第T部 子ども礼拝
今日の聖書は、食べ物と飲み物のことについて書いてありますね。
さて、今日の朝ご飯は何を食べたかなあ。
パンの人? ご飯の人?
先生の家は、いつもパンです。先生が育った家はお米屋さんだったからパンを食べさせてもらえなかったんだ。だから学校の給食でパンが出ると感激、桃の木驚きだったんだ。大きくなってパンノキがあるのを知って、なんども公園に見に行ったけど、パンノキにパンはならなかったね。
では、食べ物の謎々をするよ。
まずお料理を創る時必要な鍋やお釜に似ているもの。
始まり、始まり!
食べ物を与えると泣き出して
与えないと黙っている物なーに?
答え フライパン ミキサー
じゃあ食べ物・飲み物に入るよ
みなさん、こいつは何者か
七重八重(何枚も)の皮にくるまって
人を泣かせる悪い奴!
答え タマネギ
いつでもいつも喋っているのに
なにを言っているのか
自分で全然分かっていない物なーに!
答え 水道の水
肉も骨もなく、縫い目も袖もない
真っ白なシャツだけ着てる物なーに!
答え 卵
煮たり焼いたりはしません
お皿もお椀も要りません
スプーンもフォークも要りません
みんなが小さい頃、食べた物なーに!
答え おかあさんのおっぱい
もう止めようか
じゃあ、最後におまけ
自分の物なのに
人が一番使う物なーに!
答え 名前
おまけのおまけはおとなの知能検査
ニッポニア・ニッポンってなーに!
答え 絶滅危惧種の鳥 朱鷺の学名
じゃあ、お話しようね。
日本にいると、食べ物がなくて飢えている人はまわりには、まず見当たりません。
が、地球全体を見渡すと、飢えている人、飢えそうな人は、なんと十人に一人はいるのです。びっくりするでしょう。信じられないけれど本当なんです。国連では、そういう人々を救い出すためにあらゆる努力をしています。世界中の協力を呼び掛けています。
じつは六七年前の戦争が終わる頃には、日本でも、たくさんの人々が食べ物に困っていたのです。先生の小さな頃でした。だから世界の飢えている人々、お腹を減らして栄養失調で苦しんでいる子どもたちのことを思うと、じっとしていられないのです。みんなも心が苦しくなるでしょう。隣の北朝鮮の子どもがお腹をへらして助けを求めています。アジア・アフリカでもたくさんの子どもたちが「お腹が空いたよ」と叫んでいます。食べ物が足りない国はまだまだ沢山あるのです。
さらに、水が大きな問題です。きれいな水を手に入れるのはたいへんなことなのです。
神さまは、「あなたは食べ物、飲み物のことで思いわずらってはいけない」とおしゃっています。今日食べられる、飲めるだけで十分なのです。何が必要なのかは神さまが知っている。必要以上に欲しがることは、欲張りだ。必要な食べ物が手に入らない、まだ会ったことがない友だちのことを思いやることが大切です。
では、どうしたらいいでしょうね。お小遣いを少しずつ貯めて、支えてあげたいね。きれいな水を手に入れるための井戸の掘り方を伝えてあげたいね。食べ物を育てる肥えた土を作る技術を伝えたいね。必要なものが満たされるように力を貸して、お手伝いしてあげることが、神さまが喜んでくださることです。みんなが協力している現場では、神の国が始まっているのです。それが愛の仕事です。
今日家に帰ったら、お父さんやお母さんと「神の国って何」って、話し合ってみよう。
「神の国は、もう、ここに、来ています」って先生が言ってたけど、どういうことかなあって聞いてみてください。
みんなで、「天にいらっしゃる神さま」と言いながら見上げれば、にっこり笑っている神さまの顔が見えてくるよ。
では、最後の最後に、もうひとつの謎々。
ちっちゃな窓から
世界中がこんにちは!
