この手をそのわき腹に
ヨハネによる福音書20章19〜29節
 先週の聖日礼拝は13日、会食懇談会がありました。その6日前の火曜日、突然サクランボが真っ赤に熟したのです。
 土師町は、いろいろな花が突然咲き出す所です。花桃から始まって、サクランボ、スオウ、オキザリス、ジャーマン・アイリス、サフィニア、マーガレット、バラなど、教会を見ていても目まぐるしいのです。
 前牧師夫人から言われていましたので、用意していたみどりのネットをサクランボに大慌てで被せました。ヒヨドリや、それよりちょっと小さなずんぐりむっくりした嘴が橙色の渡り鳥が毎朝今か今かと待ち構えていたのを知っていました。
 小鳥たちの目を見ていて、私は、迷いました。このサクランボは、もしかしたら小鳥たちのために育てていたのかも知れない。人間の食用とは限らないのではないか。人間が、当然食べるものではないかも。
 権利を主張するかのように実を目がけて飛び込んでくる小鳥たちとの壮絶な戦いが始まりました。小鳥たちに遠慮という礼儀作法はない。人間と分け分けしようとは思わない。猛攻撃を仕掛けてくるので、仕方ありません。  
 私は、13日の会食懇談会のために、五日間防衛しました。「空の鳥をよく見なさい:」というイエスさまの言葉が気になりました。「私たちもっぱら食べる鳥たち」と襲いかかって来る。かわいそうでしたが、防衛隊長の私は、実一粒もかれらには渡しませんでした。 
 その結果、3分の2は懇談会でいただきました。3分の1は小鳥たちに残しました。月曜日の夕方実一粒も残っていませんでした。
 そして、16日は聖研祈祷会、快晴、キュウリの小さな黄色い花に、なんと、今年初めての蜻蛉が悠然と止まりました。嬉しくてじっと面玉を見ていました。もう沖縄は梅雨入りしたそうです。
 そして来週は、聖霊降誕祭(ペンテコステ)です。
 復活なくしてキリスト教はないのですが、キリスト教がユダヤ教の分派から自立したのは、イエスさまこそキリスト(救世主)だと信仰告白したからであります。このイエスさまの復活に遭遇した弟子たちの証言はさまざまです。
 今日のテキストであるヨハネによる福音書は、第四福音書ですが、成立したのは、70年のエルサレム崩壊以降であります。もうイエスさまと直接会うことが不可能な時代に入っていたのです。
 言葉だけが、神へと接近する唯一の手掛かりなのです。言葉を通じて神さまと会話するということは、神が、人格的存在であるということです。
 ヨハネによる福音書は、のっけから言葉と神の関係を語っている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」云々。 若い頃には、魅力であったが、謎であったヨハネ福音書の冒頭でしたが、信仰者の目で読み直すと、驚くほどすらすらと入ってきます。ただし、漢字一文字だけの「言」という表記(表し方)がチェック・ポイントでしょう。みなさんもそうでしょう、きっと。
 その言葉を巡って、事実上のヨハネ伝は20章で終わっています。しかも言葉と信仰を巡る決定的な神髄を、この20章は暗示しているのです。
 そもそも生まれも、気質も感受性も知性の働き方もそれぞれである私どもは、キリスト信仰の理解の実質も、それぞれであります。個人によってキリスト信仰を体系化して行くのが向いている人もあり、疑うこともなくほとんどそっくりみ言葉を受け入れる人もいます。いわば温度差の違いでしょう。それらの違いを貫いて、信仰の神髄を暗示してくれる個所が、マグダラのマリアとディディモと呼ばれるトマスの信仰告白なのです。
 二千年前のイエスさまが活躍しておいでであった現場ですら、一部のファリサイ派や金持ちの青年は、イエスさまと会話をしても、信じようとはしなかった、あるいは信じられなかった。
 イエスさまの死後、復活のイエスさまを主として仰ぎ、パウロや使徒たちは力強く証人として語りました。つまり言葉で福音を語ったのですが、やがて言葉だけで書かれた福音書が刊行されます。それはイエスさまの一代記の絵巻物ではありません。徹頭徹尾文字で書かれました。絵物語は、どうしても偉人聖人の一代記になりやすく、奇跡物語に傾いてしまいます。しかし、絵物語の方が分かりやすいはずです。圧倒的に文盲が多かった状況にもかかわらず、福音書はなぜ文字で書かれたのでしょうか。ヨハネは、20章の最後に見出し「本書の目的」210頁で言っています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により、命を受けるためである」と明言しています」。 ヨハネは、言葉は記号ではない。言葉は命を宿している生き物だと知っていたのであり、ほんとうの言葉の所有者は言葉自身であるという奥義が展開されているのです。
 旧・新約聖書を貫いているものは、神と人間を結び付ける言葉であります。この言葉は、神と人間のやりとりを表現する会話であります。神の言葉を聞いて答える、あるいは人間の訴え(祈りも含んで)に答えるという応答が、人間にとっては信仰への入り口であります。と同時に、信仰の奥義に接近していく必然の道は、言葉の道なのです。そして神の言葉(み言葉)とは、神の意志であり、命令であり、救いであります。人間は、そのみ言葉を生きる根拠として、原理として押し頂き食するのであります。故に、み言葉は、ロゴス(原理)であるとヨハネは断言しているのです。
 さて、20章の11節以下は、復活の主に出会ったマグダラのマリアの信仰告白が描かれています。続いて24節以下は、ディドモと呼ばれたトマスの実証主義的な発想と主張とその結末が描かれています。
 私は、二人の信仰を比較したいのではありません。すでに述べましたように信仰の類型に関心があるのです。一方には、マリアのようにまっすぐに信仰に入っていく人がいます。もう一方には、色々な人がいます。
 第一に、論理的展開をしながら、知的に納得しながら信仰に接近していく人。   
