世界中に広まり、毎年世界チャンピオン大会が開催されています。ぜひ1度試してみてください。
 今から三四年も前、一九七八年の夏でした。私は、韓国の中央部にあるテジョン(大田)という朝鮮戦争の激戦地に滞在していました。私はまだ三六歳の青年末期、そこにあるキリスト教主義大学、韓南(ハンナム)大学の日本語の客員教授として招かれていました。戦後初めての日本人教員でした。と言いますと格好良いのですが、じつは学内でさえ、日本語を話すのにびくびくしなければならない時代だった。大学への行き帰りに利用する市内バスの中でも口を固く閉じて黙っていなければなりません。日本学科の教え子達も口にチャックをしてしまうのです。いったい何のために韓国に来たのだろうと毎日吐き気に襲われる暮らしでした。
 夏休み、学生達と一緒に、東海岸のポハンからフェリーに乗って鬱陵島に行くことになりました。北朝鮮からのスパイ潜入の情報がしょっちゅう入っている頃、朴正熙大統領による軍人政治の時代でした。鬱陵島は南北の軍事境界線に近かった。フェリーに乗り込んだとたん、荷物検査があり、私が持って行ったオセローがひ引っかかってしまったのです。
 役人「これは何だ?」
 私「これは、オセローというゲームです。」
 役人「オセロー? それはどういう意味だ」
 私「シェークスピアのオセローからヒントを得たゲームで、愛の裏切りを楽しむのです」。 
 役人の顔色がさっと変わりました。「何っ、裏切りだと」
 迂闊でした。南北で緊張関係にある38度線付近で、「裏切り」という言葉はタブー(禁句)でした。二人の役人は、オセローの駒の中に麻薬も入っているのではないかと思ったらしく、二個壊そうとしました。が、軍人学生の必死の通訳が功を奏したらしく、やっと解放された苦い経験があります。
 そうでした。今日の宣教の題名は「裏切ったユダ」です。
 ところで、裏切りの裏という漢字の意味をご存知ですか。裏は、「心」と書いて、内側、反対側、奥の方、などを指していて、真実、ほんとうのこと、心などを意味しています。ですから辞書的な意味は、心、真実を切る、という意味になります。古代語から意味は一貫しています。
 テキストに入ります。27章3節から、小見出しは、「ユダ、自殺する」です。
 ユダの裏切りは、四福音書が皆取り上げていますが、ユダの自殺の記事は、マタイ伝にしか登場しません。伝承としてはユダの首吊り自殺がかなり広まっていたようですが、マタイだけが、書き残しています。
 あとは使徒言行録1章18、19節に書かれています。言行録によれば、「ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムい住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で、『アケルダマ』、 つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました」。
 ルカが書いたこの一文は、客観的に坦々と記録しているようです。が、マタイによる福音書の子の部分は、とても短い物語なのですが、ユダの後悔と自殺に焦点を絞って、もっと複雑な表現になっています。かなり、微妙な、気を遣った表現が見られます。
 冒頭3節、「そのころ」とは、どんな頃なのでしょうか。27章の1、2節を見ますと、
 「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した」と、あります。
 夜の間に最高法院で、イエスを、神を冒涜した最大の犯罪人として裁いたのです。神の冒涜(神聖なものをおかしけがすこと)、これは律法に於ける最大の、決定的な悪です。
 最高法院には死刑宣告の権限がいちおうありますが、ローマ帝国の支配下にある以上、ローマから派遣された総督が宣告、執行する決定権を持っている。そのためには、ローマ帝国の秩序を脅かす反乱者、もしくは民衆を暴動へと扇動した危険人物として政治犯に仕立て上げねばならなかった。それが、27章の1、2節の背後の意味なのであります。
 この裁判の成り行きをイスカリオテのユダは、ずっと見ていたに違いない。
 ここで、私がユダの裏、つまり奥の方に潜り込んで、ユダの心を代弁してみます。
 
