列島と復興
テキスト ネヘミア記 13章10〜18節
 関東と関西では当然のことながら山、河、平野の組み合わせに始まって、交通事情、気候、経済そして人々の気質、食事など、いろいろの面で違いがあります。たとえばエスカレーターの右左、関西のプラットホームの丸、三角印による指示など、食べ物では、食パン五切れが一般的な関西に対して、六切れの関東など。結婚式の結納や花嫁道具の準備の仕方、孫が生まれた時のお祝いなど、挙げれば切りがありません。
 まして北海道から沖縄まで、気候的には亜寒帯から亜熱帯まである南北に長い日本は、ずいぶん異なっています。
 日本は島国、という言い方を時折耳にしますが、そもそも島国とは、どういう国家のことを言うのでしょうか。辞書的意味は、四方を海に囲まれている島国のことです。たとえばインドの南にあるスリランカ、アフリカ南東部にあるマダガスカルなど。
 群島国家は、まとまりをもって島々が群がっている国家、たとえばフィリピンやインドネシアなど、です。
 ならば、日本はどう形容したらいいでしょうか。私は、列島国家と言いたいと考えています。列島とは、多くの島が列をなして連なっていることです。しかも南北に連なる列島の日本は、その周囲の海には、暖流と寒流が流れていて世界に誇れる魚の宝庫(宝の倉庫)なのです。と同時に動植物の多様性と四季の変化にも恵まれています。
 しかし、です。活火山と複雑な地殻を持っている日本列島は、台風と地震の宝庫でもあるのです。
 宇宙全体の創造主である神さまから、地上の被造物の管理を委託されている人間は、委託された重責と真向かっていかなければなりません。結果としては、被造物の破壊に手を貸すことと文明の発展が重なってしまった人類史は、今根源的に猛反省を迫られているのです。
 さて、聖書には、人間のどうしようもないだらしない歴史、すなわち神との契約を破り続ける歴史が描かれています。にもかかわらず人間を見捨てること無く、愛し続ける神の導きを証しし続けるのが聖書の神髄であります。
 聖書は、具体的には、神がお選びになった選民イスラエルが、選民思想を神に選ばれた優越民族として自分らを間違って自己認識してしまった事実をも絶えず警告し続けた歴史でもあるのです。かれらの砦であるエルサレムは、なんども落城しました。その最大の悲劇の経験の一つが、いうまでもない、バビロン捕囚であります。
 聖書には、意外なことに、復興という言葉は少なくて、ダニエルとアモスにたった二回出てくるだけです。それも復旧や再建とほとんど意味が異なっていません。もちろん特別な神学的用語ではありません。
 ところで、今回の東日本大震災は、エルサレムの崩壊と荒廃とは、共通点もありますが、決定的に異なっている点があります。十七年前の神戸、淡路、大阪大震災とも異なっています。
 どこが違うか、いうまでもない。福島原子力発電所の放射能漏れ(漏出)事故が引き起こされた点であります。これは原発安全神話を信じ込まされた事実の上に起こった人災なのです。原爆投下の悲惨さを味わわされた日本がみずから引き起こした今回の放射能事故の結果がどうなるのかは、いまだに分からない。何十年にも亘って深刻な被害をもたらすだろうとことは明らかです。原発の再稼働が検討中という愚かそのものの政府と企業の、人間が人間らしく生きる権利を無視したこの悪行を許すことはできません。原発の復旧、再稼働を前提にする回復計画を認めることはできません。原発に頼らない社会を目指すこと、これは日本キリスト教団の議長声明であり、教団各教区の意志なのであります。
 こういう状況の中にいるからこそ、今エズラ・ネヘミア記を読む必要があるのです。
 現在の人災とエルサレムの荒廃と祖国再建の努力のどこが共通するのか、どこが異なるのかを明らかにして、明日を切り拓かねばならない。そこから現代の復興の神学を打ち建てる道を探さねばなりません。
 神さまがお創りになった地球の秩序を人間が破壊したという決定的な悪に対して、再びノアの洪水やバベルの塔のドラマのような、神の手による介入が起こるのかどうかは計り知れない事ですが、はっきりしていることは、何よりも人災という人間の責任の問題であります。
 今、猛省して、具体的になすべきことは、第一に原発を廃炉にすること、最低限再稼働を許さないことです。そこから原発に頼ってきた文明のシステムを切り換える道筋、切り換えが求められているのです。
 釜ケ崎の日雇い労働者が福島の現場に送り込まれている事実を思う時、現代日本人の心の荒廃(劣化)を悲しまずにはいられません。さらにベトナム人や、他のアジア人を送り込もうとしていた計画が露わにされて、またしてもアジア人蔑視、という人種差別が露わになったという事に慄然とせざるをえません。 
 この列島に生きている私ども日本人とは、一体何者なのか、生きている基本原理はどこにあるのかを、あらためて考えなければならない。
 ネヘミア記13章には、ネヘミアによる12年間掛けた改革の最終段階が報告されています。そこで展開されている問題は、まさに,イスラエルとは何かという問いなのであります。
 ただし、この場合のイスラエルの状況と現在の日本では、決定的に異なっている事実があります。
