今日わたしと一緒に
 関東平野の春は、一面緑色になった麦畑を、突然土埃の強風が襲いかかってきます。空気が乾いているのです。冬の空っ風と春の土埃、それでも春となると麦の背がぐうんと伸びて、菜の花とソメイヨシノが匂い、うららかな春が広がります。
 65年前の4月、敗戦後、日本がまだ本格的には立ち直っていない頃、占領軍のジープが走り回っている頃、私は婆ちゃんに手を引かれて、小学校の校門を潜りました。その日校庭は桜が満開でした。が、強風が吹いていて、土埃が襲ってきました。桜の花びらが風に舞っている。その中を一年生が列を作って会場に向かったのです。その時、私は突然握っていた婆ちゃんの手をはずしたのです。
 なぜか、まわりの子供たちは、婆ちゃんよりもずっとずっときれいな女の人たちと手を結んでいたのを見たからでした。
 咄嗟に思い出したのは、カトリック幼稚園のクリスマスの日、背が高いヒマラヤ杉のツリーの陰から私をうかがっているようなきれいな人のことでした。ああ、あの人がお母さんなのだ。「おかあさんとおばあちゃんとどっちが好き?」と何度も何度も聞かれたあの言葉、「おばあちゃん」と、答える度に、「やっぱりねえ」と近所のばあちゃんたちは、深々とうなづくのでした。その度に私の目には、「おかあちゃん」という人がほのかに浮かんできて、猫の家族の絵に出てくる母猫という存在が気になるのでした。が、誰も「おかあちゃん」という言葉の意味を教えてくれませんでした。
 うれしいはずの入学式が私の心に重い影を落としました。
 幼い頃、私どもは大家族で生活していたはずです。あとから訊いたところでは、1945年の3月10日からのB29の連続空襲による東京、埼玉の炎上の衝撃の結果、家族が生き延びるために咄嗟に二つのグループに別れて暮らすことにしたのです。七人の子供たちをどうやって二つに分けたのか。じゃんけんぽんで勝った順に、子供を指名したのです。記憶にはもちろんないのですが、その結果、祖母に選び取られた幼い私から「母」が消えてしまったのでした。
 「おかあちゃんとおばあちゃんとどっちが好き?」 母を忘れていた幼い魂に「母って何?」という問いに目覚めさせた残酷な質問だったのでした。おそらく祖母と母の確執の間で、二つの家に出入りしながら育った私は、
 「私を思い出してください」
 と、祖母にも母にも訴え続けて二つの家を舞台にして、成人したのです。
 さて、今日のテキストでも、犯罪人の一人が42節、同じ言葉で訴えております。
 32節、「二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」。
どの福音書にも登場する二人ですが、イエスさまと二人の盗賊の三者が噛み合うドラマは、ルカによる福音書だけであります。十字架があるのは「されこうべ」という土地でしたが、頭が晒される地という意味です。エルサレムの郊外ですが、いまだにこの場所を特定出来ていません。おそらく地形から付いた地名だろうと言われています。33節、「イエスを十字架につけた、犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」。 多くの伝承は、この中の悪い犯罪人が左に付けられたと伝えている、」 そして右側に付けられた犯罪人が、ドラマの核心の人物なのである。使徒信条でも、「神の右に座する」のがイエスさまであります。
 そして34節、赦しの祈りが十字架上で始まったのであります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」 彼らとは、イエスさまを裁いたユダヤ人のことです。彼らの無知をイエスさまは指摘しているのですが、無知とはそのまま罪の中に沈んでいる自分自身に気が付かない状態のことです。このような赦しの祈りが十字架刑の現場から始まったと記されているのもルカによる福音書の特長です。
 着ているものを剥がされ、最後の一枚をも剥ぎ取られて、むきだしの恥辱のままに晒し者にされる。これは旧約時代から、捕虜たちが辿った道です。
 しかも死刑中の死刑である十字架刑は、即刻命を断たれるのではなく、いや増してくる苦痛のままに24時間以上放置されるのです。やがて死んでいく犯罪者の足下には飢えた野犬が群がっていたのです。
 イエスさまの場合、十字架の周辺では、ローマの兵士たちが、イエスさまを侮辱します。34節、「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とあります。これはあみだくじではありません。賭け事をして奪い合う。これも旧約以来の習慣です。囚人の服になぜ、くじ引きか。じつは一八世紀まで服というものは、非常に高価だったのです。一八世紀のイギリスでさえ、病院で死者が出そうになると民衆が待ち構えていて、死者が出たとたん、衣服を奪い合ったのです。まして絶対的貧困の中にあった二千年前のイスラエルを考えれば、納得できるはずです。が、ローマ兵士の場合、これだけでは説明が足りないでしょう。37節、「『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』。」 38節「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった」とあります。「ユダヤ人の王」と発言したのはユダヤ人の支配者たちでありますが、ピラトはほんとうかと訊いて、「ユダヤ人の王」と書きました。「これは」と強調しているのは、ユダヤ人当局へのさらなる皮肉です。ローマの兵士たちは、第三者の立場から野次を飛ばし、からかい、侮辱したのですが、その心には、俺たちには関係ないよ、おまえたちユダヤ人というのは馬鹿げたことに熱中するなあ。自分を救って見ろよ、見届けてやるよ。という皮肉がそこにはあるのです。ちょっと戻って、35節、「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」。 彼らは、自分たちは、厳格なユダヤ教徒だから救われている、それ以上の必要を感じていないよ。あんたが神から遣わされていると言うならは自分を救ってみたらどうかね、といわば挑発して、あざ笑うのです。
