天まで届く塔
 奈良市にある薬師寺の東塔をご存知でしょうか。天平2年(730年)に建立された美しい塔であります。あまりにも美しいので、「凍れる音楽」と形容した人がいるほどです。
 この東塔を歌った有名な短歌があります。
 
 行く秋の大和の国の薬師寺の
       塔の上なる一片の雲
 
 場所や方角や位置などを限定する助詞の「の」が6回も使われています。「行く秋」という時間の中の深まる秋という季節の中にある空間の中の「大和」 すなわち奈良県にある寺、「薬師寺」 にある「東塔」の「上」にある 「一片」の「雲」 とカメラを移動して行って、一片の雲を浮かび上がらせる。みごとな描写力です。一貫しているのは、地上からの視線です。
 日本各地にある三重、五重、七重の塔など、日本人の心を揺さぶってきた塔は、じつは釈迦の舎利、骨を収めた聖なる塔であり、釈迦が立っている姿だとも言われています。奇数が聖なる数であるのは、興味深い。おそらく割り切れない奇数に神秘を覚えるのでしょう。天に向かって立つ塔の姿から、地上の古代人は、身を焦がすような天上への憧れを掻き立てられてきたのであります。地上から天上への身を焦がすような憧れ、洋の東西を問わず人間に共通した心情であります。日本の塔のイメージは、東南アジアのストウーパ、西欧のゴシック建築であると想います。すべて天を仰ぎ見る視線が、一貫しています。
 さて、今日のテキスト創世記11章1〜9節の小見出しは、「バベルの塔」です。世界の創造物語から神に祝されるアブラハム以下の人間の歴史に入って行く直前の物語の最後を締めくくっているのです。
 その「バベルの塔」のすぐ前が、みなさんがよくご存知の「ノアの方舟」です。祝されてこの世に現れたはずのアダムとイブが堕落して楽園を追われて以来、人類最初の殺人事件、兄のカインによる弟アベル殺しと続き、ろくでなし人間の歴史の連続を見ていた神は、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(「創世記6章6節」)。 失望を重ねていました。にもかかわらず、人間を絶滅なさらずに、ノアの一族と家畜、その他の動物などを方舟に乗せて、新天地へと脱出させてくださったのであります。ノアの洪水物語りは、神の怒りと裁きではありますが、同時に神が人間を愛し続けている恵みの物語でもあったのです。
 「ノアの方舟」の最終場面では、鳩がオリーブの枝を銜えて戻ってきたのでした。それは陸への帰還の希望でありました。そして、地が渇いた後、神は、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(9章1節)と言って祝しました。あらためて人間に生き物たちの世話を委ねたのです。
 さあ、その後、ノアの子孫はどうしたのでしょうか。続く物語が、なんと「バベルの塔」なのです。ノアの息子の子どもが犯した、神さまへの裏切りが、またしても起こったのです。
 なんという人間の愚かさ、ろくでなし。しかし、これも否定しようのない人間の現実なのであります。人間に与えられた知恵と意志の使い方を間違うと、ブレーキがかからなくなってしまいます。
 「バベルの塔」、 これもまた裁きの物語なのです。短編物語でありますが、内容は二部構成です。前半は、1〜5節まで、天まで届く塔がある町を建設しつつある途中までです。後半は、五〜九節まで。言葉の混乱と人間が離散させられるまでです。これは、なぜこうなったのかという原因を語るお話ですが、これも神の裁きだと受け止めたイスラエル民族の解釈なのです。
 ところで、バベルは、ほんとうに在ったのでしょうか。
 11章は、こんなふうに始まっています。1節、「世界中は、同じ言葉を使って同じように話していた、東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこにに住み着いた」。 
 聖書の後ろ側にある地図を開けられる方は、Tの「聖書の古代世界」をご覧ください。アラビア砂漠の右上のバビロンがお分かりですか。チグリス川とユーフラテス川が流れています。この辺りがアダムとイブがいたエデンの園です。
 ノアの方舟が辿り着いた所だと言われるのが、その上にあるアララトです。ここは現在のトルコにあるアララト山です。よく雪を被ります。フランシスコ会訳の聖書の後註によれば、11章2節の「東の方から」の東は、「アララト山からのセム族の最初の移動を描いたものであろう」とあります。つまりノアの息子の子孫なのです。
 みなさんは、ブリューゲルがエッチングで描いた「バベルの塔」(1563、4年) を見たことがあるでしょうか。壮大な塔、そのものが都市という絵です。建設中と完成した姿の二つの絵があります。これはまったくの想像力の世界の作品です。
 が、現代は考古学が発達していますから、バビロニア帝国の発掘作業も目を見張る成果を挙げています。
 メソポタミアに建てられたバビロニアは、もちろん山岳地帯ではありません。二つの川を持つ肥沃な平野であり、岩石がほとんどありません。その代わりに大量の粘土質の沖積土に恵まれていました。この粘土を焼いて、煉瓦を造ったのであります。3節、「『れんがを作り、それをよく焼こう』」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」のでした。
 日本も明治以後、煉瓦建築が発達しました。京都の同志社大学には、クラーク神学館や、新島記念チャペルをはじめ貴重な重要文化財がいまなお現役として使われています。キリスト教以外の建築の中で、煉瓦建築の傑作は、言うまでもなく東京駅です。
 話をテキストに戻します。バビロンの都市建設は、壮大なものになっていきました。その都市の中にジグラトと呼ばれる聖なる塔があります。これは神々の聖所(聖なる場所)なのです。