答え 目
第U部 大人の礼拝
今日は、教団の暦によれば、「花の日・子どもの日」です。子どもたちが群れているのを見ているのは、この高齢者社会においては、慰めであり、楽しい。輝いている、漲っている命、そしてぐんぐん成長していく子どもたちを見ていると、私ども大人や高齢者が失ったものがあるのではないかと思ってしまいます。
私は、今、大陸間横断飛行機乗りだったフランス人・サンテクジュペリを思い出しています。彼が書いた傑作『星の王子さま』の中扉には、こう書いてあります。
「大人はみんな、自分がかつて子どもだったことを忘れている」と。
さて、今日のテキスト12章の小見出しは、「思い悩むな」です。ここには、成人した大人を意識して語ったイエスさまの言葉が集められている。22節、「イエスは弟子たちに言われた。『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな』」。
「分かった、分かったよ。そう言われたって、これが実際私どもの現実なんだから、しょうがないじゃないか。イエスさまって、頭でっかち、だなあ。私らのようなごく平凡な庶民をほんとうは分かってないんじゃないかな」っていうつぶやきが聞こえてきそうです。さらに、この説教、どこかにもあったな。そうそう、マタイの山上の説教だ。
ちょっと待ってください。マタイ福音書では、おびただしい群衆に向かって話しています。が、ルカでは、先ほど読んだように、「イエスは弟子たちに言われた」と明記しているのです。どちらでもほとんど同じ台詞なのだから、群衆であろうが弟子たちであろうがたいした問題ではない、と反論する人もいるでしょう。
ご存知のように、イエスさまの弟子たちはほとんど無学です。サドカイ派やファリサイ派のような宗教的エリートではありません。代表者格のペテロをはじめ、ガリラヤ湖の漁師だった。庶民です。その庶民をイエスさまは、人を漁る漁師として、お選びになったのです。そして彼らは、職業を投げ打って従いてきたのでした。そしてイエスさまは、彼らを伝道の旅に出よと命じて、下着も二枚だけにせよ、謝儀はもらうな、一膳の飯だけ受け取ればよい、と、命じた。
その弟子たちにとって、何を食べようか、何を着ようか、は、些末なことではない、毎日暮らしていくぎりぎりの必要事であったのです。腹ペコでは福音を伝える仕事はできない。その弟子たちに向かって、語った台詞であるということは、どういう意味を担っているのか。
29節、「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」。 それでなくても厳しい毎日を生きている弟子たちに何という酷薄な、情のない惨い言葉を畳み掛けたことでしょう。しかし、じつは、イエスさまが言いたいことは、次の30節で尽きています。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることをご存じである」。
この台詞は、二千年前の弟子たちに直接向けられたのでありますが、現代の私どもにも当然向けられています。人間の欲求には限度がない。押さえがたい物欲があり、そのあとに襲って来るのが名誉欲です。これらの押さえがたい貪欲、所有欲、むさぼりが、人間の生き方を蔑ろにさせ、やがて必ず、無残な終わりがやってくる。
そうではなく、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とおっしゃったのです。営営として貯め込んだ財産も盗まれたらおじゃん。宝の山も所有者が死ねば、遺産分けの争いの元。死ねば一巻の終わり。
私どもキリスト者のほんとうの財産は、命、愛、信頼です。その命も延命のために人工的に延命させられる命では意味がない。生きていることを、生かされていることを感謝する命でなければ意味がない。つまり神さまとの交わりから与えられる命こそ永遠の命なのです。わたしの地位、わたしの倉(倉庫)、わたしの蓄えは、死ぬ時、向こう側に持っていくこことはできない。一体、何を、何処へ、持って行けるでしょうか。死は、人間と物とを永遠に引き離す。
肝心なことは、生き生きと生き抜く命です。あるいは病床に伏して精神的活動ができなくなっても、そこに伏しているだけで周りの物をほっとさせられる存在であることです。つまり私どもの所有していると思っているものは全部主の所有物なのです。私どもに出来ることは主からいただいたものをお返しすることだけなのです。
そもそも、私どもが生きるということは、与えられた信仰を生きることです。つまり神への服従と奉仕のみです。
29節の「考えてはならない」は、求めてはならない、という意味です。あれが食べたい、あれを着てみたい。もっと格好良く、もっと権威に満ちて、もっときらびやかになりたい、と欲張る。そんな私どもに、「思い悩むな」と、イエスさまは、きびしく戒めてくる。
隣に飢えている人がいても気づかず、心痛まない。裸の人がいても気づかず、心痛まない、そんなになったらおしまい。
さあ、こんな自分に一刻も早く気が付いて、考えましょう。貪欲から開放されましょう。すべてを神に委ねて暮らすのが、豊かで楽しい暮らしなのです。ブータンが幸福度世界一で注目を浴びている理由が、少し分かるような気がしませんか。
私どもの大好きなペットも花も野菜も一つずつの個体としては復活しません。が、私どもキリスト者は、永遠の命を与えられているのです。
もう一度言います。神さまは、私どもに必要なものは、とっくに、何もかもご存知なのです。
神さまの恵みへの応答として、悔い改めと謙遜な生き方を打ち建てましょう。
すべてを委ねて生きることは、開放と自由をもたらします。もう、ここに、神の国は始まっている。
ハレルヤ。
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