 あっ、そうだ。これは悪魔の誘惑の場面とそっくり。その通り。議員たちは、悪魔の代役を演じているのです。イエスさまは、当然、「主を試みてはならない」と心の底で答えて拒否したのであります。
 イエスさまは、自分の命をこの世に与えようとして父の御心を果たそうとしています。その現場で、くじ引きとあざ笑いという滑稽を通り越した愚かな現実が並行している。こんな、されこうべの刑場の光景を描き出した福音書記者ルカの冷静な分析と構想力には、驚かずにはいられません。
 さて、ルカの独自な構想力は、他の福音書の記事からぬきん出て、犯罪者にとっての十字架とイエスさまにとっての十字架の意味を問い直すのであります。2人の死刑囚は何者だったのでしょうか。おそらくユダヤの独立を叫んで武力に訴え出た熱心党の幹部であったろうと思います、ローマ世界の秩序を乱し神を誹謗した廉による政治犯として処刑されるイエスさまと、武力解放を掲げて蜂起した反乱者たちは、同罪者として十字架に架けられたのであります。この右の犯罪者は、左の犯罪者に対して、たしなめます。40節、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。 「お前は神をも」と強調しています。なぜイエスさまが神であると分かったのか。その理由は、「この方は何も悪いことをしていない」という発言に尽きます。その方が自分たちと同罪で処刑されることが不当である。そして処刑そのものが恐れ多い犯罪だと言っているのです。
 この右の囚人の考えは、半分正しい。が、あとの半分、イエスさまが自分の命を投げ出し、死刑という苛酷な出来事を通して、人々の罪を贖おうとするほんとうの意味が見えない。
 右の囚人は、さらに付け加えます。42節、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。冒頭の「イエスよ」という呼び掛けに注目したい。「主よ」という呼び掛けは、何度も聞いていますが、「イエスよ」という名前をむきだしにする呼び掛けは、どういう意味があるのでしょうか。「おい、太郎、おい、ジョー」と言うように特別な親愛感があるのでしょうか。「あんたが人間を越えた神でなかったら、神の御国の門を自分で開くことはできない。あんたは神だ」と。この囚人は、信仰告白をしたのであります。この囚人は、自分の罪をまっすぐ認めています。十字架上の極刑の只中でのこの告白。この信仰告白は、謙虚であり、控え目ですらあります。
 「私を思い出してください」という意味は、「主よ、連れて言ってください」というひたすらな切なる訴えなのですが、「思い出してください」という言い方には、悪党とは思えないひたぶるな心の傾きが感じられます。
 エジプトの聖家族伝承の一つ、イエスさまを抱いたマリアとヨセフは、辿り着いたエジプトで、盗賊に捕まってしまいます。けれども、その盗賊は、赤ん坊のイエスさまがあまりにもかわいいのと、えもいわれぬ高貴な気品を感じて祝福して、「いつか私があなたから憐れみをいただく機会が訪れたときには、「私を思い出してください」と祈るように話したという伝承が残っているそうです。この盗賊が、この右の囚人だったのかもしれません。もしそうでないとしても、この囚人は、本来無垢な心の持ち主であったのだろうと思われます。
 43節、イエスさまは、答えました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
 この今日とはどういう意味でしょうか。今日とは永遠の今日であります。イエスさまと出会った決定的な今日この時です。永遠の神が、わたしの今日の中に突入してきたのです。永遠の今日とは、永遠の今、この時なのです。そして45節、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」。至聖所との隔てがなくなったのです。御国が出現したその時、イエスさまは、46節「息を「引き取られた」のです。
 聖書には書いてありませんが、この2人の囚人はイエスさまが息を引き取られたあとも、十字架上で苦しみ続けたに違いありません。が、右側の囚人は、十字架上にいたまま、御国に迎えられたのであります。それが、「今日わたしと一緒に楽園にいる」なのです。
  私は、かつて何度も、祖母と母の顔を思い浮かべながら、「私を思い出してください」と念じながら叫びつづけました。が、イエス・キリストこそわたしの主であり、辛い時にも寂しい時にもイエスさまがいつもいつも一緒であると感じられるようになったのです。
 それは劇的な回心によってではありません。静かにゆっくりとわたしの渇いた心に染み入ってきたのです。今は、私が祖母や母を感謝を持って思い出しているのです。そしてさらに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」と励まされているのです。
 私どもも、現実のこの今日の現場では苦労が尽きないのですが、信仰によって、同時に、今日今、御国の住民なのであります。喜びを持って、感謝しながら、光の子として歩んでいきましょう。
「あなたは今日わたしといっしょに楽園にいる」
 ハレルヤ。 
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