 第二には、柔軟な感受性を持ちながらも、知的に明確に問いを深めたい人。
 第三に、信仰を問う時、論理的探求には限界があると知りながらも、論理的に行き着ける限界までは行こうとする人。
 第四に、あくまでも疑問を突きつけて、実証しようとする人。おそらくトマスはこの類型に入る人でしょう。
 では、なぜヨハネは、福音書の終わりに、なぜあらためてトマスを登場させたのでしょうか。トマスの疑問の展開と発言は、きわめて文学的な魅力的な短編になっています。が、やはり文学ではない、ようです。
 この短編の前提が、19から23節、「イエス、弟子たちに現れる」です。復活の主との出会いを喜び、さらに聖霊を吹きかけられて派遣される場面です。この決定的な場面に、なぜトマスは参加していなかったのか。その理由は書かれていません。
 そして、24節以下は、「イエスとトマス」という大きな小見出しです。主演スター二人の対決のような小見出し。冒頭24節、「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とだけ書いてあります。25節、「そこで」と始まり、トマスは言ったのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。若い時代、ここを読んで、そうだ、そうだ、トマス、良いぞと無邪気に喜んだのが懐かしいです。が、ちょっと待て、福音書の何処にも、イエスさまがその手を釘で打たれたとは記してない。西洋宗教画の影響で、そのイメージがインプットされてしまったようです。二千年前、当時そんな事実もなかったのです。十字架上の死体は、ロープや革紐でぐるぐる縛りつけられたのです。
 ヨハネの時代には、エルサレムも徹底的に破壊され、イスラエルは国家喪失していました。伝承が伝承を産んでいったのであります。しかし、若い頃の私は、この残酷なイメージに引き付けられてしまいました。じつに迫力ある場面として焼き付いてしまったのです。
 しかし、釘で打ち付けられたことが事実であるかどうかが、この場面の中心ではない。トマスの発言があまりにも迫力に満ちていたので、若かった私は、ついつい引き摺り込まれてしまったのです。
 では、どこが中心かというと、楕円形の原点のように二つの中心点があります。一つは、一週間前の時と同じように、「あなたがたに平和があるように」というイエスさまの言葉であります。これは明らかに神と人間(この場合は弟子たち)との和解(仲直り)を意味しています。しかもイエスさまからなされたという事実が肝心です。そして、26節、「さて八日の後」、 「鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。
 21節と全く同じであります。ということは、この言葉は明らかにトマスに向けられているという事実であります。
 あの日、弟子たちはみなイエスさまを見捨てて逃げてしまった。イエスさまの絶望状況を一緒に過ごした弟子は一人もいなかった。その上、ユダヤ人を恐れて、隠れるように固まって潜んでいた。その現場に復活されたイエスさまは、顕現されて(立ち現れて)「平和があるように」と発言され、聖霊を吹き込んで派遣された。ということは、一方的に赦した、そして励ました、送り出した。という事実なのです。この言葉が再びイエスさまからトマスに注がれた。その後、イエスさまは、意識的に、トマスの台詞通りに繰り返されたのであります。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」 そして付け加えられた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
 さあ、その直後、トマスはどうしたでしょう。トマスの顔はみるみる紅潮し、頭の中がぐるぐる渦巻きでいっぱいになった。そしてトマスの指が硬直して動かなくなってしまった。続いて、トマスの手も硬直してしまった。というよりは、指を手を動かして、手をわき腹に入れるのも忘れてしまったのです。イエスさまの目に引き込まれて、その目を見ているうちに、トマスは、自分の内部から突き上げてくるものに縛られてしまって、身動きが出来なくなっていたのです。主の、あの傷は、あのえぐられたわき腹は、俺が俺が、この俺が突き刺したのも同然だ。俺が主を見捨てて、見殺して、そして、俺が、と考えるうちに何が何だか分からなくなり、後悔と同時に、俺は罪人だ、と激しく激しく突き上げてくるものがあり、泣き出してしまった。「あなたがたに平和があるように」、 俺は、にもかかわらず、赦されている。それを知った時、トマスは叫んだ。「わたしの主、わたしの神よ」。 これはトマスの懺悔であり、何よりも、究極の、信仰告白であります。
 トマスの実証主義はとっくに消え去っていたのです。「信じる者になりなさい」。 主のこのみ言葉が、ぐさりと、トマスを刺し貫いたのです。
 「私の主、わたしの神よ」。 これが原始キリスト教の共同の告白になったのであります。
 私どもは、誰でも知的論理的に信仰を捉えたいと考えています。が、トマスを追って行くと、その論理的、しかも実証主義に対して、イエスさまは何も応えようとしません。ただ、「信じる者になりなさい」とおっしゃっただけです。ここに信仰の奥義に触れる鍵があります。論理の否定ではありません。論理で追求しながら、どこでその論理からジャンプ出来るか、が、きっと鍵を握る鍵なのです。
 信仰は持つものではありません。賜物として一方的に与えられた贈り物なのです。
 そこから発される「わたしの主、わたしの神よ」 こんな、まっしぐらな告白にまさる告白の言葉はない。私どもの信仰告白が、トマスとまったく同じであることを神さまに感謝します。ハレルヤ、祈ります。


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