 それは国家という問題です。五十年間のバビロン捕囚時代を経て、ペルシャの宮廷から派遣されたエズラとネヘミアは、どちらが先なのか、後なのか、聖書の記事は混乱しています。現在の歴史学では通用しない、ちぐはぐな内容ですが、これは学問的な歴史書ではないので、イスラエルの再興を信仰の目で描き出した信仰告白として読み込んで行けばいいでしょう。
 ご承知のように、イスラエルとは、神と争うという意味です。そしてヤコブとその後裔の十二部族の総称であります。
 が、ユダ王国が滅んでから、バビロン捕囚が五十年も続くわけですから、国家が滅亡して以来、次第に国家は肉体的な実感から遠くなっていき、国家が風化していくのであります。日本人は、政治的権力機構と文化的共同性に拠って立つ国家の滅亡を体験したことがない。ですから、バビロン捕囚がもたらした国家の風化という危機感が、実感としてはなかなか分からない。
 この危機感の中で、当時の人々は、かれらが拠って立つ原理を必死になって探し続けたのであります。自分たちが神の選民・イスラエルであるという確認が必然だったのです。それが集中的に表現されているのが13章です。
 では、今日、あなたは、原発問題の責任をどう担おうとしているのでしょうか。この場合、日本国に所属している国民である日本人として自分を捉えているのでしょうか。それとも神に選ばれた一人のキリスト者として捉えているのでしょうか。あるいは、キリスト教会に属する信仰者として教会共同体としてこの問題に立ち向かおうとしているのでしょうか。
 ネヘミアは、国家喪失のイスラエルのエルサレムに戻って、13章の1から3節では、「混血の者を皆、イスラエルから切り離した」
とあります。イスラエル純血主義です。捕囚時代に異邦人との混血が進んだわけですが、その人々を切り離した事実が、はたしてイスラエルの回復に繋がったのでしょうか。戦後の日本でも混血児への差別が続きました。ソロモン王が異邦人と結婚している事実もあります。
 そもそも単一民族純血国家は、幻想であって、歴史の事実は違っています。聖徳太子時代の宮廷では、日本語と韓国語のバイリンガル(二カ国語)の会話が自在になされていたようです。ということは、韓国系渡来人が都の中枢で大勢活躍していたということを意味しています。
 もとに戻ります。ネヘミアの民族共同体の確認の意思は分かりますが、これは明らかに誤りです。国家喪失の苦しみの中からの政策とはいえ、これが後にユダヤ人差別へと逆に繋がっていく、さらに19世紀からのパレスチナへの帰還を主張したシオニズムを産み出すのであり、現在の複雑で深刻なパレスチナ問題へと繋がっていくのです。
 じつは、民族、人種、言語の共存こそ平和への近道なのです。バベルの塔の崩壊の結果、多言語、多民族、多人種になってしまったことは、真のコミュニケーションへの希望の始まり、実現への第一歩なのです。ネヘミアの切り離し政策は、私どもへの貴い反面教師からの語りかけになっているのです。
 そして、11節以下、「わたしは役人を責め、なぜ神殿を見捨てられたままにしておくのかと言った。わたしはレビ人と詠唱者を集め、務めに就かせた」とあります。国家が喪失したままのエルサレムで、神に立ち帰る以外には、イスラエルの回復は考えられなかったのです。律法を再確認して、神殿を回復すること、これが唯一の回復の道だった。政治、経済、文化、倫理の危機の中に追い詰められた人間の群れが立ち上がる道は何でしょうか。人間に人間としての誇りを呼び起こしてくれるもの、それは倫理的基盤に立つ、神と人間との絆の回復しかない。心の力の劣化(衰え)、心の廃墟から立ち上がらねばならない。
 その場合、人間に基盤を置くヒューマニズムでは、人間の全体的な回復は頓挫する。全存在を賭けた厳しい自己反省が必要なのです。人間を越えた絶対的他者である神からの眼差しを受け入れなければ回復への一歩を踏み出せない。この点では、ネヘミアは全く正しい。
十五節以下の安息日の厳守、これも正しい。ただし、イエスさまは、安息日のための安息日を批判しています。人間のために、安息日はあるのです。
 さあ、ここからが肝心です。絶対的他者としての神からの眼差しを受け入れるということは、国家を絶対化するのではなく、国家を相対化する目を持つということなのです。私どもキリスト者は、この目を与えられています。だから、キリスト者が、今日、神の選民なのです。私どもの故郷は天にあるということは、地上の国籍離脱の自由をさらに進めて、国家に向かって預言者の務めを果たすことでもある。その姿勢が、原発に頼らない社会建設への希求になったのであります。
 日本列島に生きているということは、地震と台風をも覚悟することであります。ほんとうの天の故郷以外何処に住もうとも、苦しみと困難は付きものです。ですが、神さまと共に生きているかぎり、生きていることは、希望であり、喜びであり、感謝であります。
 この日本列島の現場から、劣化した心の、地域の、国家の、地球全体の復興を目指して、できることから始めていくことが私どもキリスト者の使命なのです。教会がここに在ることの意味は、信じて、何度でも、立ち上がることであります。
 祈ります。


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