骨に力を与え
 70代に入ったら、どこに住んでいるだろう。温かい海辺の町で、沖を行く舟影を見やりながら、「蜜柑の花が咲いている」などと唄うだろうなあ。夕餉の食卓には、ぷりぷりの刺身が皿を飾っていて、妻と二人で、青春時代に通った音楽喫茶、3本立ての映画館、一緒に行ったワークキャンプなど、いっぱい語り合うんだろうな。その頃どんな眼鏡を掛けているかな。なんて30代の頃、夢想していました。
 そしてさらに齢を重ねて、30年あまり。
 まさか、地震を潜り抜けて、堺市に赴任して、教会専従者になっているなんて、思ってもみなかった。「温かい海辺の町と蜜柑」は、当たりましたが、土師の町のイメージとは違うなあ、実感がないなあと思ったりします。ここに来て一年が過ぎました。
 初めての春夏秋冬を経験しました。今年も咲いた花桃、咲くだろうライラックがあります。厳しい寒さのため枯れてしまった観葉植物パキラもあります。小鳥、昆虫の種類は、ある程度頭に入りました。
 が、まだ慣れないものもあります。床屋さんとの会話、土師弁で喋る自信がありません。東西南北がよく分かりません。磁石を買いましたが、磁石が北を指してくれても実感がない。「えっ、こっちが北?」。 30分に一本の一路線バスに吹き込んである言葉の内、「南海バス」なのか「何回バスに乗ったら南海バス」なのか発音からは分からない。
 うれしいこと、スーパーで、刺身が安くて美味しい。柑橘類の種類が多くて、味覚の違いが楽しめる。
 しかし、恐怖が四つあります。一つ、自転車を楽しめない。道路が狭くて危ない。脛に傷持つ身になりました。二つ、バスに遅れたら、30分近く待たざるをえない。大阪も京都も奈良も遠い。三つ、近くに映画館、図書館、レストラン、銀行、本屋がない。そして、四つ、現在ただ今の日本の政治や社会が瀕死の重傷で、車ならば百キロも渋滞したまま、出口が見えない。
 現在の日本の体たらくてぶりには、呆れて物が言えない。というよりは、私は怒っている。大阪府に絞って見ていると、大阪都構想、一見魅力的に見えますが、胡散臭い。それどころではない。大阪府が生活保護者数日本一。君が代条例の実行。勝ち組と負け組への階層二分化現象が顕著。教養・文化への個人投資費用、最低の日本一、も、大阪府です。
 まことに骨の力萎える毎日。
 さて、今日のテキストは、イザヤ書の最終部分。第三イザヤの活躍が描かれています。ユダ王国もついに追い落とされ、エルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はバビロンに捕虜として引き摺られていきました。そして半世紀に及んで、屈辱的な辱めを受けて、誇りを失い、選民思想は地に落ち、民族共同体は瓦解寸前まで追い詰められてしまったのです。その危機の中で、われわれユダヤ民族とは何者なのか、なぜここまで追い詰められてしまったのか、だいたい神の選民とは何だったのかと、深刻に問い直さなければならなかったのです。
 そこから根本的に、神の救済史としての歴史を捉え直していった。その結果、ユダヤ教のシステムと思想体系が成立していったのです。旧約聖書は、こうしてまとめられたのであります。
 紀元前583年にようやっとバビロン捕囚が終わりを遂げた時、ユダヤ人たちは、強固なユダヤ教徒として共同体を形成して、歴史の中に顔を出してきたのです。
 バビロンからイスラエルへの帰還の喜びは、聖書に詳しく書かれていますし、みなさんと共に学んで来ました。帰還は新しい出発であります。この辺りのユダヤ復興への道程、具体的には、エルサレムの神殿再建への熱い期待と失望、その中での律法の確認、安息日の遵守の主張など、二千数百年以前のことでありましたが、民族共同体再建までの、その困難と悲惨は、想像を絶するものであったでしょう。
 しかし、そこには、希望があったのです。彼らが立ち直れたほんとうの理由は、神の選民として導かれてきた自分達が、神に背いて、罪の世界に堕落していったこと、自分らの犯した罪を徹底的に悔い改め、立ち帰ろうとしたからなのであります。ユダヤ人の幸せは、立ち帰るべき原点を持っていたことです。
 さて、その二千何百年後、わたしどもの日本の第二次大戦の敗戦と再生が、どれほどの困難と悲惨を伴ったかは、私どもが経験した通りです。私どもには、民族共同体が立つ基盤があったでしょうか。明治以来の擬似宗教国家、天皇絶対制の軍国主義の崩壊した日本の再生を支えた思想的根拠は、はたしてあったのでしょうか。戦争放棄と平和を願う新憲法だけがわたしどもが拠って立つ希望原理ではないでしょうか。
 そして、去年3月11日の東日本大震災と福島原発の放射能事故、これは第二の敗戦なのです。この未曾有の苦しみを生き抜く根拠も平和憲法にしかありません。これはあまりにも明白です。
 かつてのバビロン捕囚からの帰還と祖国再建への熱情と困難と、2011年3月11日以降の日本の未曾有の苦しみには、互いに重なっている呻きがあります。
 今日、私どもに与えられた、イザヤ書五八章から私どもは何を学ぼうとしているのか。この動機の一つは、日本国憲法が保障する信教の自由を生きる者としての意義を確認したいのです。が、根本的には、神の不在の中にいる日本人に、神を持たない日本人に、今、訴えておくべきことは、何なのかをイザヤ書から聞こうとしているのです。
 そのためにも、58章の冒頭から学ぼうと思います。まずは、1、2節をご覧ください。わたしの民にその背きをヤコブの家に、その罪を告げよ。
 のっけから何という厳しい詰問なのかと思われるのは当然なのですが、祖国再建の槌音高い、喜びの声が聞こえると期待したいところですが、事実はそうではなく、イスラエルに帰還したのは離散されたユダヤ人の中でも少数派でありました。帰還した人々と残留していたユダヤ人との争い、仲間同士でのいさかいなど、現実は、混乱と暴力の現場と化していた。あれほどの再建への熱情はどうなったのでしょうか。熱情があればそれでことは進むというほど現実は甘くはないでしょう。が、神の選民として再出発したはずの民族の実体が、神への背きであった。預言者を通して神は厳しくこの人間の罪を弾劾します。二節は、ちょっと分かりにくいのですが、