 テキストに現れたバベルの塔だと推定される塔の廃墟も発掘されています。シュメール時代に始まってアッシリア時代を経て、とうとうペルシャ時代に破壊されてしまった廃墟です。
 そのジグラトは、驚くべき規模なのです。記録に拠れば、七階建ての塔です。その1階の広さは、91.4b、高さ36.5b、3階の高さ20b、3、4、5、6階の高さ6.4b,7階の高さ17bもありました。 ちなみに粘土は、文字を記す板として貴重な働きをなし、後代に貴重な記録を残してくれたのです。
 イスラエル民族も当然この事実を聞いていた、あるいは読めたかも知れません。そこでなぜ、これほどの都市と塔が崩壊し破壊され、廃墟として放棄されていったのかを考え抜いたのであります。
 そこから、人間が築いた文明の本質を捉え直したことが一つ。さらになぜ人間の言語が数え切れないぐらいに別れているのかの原因を考えついたのです。この二つ事柄を神さまとの密接な関係から考えついたのが、今日のテキストなのであります。
 ところで、私どもも幼い頃、中学校で英語に触れて以来、何回も考えました。なぜ世界には言葉が幾つもあるのだろう。もしも、世界が、一つの言葉で暮らせたらどんなに便利だろう、暮らしやすいことだろう、と。そしてエスペラント語の普及運動について教わって、宮沢賢治もいつか自分の作品がエスペラント語に訳されることを望んでいたようだと聞き心震わせたものです。
 小学校の頃は、なぜ標準語と方言があるのだろう。日本中が標準語ならばどんなにいいだろうと、無邪気に夢想したものでした。古代イスラエル人は、世界中の人々は、一つの言語だったに違いない、と、そしてなぜ言葉がばらばらになったのかと考えたのです。実際バビロン帝国では、多民族多言語に悩んだ結果、アッカド語を強制して国家の意思統制を図ったのであります。
 ここから「バベルの塔」の解釈が生まれたのでした。
 4節、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」。 ここにあるのは、自分たち一族の名をとどろかすこと、すなわち権力を手に入れようとする野心であります。七階に神殿があったのです。地上から天を仰ぐ、身が焦がれるような憧れという一貫した姿勢とは全く違って、その天を自分たちが独占しようとしたのです。ということは権力の誇示であり、権力の神格化なのです。
 天まで届く塔を俺たちが建てたのだ、俺たちの権力に及ぶ者は他にはいない。言わせてもらおう、権力とは俺たちなのだ。
 この奢り、この傲慢は、神に従う道に背くものであり、神に背を向ける裏切りであります。
 話は、ここで少し飛躍してしまいますが、西洋キリスト教の神の観念が日本に与えた2つの現象を紹介しましょう。1つは、織田信長の戦国時代です。それまで城と言えば山城しかなかった日本に西洋式の城概念が輸入されたのが信長時代です。信長がキリスト教に好奇心を駆り立てたことは有名な話です。その影響がもろに出てきたのが茶道と近世の城郭建築です。
 茶道が、聖餐式の変形であるという見解は現在広く行き渡っています。千利休、高山右近などと茶道、切支丹の関係を追って行けばある程度うなづいていただけるでしょう。
 信長が築いた安土桃山城の復元図を見れば、これがゴシック聖堂の影響であることが分かります。私の幼い頃までは、日本のカトリックも天主教と名乗っていました。天にいらっしゃる主人の教えだったのです。カトリック聖堂は、天主堂だったのです。天守閣は、最初は天主閣と表記していたのです。後に天守閣に変わりました。城下町を見下ろす天守閣は、大名が占拠していました。まさに権力の神格化を地でいったのです。
 もう一つは、明治維新の後、天皇親政を絶対化して行くためには、天皇の神格化が必要になっていきます。そのとき、欧米のキリスト教唯一神体系に注目したのであります。こうして天皇を神聖にして犯すべからざる神として基礎づけて、造りあげたのが擬似宗教国家、天皇制の近代日本なのであります。
 神に創られた被造物の人間が神の座席に座った時、その人間が創り出す文明であるバベルの塔は必ず崩壊していきます。
 7節、神は言いました。「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」
と。バベルは、混乱(バベルとバラルの語呂合わせ)なのです。9節、「主がそこから彼らを全地に散らされたからである」。「彼らの言葉を混乱させ」ることは、権力の神格化を崩壊させることなのです。その結果、人間は、あちらこちらに離散させられ、ばらばらになってしまったのです。方向を間違えた文明は悪なのです。
 今現在、日本および世界は、バベルの塔の危機を経験しているのではないでしょうか。
 原発の大事故という未曾有の恐怖の中にさらされている今の日本、人民を餓死させてもミサイル実験に走る北朝鮮、世界経済の混乱の中で、離散させられた人間たちが、いま絆という言葉を梃子にして、何かを必死に捜し求めています。ほんとうに必要なものは何でしょうか。
 人間が求めている普遍的価値はどこにあるのでしょうか。
 ろくでなしの私どもを、それでも見捨てず、イエスさまというひとり子を地上に送って、人間を贖った、神の自己犠牲であるキリスト教なくして、21世紀は立ち上がれない。
 原発を廃炉にする決意を日本キリスト教団の石橋議長が、議長声明を出した今、土師教会も悔い改めをせねばなりません。教会総会が午後開かれます。会員一人一人が、この世界をどのように歩んでいくべきかを真剣に考え行動する動機を手に入れる午後にしましょう。
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