 儂の信じた主イエスは、きっと立ち上がる。ずっとずっと儂が待っていたのは、その時だ。そもそも儂が財務担当を引き受けたのは、金が欲しかったからではない、とんでもない。儂は、イエスに従う一行の伝道にかかる費用の一切を担当してきた。宿泊費、滞在場所の準備、食事、着る物など、一切合切を工面してきた。これは他の弟子仲間にはできない。いつだって用意周到な配慮と企画力が必要だ。そして、誰も知らないだろうが、じつは儂は、ユダヤ独立を目指す武力解放戦線の一員なのだ。シモンだって武力派だが、儂の方は、まったくの地下組織だ。やがて主イエスは、立つ。ローマ帝国に反旗を翻してユダヤ民族のために立つ時が、必ず、来る。主イエスさまが武力解放を声高らかに宣告するはず、だった。
 儂は、その決起の日のために資金も用意してきた。だからマリアが高価な香油をみ足に塗って、髪の毛でぬぐった時、儂は怒って叫んだ。「なぜ、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。儂が、「金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」と思っている仲間が、いるかも知れない。決してごまかしてなどいない。いざ決起する時のために資金を準備していただけだ。
 
 と、ユダは本気で考えているのです。再びユダの独白に戻ります。
 
 ごまかしなんてありえない。主イエスの軍隊のために着々と準備してきた。ほかの弟子たちには、儂のような才覚がない。そして、儂は、ペテロよりもずっと正確に状況を把握してきた。主もこんな儂を期待して。財務を任せた。儂は全力をかけて働いてきた。

 それなのに、イエスさまは、昨夜のことだ、晩餐会で、みんなの前で、こう言った。マタイ26章24節、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と。

 あの主の言葉は、決定的かつ残酷だ。まったく儂のことを理解していなかったことを暴露したのも同然。あの時まで儂は、最後の賭けをして、主イエスが儂を振り向いてくださることを信じていた。そしたら、「主よ、今夜、この時、ユダヤの解放のために立ち上がりましょう」と進言する決心をしていた、のに。
 あの時儂は、憤然として夜の中に飛び出して行った。儂は泣いていた。あの時の儂の絶望的な、しかし、主イエスへの最後の期待と求愛を分からなかったのは、主の方だ。主イエス様の方が、儂の期待を裏切った」。

 と言って、ユダは慌てて口を押さえた。
決して言ってはならない言葉が口を突いて出てしまったのです。後悔にさいなまれながら、ユダは それでも自分の肉体を引き摺って、
夜を徹して最高法院の裁判を見守っていました。が、明け方、縛られたまま主イエスが引き出されて行く姿を見た時、ユダの夢は無残に崩れてしまったのです。もう何が何だか分からなかった。走って走って、、、、。ユダは、混乱しながら考え続けた。

 「馬鹿だった、儂は馬鹿者だ、何処で何を間違えたのだろう。銀貨30枚、祭司長たちは、ひどく値踏みした。儂の、主イエスさまを銀貨三〇枚で処分したんだ。銀貨なんて金貨の20分の1の価値しかない。奴隷一人分の値段で取引に乗ってしまった。」
 
 ユダの激しい後悔は、しかし、もう遅い、決して報われない。罪は取り返しがつかない。赦してくださるかも知れない主がおられない。もう主を奪い返すことができない。できることは、、、、自殺。

 さて、私どもとユダは、無関係でしょうか。
私どもはもちろんユダではない。けれども、あの日、十字架刑のゴルゴダの丘に最後まで残っていたのは、誰だったでしょう。弟子たちは、一人も現場にはいなかった。みな蜘蛛の子を散らすように逃亡したのです。逃げて、逃げてしまったのです。みんな、イエス様を裏切ったのです。
 そして、ユダだけが、首をくくって死んだ。
 みなさん、ユダの誤りは、どこにあったのでしょうか。お気づきの通り、ユダの夢の過剰、いいかえればユダの愛の過剰なのです。その夢と愛の底にあったのは、独占欲ではなかったでしょうか。
 最大の誤算は、イエス様が天の軍勢を呼び寄せて、ローマからの解放のために、武力闘争のリーダーとして立ちあがると確信していたことです。そのための資金も着々と貯めていた。それをイエスさまへの愛であると確信していた。誤算に基づいた夢と愛の過剰です。自分としては、誠実過ぎるほどの本気であるだけに手直しが効かないある種の狂気が、ユダを駆り立てていたのです。
 イエスさまの福音は、暴力では決して勝ち取れない。暴力を超えた福音を実現する力とは何でありましょうか。みなさんは答えを知っています。しかし、今は、口に出さないでください。なぜならそれはユダも信じていたものだからです。どのようにしたら、ほんものの夢と幻を生き抜くことができるのか、を、考えながら行動しましょう。私どもの中に記憶されているユダと共に、イエス様の福音を伝える伝道事業に邁進しましょう。
 ハレルヤ。

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