  彼らが日々わたしを尋ね求めわたしの道を知ろうと望むように。

 これは、神に従う道を求めようとしない者たちへの痛烈な皮肉なのです。
 それに対して神の民は反論します。

  何故あなたはわたしたちの断食を顧みず
  苦行しても認めてくださらなかったのか。

 と。いかにも正論に見えます。が、これがまったくの過ちなのです。律法を文字通り実行すること、は、一見正しく見えますが、だんだん形式化して形骸化していく。何のための断食なのかが忘れられて、断食していれば正しいという自己肯定の罠にすっぽりと入り込み、溺れていることも自覚できない重症患者になってしまうのです。私どももよくよくたえず自分を反省的に見てみていかないと陥ってしまう偽善という罠なのです。
 ですから、預言者は、まっすぐに批判して来る。3節後半から4、5節。これらは、正しいと思って行う断食の裏側の実体を暴き出して批判している。

  見よ、断食の日にお前たちはしたい事をしお前たちのために労する人々を追い使う。

 じつに直截的な指摘です。どきっとする。「したい事」をしたい放題やることの図々しさ、
厚かましさ、何よりも神に従うと見せかけた裏切り行為なのだ。この傲岸さが蔓延る時、共同体は内部から崩れ落ちる。四節、同じ事が指摘される。

  お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし
  神に逆らって、拳を振るう。

 そのような民に対して、

  お前達の声が天で聞かれることはない。

 これは決定的な神からの答えなのだ。形だけの反省、形骸化した悔い改め、その演技を神は見逃さない。そして6節以下、神は、ほんとうの断食とは何かを、具体的、直截的に、噛んで含めるように教える。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にパンを裂き与えさまよう貧しい人を家に招き入れ裸の人に会えば衣を着せかけ同胞に助けを惜しまないこと。
 えっ、これが断食? 早まらないでください。形式化した儀式を正しいと、勝手に判断して、その実、神に向かって拳を振るっている人間の愚かさに対する弾劾であり、諭しなのです。6節の軛は、2頭の牛やロバを一対に結び付ける棒の仕組みであり、これは奴隷状態の比喩でもあります。奴隷と富の所有者へと二分化されて行く古代社会の歴史的背景が、ここに見えている。
 8節「そうすれば」と、これらの断食の真実の意味を実行すれば、と、言っているのです。何という困難な道。しかし、この道が神に従う道なのです。神の選民であるユダヤ民族でさえ、祖国再建の初っぱなに於いてさえ、このように、神に向かって拳を振るう行動に出たのです。が、ここからほんとうの断食に向かって再びあゆみだしていったのであります。
 まして人格神不在の現在の日本に於いて、第二の敗戦と言われる現状の中で、日本列島の復興はどうあるべきなのでしょうか。今日のテキストの言葉の前で、どう応えたらいいのか、教会に連なる私どもは、問われているのです。
 今日は、伝道集会が午後に控えております。ほんとうの神に出会う機会をたえず私どもは整えていなければなりません。それと同時に軛を折り、パンを裂き与え、貧しい人を招き入れ、裸の人に衣を着せる。そういう必死な働きがあれば、そうすれば、主は、「わたしはここにいる」と応えてくださるのです。この、私と主の応答がなければ、社会的正義は持続しない。神と人間との絶えざる応答を通してのみ社会の変革は可能なのだ。これが原始キリスト教成立以来のキリスト教の福音の実践なのです。その時、11節、主は常にあなたを導き焼けつく地であなたの渇きをいやし骨に力を与えてくださるあなたは潤された園、水の涸れない泉となる
 ここを読んでいると、懐かしさが込み挙げてきます。いつか見た、知った、味わった園です。そうです。エデンの園です。「あなたは骨の骨」です。神の似姿である人間である故に、神は私どもの支えである骨に力を与えてくださるのです。
 今の日本は、こういう厳しく、そして慈愛に満ちた神に出会っていません。神に出会うとは、同時に安息日を守ることなのです。13節、安息日に歩き回ることをやめわたしの聖なる日にしたい事をするのをやめた時、初めて、14節そのとき、あなたは主を喜びとするのであります。安息日を守る、私どもキリスト教徒とは、教会礼拝と教会生活を原点として、共同体を生き抜いていくべきなのです。
 18世紀以降のヒューマニズムは、人間を過信するあまり、歩き回り、したい事をしてきました。その結果、人間絶対主義という決定的な病いの囚人になってしまったのです。解放はどこからくるのか。もう言うまでもないでしょう。解放された者だけが、他者を解放する力を与えられているのです。
 私どもの使命は重い。が、これは誇るべき、喜びの使命なのです。
 祈ります。
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